心中電車
夜8時46分。
都会の喧騒が少しずつ静まり始める時間。
ホームの一番端、普段は誰も立ち入らない場所に、一両だけの古い電車が静かに姿を現した。
錆びた車体。木製の床。どこか懐かしいオレンジ色の照明。
行き先表示には、たった四文字だけ。「心中電車」と
その電車に乗れるのは、恋人同士だけ。
しかも、お互いの心がすれ違ってしまった二人だけだった。
車掌も駅員も、その存在を知らない。
乗った人だけが、その電車を覚えている。
そして降りた頃には、誰にも話せなくなっている。
だから誰も知らない。
今日もまた、何組もの恋人たちが乗り込むことを。
「……乗る?」
祐介が小さく尋ねた。
隣に立つ美月は何も言わない。
二人は高校二年生。
一年半付き合っていた。
最初は毎日のように電話をして、休みの日は一緒に映画を観て、公園でアイスを食べて、くだらないことで笑っていた。
でも最近は違う。
「既読」がついても返信は夜。
会ってもスマホばかり。
話したいことはあるのに、何から話せばいいのか分からない。
そんな毎日だった。
今日。祐介は別れ話をするつもりだった。
美月も、それを分かっていた。
静かに扉が閉まる。
ガタンゴトン。
電車は走り始めた。
車内には他にも恋人たちがいた。
結婚式を一週間後に控えた二人。
遠距離恋愛になる大学生。
子どもを抱いた若い夫婦。
定年を迎えた老夫婦。
年齢も事情も違う。
けれど全員、どこか寂しそうな顔をしている。
「ねぇ。」と美月が口を開いた。
「今日で終わりにする?」
祐介は少し笑った。
祐介「そのつもりだった。」
美月「そうなんだ。」
祐介「うん。」
また沈黙。車輪の音だけが響く。
ガタン、ゴトン。
ガタン、ゴトン。
その音を聞いているうちに、不思議と昔の記憶が浮かんできた。
初めて手をつないだ日。
文化祭で一緒に写真を撮った日。
帰り道、雨に降られて二人で走った日。
全部、ちゃんと覚えていた。
忘れたと思っていたのに。
その時だった。
「失礼します。」
白い制服を着た年配の車掌がやってきた。
帽子を深くかぶり、優しい笑顔を浮かべている。
「切符を拝見します。」
二人は切符を渡した。
車掌は小さく頷く。
「ありがとうございます。」
パチン。
穴を開ける音。
そして車掌は言った。
「終点まで、あと三駅です。それまでに、一番伝えたかった言葉を口にしてください。」
そう言うと車掌は次の車両へ歩いていった。
美月は苦笑した。
美月「一番伝えたいことか。」
祐介「難しいね。」
2人は窓を見つめる。
外には星空が広がっていた。
街も線路も見えない。
まるで夜空の上を走っているようだった。
祐介「俺さ。」
美月「うん。」
祐介「本当は別れたいわけじゃない。」
美月は驚いて顔を上げる。
美月「じゃあなんで?」
祐介「嫌われるのが怖かった。」
祐介「最近楽しそうじゃなかったから。」
祐介「俺といるの、疲れたのかなって。」
美月は泣きそうな顔になった。
美月「違うよ。私も同じだった。」
美月「返信が遅いのも、学校が忙しくて。」
美月「でも言い訳ばっかりになる気がして。」
美月「話しかけるのが怖くなって。」
二人とも笑ってしまった。
祐介「なんだ。同じこと考えてたんだ。」
その瞬間だった。
車内のあちこちから笑い声が聞こえた。
別の席では男性が指輪を差し出していた。
「結婚してください。」
女性は泣きながら頷く。
さらに向こうでは、老夫婦が手をつないでいる。
おじいさん「六十年経っても、まだ好きだよ。」
おばあさん「知ってるよ。」
二人は照れくさそうに笑った。
また別の席では、小さな子どもが眠る。
その寝顔を見て夫婦は顔を見合わせた。
若い男性「もう少し頑張ろうか。」
若い女性「ふたりで育てよう。」
誰もが、自分の心を伝えていた。
ガタン。
ゴトン。
やがて車内放送が流れる。
『まもなく終点、しあわせ駅です。』
扉が開く。ホームには一面の花畑。
春でも夏でも秋でも冬でもない、不思議な景色だった。
恋人たちは一組ずつ降りていく。
みんな、乗る前より少しだけ優しい顔になっていた。
祐介は美月に手を差し出す。
祐介「帰ったら、また最初からデートしよう。」
祐介「映画も、公園も、全部。」
美月は涙をぬぐって笑う。
美月「うん。今度はちゃんと話そう。」
二人は手をつないでホームへ降りた。
振り返ると、電車は静かに扉を閉める。
車掌は帽子を取って一礼した。
「ありがとうございました。」
「どうか、お幸せに。」
ベルが鳴る。
電車は夜の向こうへ走り去っていく。
その姿を見送る人はいない。
けれど今夜もまた、どこかで心がすれ違った恋人たちを乗せて走るのだろう。
「心中」とは、命を絶つことではない。
互いの心を重ね、愛を守り抜こうと誓うこと。
その想いを乗せて走る、不思議な電車。
その名は――心中電車。
まぁ全員死んでるんですけどね




