少しでも「好き。」と多く言えたのなら。
これはとある時代。とある地域で実際に合った出来事を組み合わせたり、筆者の妄想を合わせながら作った小説です。
好みに刺さるかは分かりませんが、実際にこの世で合った事柄というのは事実です。
どう捉えるかはあなた次第です。
それでは。 この世に生きる全ての人に捧げます。
しとしとと降り続く雨は、夏の終わりの熱を奪うにはあまりにも冷たく、それでいて地面の泥をじっとりと腐らせていく。
長屋の狭い一室。畳の擦り切れた隙間から、湿った土の匂いが這い上がってくる。
吾郎「つる。」
吾郎は低く、掠れた声で呼んだ。
その声は、かつて木々を駆け回り、鳥の鳴き真似をして彼女を笑わせた少年のものとは、まるで違っていた。
喉の奥が乾ききり、言葉の端々が紙やすりのようにひび割れている。
つる「はい、吾郎さん。」
つるは、静かに答えた。
彼女の体は、布切れを何枚も重ねた布団の中に埋もれるようにして横たわっている。
かつては柔らかく、林檎のように赤みの差していたその頬は、今や見る影もなく削げ落ち、薄皮一枚が骨に張り付いているようだった。
ふたりは、幼馴染みだった。
下町の狭い路地、大川のきらめく水面、祭りの日の太鼓の音。
ふたりの記憶の背景には、常に江戸の活気があふれていた。
小さな頃から、影が重なるようにして一緒に育った。泥遊びをしては叱られ、互いの傷に唾をつけ合って笑った。
十八の年、ふたりは当然のように夫婦になった。
その時、狭い長屋の片隅で、冷えた酒を分け合いながら、ふたりは一つの誓いを立てた。
『私たちは、一生を共にしよう。どちらかが死ぬ時は、もう片方も一緒に逝くんだ。』と
それは若さゆえの甘い約束ではなく、彼らにとっては呼吸をするのと同じくらい、自然で絶対的な決定だった。
この世界にはたくさんの人がいるけれど、吾郎にとってはつるだけが、つるにとっては吾郎だけが、生きるという意味そのものだったからだ。
現在、ふたりは二十四歳。
夫婦になって六年。
本来ならば、最も働き盛りで、最も睦まじい日々を送っているはずの年齢だった。
しかし、運命はあまりにも残酷に、ふたりの世界を塗り替えた。
世に言う「大不況」とも「大凶作」とも違う、それは悪夢のような飢饉だった。
数年前からじわじわと米の値段が上がり始め、やがて店から穀物が完全に消えた。
年号「天幻」のその年、天候は狂い、夏になっても太陽は雲の向こうに隠れたまま、冷たい雨ばかりが降り続けた。
農村は壊滅し、そのしわ寄せは真っ先にの下層民へと押し寄せた。
最初は、食事の回数を減らすだけだった。
次は、米に大根の葉や野草を混ぜてかさを増した。
やがて、野草すら手に入らなくなり、ふたりは藁を砕いたものや、木肌を煎じた汁をすすって飢えをしのぐようになった。
街からは犬や猫の姿が消え、人々は互いを猜疑の目で見つめ合うようになった。
昨日まで挨拶を交わしていた隣人が、朝起きたら冷たくなっている。
そんな光景が日常になった。
それでも、ふたりには希望があった。
半年前、つるのお腹に小さな命が宿ったのだ。
つる「吾郎さん、見て。少しだけ、膨らんできたの。」
つるは愛おしそうに、痩せ細った手でお腹を撫でた。
その時の彼女の笑顔は、暗い長屋の中に灯った唯一の提灯のようだった。
吾郎は彼女の細い肩を抱き寄せ、まだ見ぬ我が子に語りかけた。
吾郎「ああ、つる。俺がなんとかする。お前と、この子だけは、絶対に飢えさせない。」
吾郎は狂ったように働こうとした。しかし、仕事などどこにもなかった。
店は門を閉ざし、武家屋敷も門番を増やして貧民を追い払った。
吾郎は自分の着物を売り、親の形見の簪を売り、最後には自分の髪を売って、一握りの稗を手に入れた。
それをすべて、つるに食べさせた。
自分は井戸水を腹一杯に飲んで、飢えを誤魔化した。
しかし、人間の肉体には限界がある。
つる「吾郎さん、あなたが食べなければ体が持ちません。」
吾郎「俺は大丈夫だ。」
つる「嘘です。顔色が悪いです」
吾郎「父親になるんだ。これくらい平気だ」
つるの体は、お腹の子供を育てるための栄養すら生み出せなくなっていった。
ある嵐の夜だった。
つるは激しい腹痛に襲われ、血の海の中で意識を失った。
医者を呼ぶ金もなければ、呼んだところでどうにもならない時代だった。
吾郎はただ、冷たくなっていく妻の体を抱きしめ、祈ることしかできなかった。
夜が明ける頃、つるのお腹は元の平らな状態に戻っていた。
そこから生まれ出たのは、声を上げることもなく、ただ人形のように静かな、小さな小さな命の残骸だった。
つるは涙も出ないほどに疲れ果てた目で、天井を見つめていた。
つる「ごめんなさい、吾郎さん……。私、あの子を守れなかった……」
吾郎「違う、つる。お前は悪くない。俺の甲斐性がないからだ。俺が、お前たちを……」
吾郎は泣きに泣いた。
つる「この子は……短い時間だったけれど、私たちに幸せをくれました」
吾郎「……ああ」
骨が浮き出た拳で何度も床を叩き、自分の無力さを呪った。
子供を失ったことで、ふたりを辛うじて現世に繋ぎ止めていた細い糸が、ぷつりと切れてしまった。
お腹の皮と背中がくっつくような激痛、頭を締め付ける目眩、そして何よりも、未来に対する完全な絶望。
つる「ねえ、吾郎さん。」
流産から数日後、つるは蜘蛛の糸のような細い声で言った。
つる「私たち、一生を共にするって、約束したよね。」
吾郎「ああ、約束した。今でも、そのつもりだ。」
つる「じゃあ……もう、終わりにしよう? これ以上、お腹が空くのも、誰かが死んでいくのを見るのも、嫌なの。ふたりで、一緒に逝こう?」
その言葉は、悲劇的な絶望というよりは、むしろ待ち望んだ救いのように響いた。
吾郎はつるの顔を見つめた。
落ち窪んだ両眼の中に、かつて愛した少女の面影を探した。
そこにあったのは、ただ深い静寂と、自分への変わらぬ愛だけだった。
吾郎「わかった。一緒に逝こう、つる。」
ふたりは、死ぬための「心中」を決意した。
心中と決まれば、心は不思議と穏やかになった。
もう、明日食べるものを心配しなくていい。
もう、冷たい雨に怯えなくていい。
大雨が降る中、ふたりは長屋の梁に、太い麻縄をかけた。
かつて吾郎が荷運びの仕事で使っていた、頑丈な縄だ。
ふたつの輪を作り、並べてぶら下げる。
つる「少しでも……」
つるが、輪縄を見上げながら呟いた。
つる「少しでも、『好き』って多く言えたのなら、私の人生はそれで良かったのかな。」
吾郎はつるの手を握った。
その手は驚くほど冷たく、驚くほど軽かった。
吾郎「何を言うんだ。俺はお前に、数え切れないくらい『好き』って言ってもらったよ。足りないくらいだ。あの世に行ったら、毎日、朝から晩まで言い合おう。」
つる「ふふ、そうね。じゃあ、先に行くのは寂しいから、せーので行こうね。」
ふたりは踏み台代わりに、古い木箱を並べて置いた。
それぞれの首に縄をかける。
麻のざらざらとした感触が、皮膚を刺激する。
これが、現世での最後の感覚になるはずだった。
「吾郎さん、大好き。」
「俺もだ、つる。愛してる。」
ふたりはしっかりと手を繋いだ。指と指を絡ませ合い、決して離れないように。
「せーの。」
つるの声と同時に、ふたりは木箱を蹴った。
ガタン、と激しい音が長屋に響く。
体に強烈な衝撃が走り、首が締め付けられる。
呼吸が止まり、視界が真っ赤に染まる。
吾郎は意識が遠のく中で、繋いだつるの手が痙攣するのを感じていた。
これでいい、これでやっと、ふたりは一つになれる――。
しかし。
パチン、という乾いた音が響いた。
劇的な痛みが吾郎の全身を襲う。
彼は自分が床に叩きつけられたことを理解した。
激しく咳き込みながら、酸素を求めて喘ぐ。
首に手をやると、縄の感触がない。
吾郎の側の麻縄は、長年の摩耗と、雨続きの湿気で芯まで腐っていたのだ。
彼の体重を支ええきれず、途中でぷつりとちぎれてしまったのだった。
吾郎「ごほっ、ごほっ! ……つる! つる!」
吾郎は這い上がり、隣を見上げた。
そこには、静かに揺れるつるの体が模られていた。
彼女の縄は切れなかった。
つるの体はあまりにも軽く、細くなっていたため、古びた縄でも十分にその命を刈り取ることができたのだ。
吾郎「つる! 嘘だろ、つる!」
吾郎はつるの足を抱き上げ、縄から彼女を外した。床に横たわったつるは、すでに息をしていなかった。
首には赤黒い痕が残り、その顔は苦痛から解放されたように、酷く穏やかだった。
吾郎「なんで……なんでお前だけ行くんだよ!」
吾郎はちぎれた縄を掴み、何度も梁にかけ直そうとした。
しかし、短くちぎれた縄はもう届かない。
他の縄を探そうにも、長屋の中には何もない。
外へ出て縄を買う金もない。
彼はつるの遺体を抱きながら、悲しみのあまり声を上げて激しく泣き叫んだ。
ふたりで逝くはずだった。
一生を共にするはずだった。
なぜ、神も仏もないこの世界は、死ぬことすら平等に許してくれないのか。
吾郎「つる、つる、つる……!」
彼女の名前を呼び続けるうちに、夜が更けていった。
雨はまだ、降り続いている。
小さな1輪の花が咲いていた。
どれほどの時間が経っただろうか。
吾郎はつるの遺体を抱きしめたまま、虚ろな目で部屋の隅を見つめていた。
涙は枯れ果て、喉は完全に焼き付いていた。
そして、皮肉なことに、激しい感情の昂ぶりの後、吾郎の肉体は猛烈な「飢え」を主張し始めた。
ぐう、と腹が鳴る。
その音が、静寂な部屋に響いた時、吾郎は激しい自己嫌悪に襲われた。
最愛の妻が死んだというのに、自分の身体はまだ生きようとして、食物を求めている。
人間の汚らしさ、生物としての浅ましさが、彼を苛んだ。
このまま、俺も餓死すればいい。
つるの後を追って、飢えて死のう。
そう思った瞬間、吾郎の脳裏に、ある狂気的な思考が閃いた。
吾郎の心の声(死んでしまったら、つるは捨てられるだけだ。)
この飢饉の世の中だ。
死体は役人によって大穴に投げ込まれ、他の死人と一緒に無縁仏として片付けられる。
墓など立てられない。
つるの美しい身体が、泥にまみれ、虫に食われ、跡形もなく消えていく。
吾郎の心の声(それは嫌だ。絶対に嫌だ。)
吾郎はつるの顔を見た。冷たくなり始めた頬。
ふたりは一生を共にするはずだった。
彼女の全てを、自分のものにするはずだった。
吾郎「……そうだ。」
吾郎の目が、妖しく輝き始めた。
吾郎「お前を、俺の中に隠せばいいんだ。」
つるの肉を食べ、つるの血を飲み、つるを自分の一部にすれば、ふたりは本当に一つになれる。
彼女は俺の中で生き続け、俺が死ぬ時は、つるも一緒に死ぬことができる。これこそが、真の心中ではないか。
吾郎は台所から、刃こぼれした包丁を持ってきた。
普段は野菜を切るのも難儀するような鈍い包丁だ。
彼はつるの遺体の前に跪き、そっと手を合わせた。
優しい顔でこう言った。
吾郎「つる、痛くしないからな。お前を、俺の中に連れていくよ。」
包丁の刃が、つるの白い太ももの皮膚に当てられる。
躊躇はなかった。
狂気はすでに、彼にとっての唯一の正気へと変貌していた。
皮を切り裂き、薄く削げ落ちた肉を切り取る。
血はもう、それほど流れなかった。
彼女の身体には、流せるほどの血すら残っていなかったのだ。
吾郎はその生の肉片を、そのまま口に放り込んだ。
「……っ」
噛みしめる。
人間を喰らうという背徳感や嫌悪感は、一切なかった。
ただ、驚くほどに甘く、愛おしい味がした――そう、吾郎の脳が錯覚させていた。
吾郎「つる……美味しいよ、つる」
彼は涙を流しながら、夢中で肉を咀嚼した。
それは食事ではなく、儀式だった。
最愛の存在を聖体拝領のように己に取り込む、純粋で狂った愛の儀式。
火を起こす薪もないため、彼は全てをそのまま食べた。
彼女の肉が自分の喉を通り、胃に収まるたびに、吾郎は自分とつるが本当の意味で混ざり合っていくような、至上の幸福感に包まれた。
吾郎「これで、もう離れない。俺たち、ずっと一緒だ」
吾郎はつるの残された身体を抱きしめ、恍惚とした笑みを浮かべた。
それから二日後の朝。
雨は相変わらず降り続いていたが、長屋の前にいくつかの足音が近づいてきた。
武士「おい、この部屋か。」
武士「ああ、ここ数日、中から妙な臭いがするってんで、大家が困ってたんだ。」
ドカドカと足音が響き、長屋の薄い障子戸が荒々しく開け放たれた。
入ってきたのは、腰に刀を差した三人の武士たちだった。
この飢饉の中、治安の悪化を取り締まるために巡回していたのだ。
部屋の中の光景を目にした瞬間、武士たちは絶句し、次の瞬間には刀の柄に手をかけた。
武士「……貴様、それは何だ。」
部屋の中央には、変わり果てた姿のつるの遺体。
そして、その横に座り込み、口の周りを赤く染めた吾郎がいた。
彼の前には、綺麗に削がれた骨と、わずかに残った肉片が置かれていた。
吾郎の目は完全に据わっており、武士たちを見ても驚きもしなかった。
吾郎「何って……つるですよ。俺の妻の、つるです」
吾郎は穏やかに微笑んだ。
武士「貴様、正気か! 人の肉を喰らうなど、獣以下の所業! 鬼の類か!」
同心が刀を引き抜き、吾郎に突きつける。
吾郎「鬼? 違いますよ。俺たちは心中したんです」
吾郎は立ち上がろうとしたが、足に力が入らず、よろめいた。
しかし、その表情には一片の悔恨もなかった。
吾郎「つるは先に行きました。だから、俺が追うために、つるを俺の中に隠したんです。私たちは一生を共にするんです。邪魔をしないでください。」
武士たちにとって、目の前にいる男は理解の範疇を超えた怪物だった。
飢饉で狂った人間は数多く見てきたが、これほどまでに静かで、深い狂気に満ちた目は見たことがなかった。
武士「問答無用。このような人道に外れた大罪人、生かしておいては日本の穢れとなる。その場で成敗してくれる!」
与力が厳かに宣言し、刀を大きく振りかぶった。
吾郎は、迫り来る白刃を見つめながら、心の中でつるに呼びかけた。
吾郎の心の声(ああ、つる。やっとお迎えが来たよ)
武士たちの刀で殺される。それは彼にとって、望むところだった。
自分が死ねば、自分の身体の中にあるつるの血肉も、同時に死ぬ。
そして、ふたりは今度こそ、誰も邪魔立てできない場所へ一緒に行くことができる。
吾郎「つる。」
吾郎は最後に、最も優しい声で微笑んだ。
吾郎「少しでも……お前に『好き』って、言えてよかった。」
一閃。
冷たい刃が吾郎の首を深く切り裂いた。
鮮血が長屋の壁に飛び散り、彼の身体は崩れ落ちるように床に倒れた。
彼が最後に見たのは、灰色の天井ではなく、かつてふたりで見上げた、どこまでも青い江戸の秋空と、その中を笑いながら駆けていく、幼い頃のつるの姿だった。
武士たちは、忌々しそうに刀の血を拭うと、ふたりの遺体を罪人として処理するよう手下に命じ、足早に長屋を去っていった。
静まり返った部屋。
床には、ふたつの身体が重なるようにして横たわっている。
外の雨は、なおも降り続いている。
その雨音は、まるで現世の悲劇も、狂気も、そしてふたりの間にあったあまりにも純粋すぎる愛も、すべてを等しく洗い流そうとするかのように、静かに、ただ静かに響いていた。
ふたりが交わした「好き」という言葉の数は、決して多くはなかったかもしれない。
けれど、その一つ一つは、飢えをも超え、死をも超えて、彼らの魂に深く刻み込まれていた。
今やふたりは、誰にも引き裂かれることのない、永遠の静寂の中にいる。
それから何年、何十年、何百年かが過ぎた。
周囲から人の声が消え、季節だけが静かに移り変わっていった。
2人の家の跡。雨に濡れた土の中から、小さな芽が顔を出した。
それは、誰かが植えたものではなかった。
厳しい寒さにも、冷たい雨にも負けず、ただ静かにそこに生きていた。
やがて春が来る。
灰色だった景色の中に、ひとつだけ小さな花が咲いた。
名もない、誰にも気づかれないような一輪の花。
しかし、その花はまるで、あの日まで確かに存在していた二人の想いを覚えているようだった。
幼い頃、手を繋いで歩いた道。
夫婦になり、笑い合った日々。
そして、何度も伝え合った言葉。
「好き」
その一言は、どれほど短くても、どれほどありふれた言葉でも。
二人にとっては、何よりも大切なものだった。
もし、もう少しだけ時間があったなら。
もし、もう少しだけ幸せな日々が続いたなら。
きっと二人は、何度でも同じ言葉を伝えただろう。
「好き」と。「ありがとう」と。「ずっと一緒にいたい」と。「会いたい」と。
けれど、人の命には終わりがある。
それでも、誰かを大切に想った記憶まで消えることはない。
春風が吹く。
一輪の花が、小さく揺れる。
まるで誰かに「ここにいるよ」と伝えるように。
少しでも多く、「好き」と言えたのなら。
それだけで、人の人生はきっと、温かいものになるのかもしれない。
そこに咲いた小さな花は、今日も静かに揺れている。
二人が確かに愛し合った証として。




