19.岸刑事捜査から外される
後輩の鬼塚を、日高孝男のボディーガードにつけてひと稼ぎできた翼。そこに女刑事の岸がやってきて、遊び人奥井、本屋敷殺しの捜査が打ち切られたことを告げる。
「上条さん」
ウッドストックのエプロンをしたマスターが、真白い大きな皿をナプキンで拭きながら尋ねた。
「最近、あの彼、見ないね」
「どの彼?」
カウンター席でティーポットのダージリンをカップにそそぎながら翼は問い返した。
「ほら、1、2度、上条さんが、ここに連れてきてくれた……その……探偵仲間とかいってたヒゲの彼……」
翼は吹き出した。
「マスターだって、ヒゲの彼じゃない」
「じゃ、たくましい彼。彼、どうしたの?」
「最近見ないって……よくここに来てたの? ひとりで?」
「ええ、まあ、たまにだけど……それと、彼、よく店の前、通るものだから……」
エプロンをしたマスターは、なおも同じ皿を磨いていた。
翼は、紅茶を口に運びながら、外国に行ったと答えた。
「旅行?」
「一緒に行きたかった?」
マスターは、せっかく磨き上げた皿を落とすところだった。
「な、な、な、何を根拠に!」
マスターは真っ赤になりながら、かろうじて落下を阻止した皿を、食器棚に置いた。
しばし、ベートーヴェンのピアノ・ソナタと、マスターの息切れだけが聞こえていた。
「なんで……分かったの?」
マスターが背中を見せながら静かに言った。
「前からそうかなとは思っていたんだけど、確信したのは、この前、隣駅の本屋さんで、マスターを見たときからかなあ」
「本、買ったの見てたってわけね」マスター東はため息をつくと、一度うつむいてから、観念した顔をあげて、肩をすくめた。
「前から気づいていたって言うけど、いつ頃から?」
「最初にこの店に来たときから」
マスターは落ち着くひまもなく、体をぎょっと震わせる。
「……やっぱり、動作や態度でわかるの? 自分じゃ分からないんだけど……」
「というより、私を……というか、女を見る目が普通の男と違うもの」
「なるほど」マスターは右手で額の汗をふいた。「じゃ、女の人には、いつもバレバレになってんのかな?」
「そんなことないわよ」
「ねえ、男にはバレてないかな」
「それは、女の私に訊かれても知りません」
「でもね、僕だって、男だったら誰でもじろじろ見るわけじゃないよ。あくまで自分のタイプだけ。男はみんな、ゲイって言ったら狙われるなんて言うけど、うぬぼれちゃいけない」
「だったら、バレてないんでしょ」
「ああ、よかった」
しかし、マスターのヒゲの顔はたちまちまた不安に曇った。
「でも、それだったら、彼……鬼塚さんだっけ。気づいたかな? 僕、やっぱりじろじろ見たような気がするもの、彼のこと」
「さあ」
翼は、マガジンラックから取ってきた最新号のファッション雑誌を開いた。
「でも、何度か来てくれたってことは、決して僕のこと悪くは思ってなかったってことだよね?」
「そうでしょうね」
「それとも、僕の作るサンドイッチがただ美味しいから、それが目当てで」
「それが普通じゃないの」
「彼、仕事で海外にどれぐらい向こうに行ってるの?」
「一年ぐらいじゃない。実入りのいい仕事だし」
「一年!」
「あきらめたら。彼はそういう趣味ないわよ」
「そう? 少しは脈がある感じもしたんだけど」
「どんなところに?」
「ヒゲ生やしているし」
「関係あるの?」
「ない」
マスターはまたため息をついた。
「あれ?」
そのとき、マスターは、翼の見ているファッション雑誌に目を留めた。
「その写真のモデルさん。この前、上条さんがつれてきた彼女じゃないの?」
翼は、あわてて隠そうとしたが、遅かった。マスターは、にわかに威厳を取り戻していた。
「上条さん、彼女とは仲直りしたの?」
翼は苦虫をかみつぶした顔を横に向けた。
「だめだよ。上条さん。友達は大事にしなくちゃ」
「まだ早いのよ」
「何が?」
「タイミングがあるの」
そのとき入り口の扉の向こうに、この店へ近づいてくる人影があった。
「別のタイミングの悪い人が来た」
扉のほうを見ながら翼がつぶやいた。マスターは目でその先を追った。扉の鐘が鳴った。
入ってきた女は、マスターのいらっしゃいませを、まるっきり無視して、まっすぐ無遠慮な足取りでカウンター席のほうにやってくると、翼の傍らに守護霊のように立った。
翼は雑誌をながめながら言った。
「おひまそうね」
「まったく図星。全身から、やる気ないオーラが出てるでしょ」
「もう、お昼食べました? ここのサンドイッチは美味しいわよ」
「結構。もうすませた。ちょっといいかしら?」
女はぶっきらぼうに「コーヒーお願いします」とマスターに言うと、窓際のテーブル席のほうへ歩いていった。
「上条さんのお仲間?」
カウンター席を降りる翼に、マスターはひそひそ声で尋ねた。
「ライバルよ」
「何者?」
「おまわりさん」
翼は岸刑事の座った席に移動し、ふたりは、冬の淡い日差しが差し込む窓際の4人席に向かいあって座った。
「今日は、非番?」
「早退したのよ」
「どうして?」
「さっきも言ったけど、ジェット風船の気が抜けたのよ。それでここまで飛んできたってわけ」
「もしかして調査のご依頼ですか?」
「私が大会社の社長令嬢だったら、そうしたいところよ」
「日高建設の社長秘書からは、何か収穫が得られました?」
「すでにこっちが知っている以上のことは何も得られなかった。ま、どっちにせよ、もうこの事件は迷宮入りよ」
「どういうこと?」
「わたし、この事件の担当からはずされたの。今朝、急にね」
岸はジーンズの脚を組むと続けた。
「それで頭にきて、今日は体調が悪いって嘘言って早退してきたってわけ。ここんところずっと日曜も出勤してたからね。ばちは当たるまい」
「どうして、あなたがはずされたのかしら」
「捜査規模縮小よ。ただでさえ人手不足なのに、優秀な警官を、死んだところで誰も悲しまないアウトロー殺人事件のためにずっとつけておけないってこと。そもそも奥井殺しと本屋敷殺しが同一犯人であるという証拠もないしね」
「ごもっとも」
「確かに、行方不明になってる日高孝男が犯人であることはありうる。何らかの仲間割れとかでね。あるいは、次に狙われるのが自分だから日高は逃げてるのかもしれない。しかしそれならそれで、向こうは大企業の御曹司なんだから、ちょっとこっちも捜査の手を伸ばしにくい。伸ばせないなら最初からこの事件にマンパワー回すのももったいない。日高社長にしてみても、息子を狙っている奴を早く逮捕してほしいなんて警察にハッパかけられないしね。かくて捜査縮小が決定。あなたとの対決もこれでおわり」
岸のコーヒーがきたので、ふたりはしばし黙った。マスターが行ってしまうと岸はコーヒーを一口飲んで続けた。
「まったく、私もたまに辞めたいと思うときあるわ。結局、刑事は、枠の中だけで行動するにしかすぎない。あなた、刑事にならなくて正解だよ」
「でも、正義感を持ってるだけでも、素晴らしいじゃないですか」
「あなたは正義感持ってないわけ?」
「我欲と金銭欲しか持ってません」
「なら、スポンサー探すチャンスじゃない。今回の事件、日高のやった悪事がそもそもの原因なら、泣き寝入りしてる人もたくさんいるでしょうからさ。たとえば、あの自殺した現場事務員のお姉さんとか、どうよ?」
「その人をスポンサーにして日高孝男氏を見つけだせばいいって?」
「そう」
「で、見つけだしたら、そのあとどうすればいいの。日高をどっかに縛って彼女に殴らせる?」
「そうなさいよ。私も殴りに行くから」
「免職になるわよ」
「そのときは雇ってよ」
「ありえそうな話だから、ウンて言わない」
二人が苦笑しあってると、電話のコールが割り込んできた。岸が、どうぞと手のひらを差し出し、翼は詫びて電話に出た。
「……今日? これからですか? ええ、かまいませんけど……会社のほうはよろしいんですか……はあ……」ここで翼は声を出して笑いだすと、岸に目を向けた。「いえ、今、私がお話ししてる方も、お仕事を早退しているもので。それで今日は早退される方が多いなあと」
岸はおどけた顔を見せた。
では、お待ちしておりますという言葉を最後に、翼は電話を切った。
「お客さん?」
「社長秘書」
岸は、驚いた顔を見せたかと思うと、にやにやしだした。
「あなたのいうとおり、なかなかのいい男だったわよね。秘書の彼。結局、今回の事件で、一番、得をしたのはあなたみたいね。上条さん」
「私が得?」
「あなた、彼におつきあい申し込まれてるんでしょ? 彼が言ってたわよ」
「そういう申し込みはあったけど、私オッケーしてないわよ。考えときますって言っただけで。よっぽど自信があるというだけじゃないですか。今日、あの人が来たらお断りするつもりだもの」
「ぜいたく言うわね。何か気に入らないところあるの?」
「気に入らなくなるのは向こうじゃないかな」
「そんなに嫌われる自信がある理由は何よ?」
「今言ったでしょ。私は我欲が強いの」
「男だって我欲の目的でしょ?」
「あなたはそうなのでしょう」
「ふーん」刑事はのけぞって探偵を見下ろしながら、鼻でため息をついた。「最初に会ったときから、妙な子だとは思っていたけど、まあ、じゃあ、こっちにも可能性があるってことね」
「応援するわよ」
「わたしのこと良く言っといて」
「引き受けた」
岸は、たまには化粧品でも見てくるかと言って帰っていった。
そろそろ大詰めです。次回、日高建設の社長秘書谷本が、突然の翻意を見せる。
いつもご評価ありがとうございます。




