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20.訣別

行方不明だった日高建設御曹司、日高孝男は国外へ逃亡。連続殺人事件はいったん落ち着いたかと思えたが、社長秘書谷本が翼のもとを訪れ、突然の翻意を見せる。

 (つばさ)がオフィスに戻ると、入り口の前に日高建設社長秘書の谷本のスーツ姿があった。

「もういらしてたんですか」

「さっき、君がそこの喫茶店にいるのを見たんだけどね。あの女の刑事が一緒だったので、ここで待たせてもらってた」

「それは残念」

「何が残念?」

「中で話しましょう」

 部屋に入ると、翼はそのままデスクの椅子に座った。しかし谷本は部屋の真ん中に立ったままでいる。

「どうしたの?」

「このままでいい」

「ここ、3、4日、忙しかったようですね」

「うん、君に連絡するひまもないほどね」

「今日、早退できたってことは、もう峠は超えたってこと?」

「そういうこと。もっともここ最近、忙しかったのは、仕事で、じゃないんだけどね。まあ、どちらにせよ、あの会社で僕が忙しくなることは、もうない。今、退職届けを出してきた」

 翼は驚いた顔を見せた。

「あやしげな探偵と付き合うには、かたぎの会社は辞めなきゃいけないと思ったわけじゃないですよね」

「あの会社が、かたぎかどうかについてはノーコメントだけど、とまれ、君と会うのも、これが最後だ」

 ふたりは黙って目と目を合わせていた。やがて青年は言った。

「日高が死んだ」

「どっちの」

「息子だ。もっとも親父のほうもあの落ち込みようだと、長くないかもしれないがね。ついでに言うと、会社も長くなさそうだよ」

「それで辞めたの?」

「それもある。が、もっと大きな理由がある」

 翼はまたコーヒーをいれると言った。コーヒーができるまで二人は何もしゃべらなかった。

「日高は、例の船が香港に寄港する前夜に、南シナ海に飛びこんだらしい」

 立ったままコーヒーカップの下にソーサーを添えて持ちながら青年が言った。

「自殺?」

 谷本は大きくうなずくと、

「そうだ。自殺だ」

 と決め台詞を言う舞台俳優のようなはっきりした口調で言った。

「香港に入港する直前にあいつの姿が見当たらなくなったので、船長が船内に大捜索をかけたんだが、見つからなかった。見つかったのは、船尾にあったあいつのイタリア製の靴だけだったということだ」

「ホームシックになって、泳いで日本に帰ろうとしたんじゃないですか」

「ありえない。あいつはカナヅチだ」

 翼は組み合わせた指を、あごの下から鼻の下まであげると、目を横に向けて「鬼塚の奴、何してたのかしら……」と怒った声で言った。

「自殺だもの。彼を責めてもしょうがない」

 谷本は、コーヒーカップをラウンジテーブルに置き、窓際へ移動した。ベネシャン・ブラインドの操作ロープを引き下げる。ブラインドのスラットが開かれ、白い櫛状の光が、青年のスーツの上に斜めに差した。

「おそらく、狙われる恐怖のためノイローゼになってというところだろう」

「じゃあ殺人劇はこれで幕引き、迷宮入りね」

「そうなるのかな?」

「さっきの岸刑事によれば、捜査規模が縮小されたらしいわよ」

 青年はポケットに手をつっこんだまま、部屋の真ん中に戻ってきた。

「なるほど。奥井と本屋敷殺しの捜査が進まないことは、日高の親父も相当いらついてた。息子を狙っている奴が見当もつかないんだからね。かといって、それと息子の失踪をからめられるのもうまくない。かわいい息子の悪事がばれてしまう。それに、日高が奥井と本屋敷をやったんじゃないという証拠だって親父にはあるわけではない。そんなだから、社長は警察から距離をとるしかなかった。だから社長は、こんな手を打とうとしてたんですよ」

「どんな手?」

「君に奥井と本屋敷殺しの犯人捜査を依頼する」

「悪くない流れじゃないですか」

「でも僕が止めた。女には無理だってね」

「営業妨害だわ」

「お許しを。どうにせよ結局、日高が自殺してしまったので、親父はお手上げ状態になってしまった。まあ、人に言えないようなことをやってその恨みを買ったのだから、人に言えないままにこの事件もおしまいというのが落としどころだと思う。因果応報さ」

「決まりましたね」

「というまとめは、表向きの話でね」

「目玉焼きみたいに焦げついた裏面があるの?」

「うん、そう」谷本は斜めに翼を見ると、急に厳しい調子になった。「僕が、この3、4日、会社を休んで何をしていたと思う?」

「海に貝殻をひろいに行ってた」

「またも、当たらずとも遠からずだ。海のあるところへ行ってた。軍艦島の見える半島へね」

 ふたりはまたしばらく顔を見合わせていた。探偵は黒い革張りの椅子の背もたれに黒服と黒髪の身をうずめて人形のように動かずにいた。が、やがてその引き締めていた唇を動かした。

「あなたも探偵になれば? 私より稼ぐわよ」

「なんの。僕は確認に行っただけだ。すっかり君にしてやられたよ」

「私、別にあなたをしてやるつもりなど、なかったわよ。してやったりとも思ってない」

「はじめてここに来たとき、ずいぶん君は、僕を、女漁りをする人間だとなじったね。あれも君の手だったんだ。僕は君の誤解を解こうと、いろいろしゃべってしまった。本屋敷の居場所を教えてしまったことにしてもそうだ。まさかあんな使われ方をされるとは思わなかった。そして最後も……やっぱりしてやられたと言うべきだ」

 谷本はまぶしいものでも見るように、翼を見た。

「でも、それが悔しくて、君と訣別する気になったんじゃあない。単に、君とつきあえるほど僕は、反秩序的な人間じゃないという理由からだ」

 翼は吹き出した。

「他に言い方ないんですか」

「うーん、そうだな……」谷本はあごに手をやり、視線を天井に向けた。「反秩序的という言い方がまずいのなら……超法規的? 利己的? いや、利己的というのは違うな。それとも地獄の裁判官」

「だんだんひどくなってる」

「どうも僕の貧弱なボキャブラリーでは見つかりそうにないよ。君を形容する言葉は」

 青年はポケットから出した両手を広げて肩をすくめると、「そして、別れの言葉もね」と付け足した。

 青年は体を出口の方向に向けた。翼も立ち上がった。

「お詫びに反秩序的でない女性を紹介しましょうか? あなたが女性不信になったら私の責任になりそうだから」

「ほう、誰?」

「さっきの刑事さん」

 谷本は目を大きくした。そして笑いだした。

「確かに、これ以上ないかたぎな女性だ。しかし、やめとこう。あんな執念深そうな刑事と一緒にいて、自分がずっと黙っていられる自信もない」

「じゃあ、うまく言っとくわ」

「恩に着る」

 ふたりは出口のところまで来ていた。翼が扉のレバーハンドルに手をかけた。谷本が立ち止まると、何事もなかったような晴れ晴れとした顔で言った。

「しかし、君の恋人になる男というのが、どうにも僕は想像できないな」

「このオレ様でさえ、無理だったのにって?」

「それもある。しかし、異性と言うものは人間にとって欠けているものであるという、あの神話的解釈を持ち出させてもらうなら、君には男は必要ないように思える」

「あなた、失礼なことを言う癖、直したほうがいいわ」

「そんなことはない?」

「当たり前でしょ。誰だってひとりじゃ生きられないもの」

「君だけはそうじゃないように見えるんだが」

「負け惜しみよ。上条翼という葡萄はすっぱいって」

「そうかなあ」

「まったく」

 翼はいきなり首を伸ばして、谷本の頬にキスをした。谷本は丸くした目で翼を見返した。

「そうじゃなさそうだ」

 谷本は、満足と寂しさを混交した笑みを浮かべた。

 扉が開かれた。広い世界の空気がふたりにまとわりついてきた。

「私で力になれることがあれば、いつでもお越しください」

「僕は自力で問題を解決する男のつもりなんだが」青年は今一度、苦笑した。「でも、君の力を借りるようなことに出くわすかもしれない。そのときにはまた来ますよ。お金持ってね」

「安くしときます」

「ありがとう、じゃ、さよなら」

「さようなら」

 青年は振り返ることなく、翼の視界から消えていった。

 翼は、廊下に立ったまま、青年の去った方向をじっと見つめていた。


次回、最終エピソード。翼は最初の依頼人、浜崎涼香のもとを訪れ、すべての真相を語る。

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