フーリエ変換
カンカンとビンを打ち鳴らす音が鮮明になり、現実に意識が引き上げられてくる。
「———解析完了」
機器に読み取った波形を保存する。
2人の記憶に意識を揺さぶられたかもしれないが、そんなことに注意を割いている場合ではなかった。
現在2人が形成したうなりにアズサちゃんが晒され続けている。
このまま共鳴し続ければ、アズサちゃんの脳が崩壊するまでそう長くはない。
「羽音。うなりのせいで女の子が危ない。霊に離れろって言ってきて」
男に短く伝えた。
ビンを打ち鳴らしているチャラめの男、羽音の波形は特殊だ。大体のものと共鳴できる。
おそらく今回も話せるだろう。
まず霊を彼女から離す。
「ああ」
彼は静かに頷き、霊の方へ少しずつ歩み寄った。
「おい、じいさん!!
…………。
じいさん……?」
少しの間のあと、彼はこちらに視線をやる。
「だめだ、おそらく意識を保ててねえ」
意識を保てていない…。
私は保存した波形を見返した。
よく見ると、うなりの中にかすかな苦しむ響きが混ざっている。
おそらく霊はうなりのスパイラルに巻き込まれ、もう自分では離れられなくなっているのだろう。
こちらで強制的に2人を分離するしかないらしい。
「……ぁあ」
奥歯を噛んだ。
…あの日と同じ操作だ。
指先が抵抗するように固まるのを無視して、機器に備わったフーリエ変換フィルタを選択する。
脳裏では、ぐちゃぐちゃに乱れて散っていった彼女のかつての波が、どうしても思い出された。
男は苛立つ私を不審に思ったのか、機器の画面を覗き込んだ。
「それ、使うのか?」
「……使う。大丈夫」
私は自分に言い聞かせるように、彼の問いに答えた。
このフィルタは、もとの波の解析が不十分だと、誤算による分離ミスのリスクがある。
しかし、2人の記憶を知り、合成波を入念に解析した今なら、無事にできる。
私はフィルタの起動ボタンを押した。
画面上の警告表示を消し、意識を研ぎ澄ませる。
2人の合成波をすくい上げ、変換していった。
凝縮された2人の時間、記憶を解く。
信頼、愛情の穏やかな記憶の波。
その温かな波の隙間に、ノイズのように何層にも絡みつく後悔の波。
一本に重なっていた波を、周波数ごとの単純な波へと分解していく。
混ざり合い、形が曖昧になっていたが、もとは一つ一つ確かに存在していたものだ。
……指先を止める。
数値が少しずれるだけで、二人の記憶は取り返しのつかない形に崩れる。
呼吸を殺し、演算誤差を慎重に修正する。
ほどいた波を、本来あるべき形へ戻すように、一つずつ静かに分離していく。
指先が、最後の操作を完了させた。
張り詰めていた息を吐く。
「……成功したな」
羽音が、安堵した顔で私に笑いかけた。
2人の方に視線をやる。
老人の輪郭は、穏やかにそこに佇んでいた。
眠る彼女の側で、少しの沈黙。
少女の頭へ、そっと手を伸ばす。
もちろん触れられない。
だが、幸せそうに静かに笑っているのが分かった。
やがて輪郭はゆっくりと彼女から離れる。
顔をこちらに向け、近づいてきた。
私の前で静かに立ち止まる。
彼は私を見ていた。
……おかしい。
霊は死の瞬間までの記憶しか保存しないはずだ。
彼は、私の職業もこの後何をするのかも、知っているようだ。
「……きっと、大丈夫ですよ」
届くか分からない言葉が口をついた。
彼は現実を受け入れている。
やるべきことを全うしなければいけない。
私は機器に保存した逆位相の波形を選択した。
祖父は一度だけ振り返ってアズサちゃんを見る。
そしてまたこちらを向いて、少し笑った。
「じゃあな、じいさん」
羽音が呟いた。
老人は羽音を一瞥し、前を向く。
私は霊に逆位相の波を浴びせ、消音した。




