失われた頁 4
夜も更け皆が寝静まった頃、ひとり不寝番を勤めていたセルビノは、弱々しい苦しげな呼吸をしながら横になっているディーの所へとそっと近づいた。
その手には水の入った盥と手拭いがある。セルビノは、リーナが休んでからディーの手当てをしてやろうと思っていたのだ。何故彼がここまでディーに入れ込んでいるのか、何ということはない、それはただの感傷というやつだ。
少年時代、セルビノにはたまに餌をやっていた仲の良い野良犬がいた。ひどく貧しく、自らもまた野良犬同然の暮らしの中では、飼うことなど到底できやしなかった。ある日、そいつがいつもの時間になっても帰ってこなかったので、気になったセルビノが探しに行ってみると、誰かが戯れに野良犬を蹴飛ばし虐めていたのだろう、ボロボロになって冷たくなっていた。
「痛い」とも「やめて」とも言えぬままに死んでいった友が、口のきけないディーに重なって見えた、それだけのことだった。
「ディー、しっかりしろ。今、手当てしてやるからな。熱が出てる、水が欲しいだろ。まず、先に飲め……そうだ、良い子だ。首輪を外してやる。でも、暴れるんじゃないぞ、こっちはいつでもアンタを殺せるんだからな……」
「……ぁ……」
セルビノに抱き起こされたディーはその腕の中でぐったりとしていたが、口許に水の入った皿を宛がわれると唇を開いた。腫れた舌や喉を水で潤すと、ディーは確かに、感謝の意を込めた微笑みを浮かべたのだった。
「よせよ……俺はアンタをこんなにしたヤツの仲間なんだぞ。俺に媚売ったって、なンもいいことないってぇのに」
罪悪感と庇護欲がないまぜになった複雑な思いに胸を燻らせながら、セルビノは手際よく縄をほどいていく。ディーの白い髪も白い服も血と泥で汚れ痛々しい有り様になっていた。ゴワゴワになってしまった髪の毛を引っ張らないよう手でどかしつつ、セルビノはゆっくりとディーの首輪を外した。
「……ふぅ」
解放されたディーは地べたに座り込んで天を仰ぎ、ようやく人心地ついたように息を吐き出した。
いつディーが暴れだしても良いように、セルビノは緊張感を保ちながら首輪を準備していたのだが、呆気に取られるほどディーはのんびりとしている。
ついさっきまで、拷問による痛みと熱に死にかけていたとは思えない。嘆きも怒りもなく、放心するでもなく、ディーは伸びをしてゆっくりと立ち上がった。その顔には微笑みさえ浮かんでいる。これまで見てきた人間とはまったく違う反応に、セルビノは背筋に爪を立てられたような、ぞくりとした感覚に震えた。
このディーという青年は気が狂っているのかもしれない。それとも痛みを快感に変えてしまうような変質した精神の人間なのかもしれない。いやむしろ、この青年は本当に人間だろうか?
喉の奥につっかえたような気持ちの悪さ、据わりの悪さの理由をセルビノが延々と考え出している間にも、ディーは僅かな手の動きと、歌うような言葉にならない声だけで術を導いていた。全身の細胞を活性化させ、傷を癒し、体力を回復し、血も汗も泥もすべてを塵に変えて身を清めた。そして、それでも落ちない細かな汚れを、黒術で呼び出した雨のような水を浴びて綺麗にした。
水の流れは洞穴の床一杯に広がり汚れを外へ押し出していく。しかし、焚かれた火を消さず、横たわる男たちを濡らさず、まるで生き物のような動きでその水は瞬くうちに消えていった。何事もなかったかのようにすべてが乾いていく様に、セルビノは驚きすぎて逆に反応すらできなかった。
「……ディー、アンタ、黒術も使えたんだな」
やっとのことで絞り出したセルビノの言葉に、ディーは己の唇に指を当て、しーっと掠れた音を出した。黙っておいてほしいということなのだろう。その仕草も、微笑みも、セルビノを戦慄させるだけだった。
白術をこれだけ使いこなせることだけでも恐ろしいのに、それに加えて黒術すら使えるとは。術を使える人間はそれほど珍しくはないのだが、それが白と黒と両方であるなら話は別だ。こういった力のある人間は聖堂教会で術を学び、術士として厚遇される。両方の術を使えるならば、傷や病を癒す療術士を目指す者が多い。療術士はどこの国へ行っても諸手を挙げて迎えられ、その生涯は保証されたものだと言って良い。
稀に白と黒と両方の術が使えて、さらに身体能力に優れた男子は、本人が望むならば聖堂教会で聖典を守る聖堂騎士になることもある。それは本人にとってだけではなく一族にとっても大きな誉れだ。それゆえに、狭き門であるにも関わらず、聖堂騎士を目指す者は引きも切らないのだ。
ディーはおそらくその身体能力の面で聖堂騎士にはなれなかったのだろう。だが療術士にはなれたはずだ、あれだけ熱を持って化膿しかかった深い傷をあっさりと治療してしまったのだから。
白術だけでも癒すことはできるだろうが、それでは痛みを取ることはできない。傷口を焼いて塞ぐのと似たようなやり方で治すことになると聞く。ディーの治療はそんな野卑なものではなかった。あれは貴族が受けるような最高級の治療だ。
そんな、国家の財産のような療術士が、誰かに飼われているなんてことがあるのだろうか? いったいどれほどの修練を積めぱ、完璧な治癒の術の他に細かな精神集中を必要とする白術を使いこなせるようになる? そもそも、卓越した魔術の腕前を持ちながら、なぜあんな場所に独りでいたのだ? 何を考えて自分の虜囚に甘んじている……?
疑問が重なる。
意図が見えない。
分からない。何を考えているのかが分からない!
物事が理解の範疇を超えるとき、人間は恐怖を覚えるという。セルビノはまさしくその狂気に飲み込まれようとしていた。そんな彼の目の前を、例の白い革表紙の本がふわふわと横切る。ひとりでに浮いて、ディーの手元へと飛び込んでいったのだ。
「……あっ、おい!」
一拍遅れて声をかけるが、ディーの動きは止まらない。鍵穴を右手の指でなぞるだけで錠の外れる音がした。古い羊皮紙がゆっくりと捲れていく。だが、どのページも滲みと染みが酷く、判別できそうになかった。
「中身、駄目だったのか。残念、だったな」
「……ぅ」
白く細い指が紙面をなぞる。それを眺めていたセルビノは、インクの染みが形作っていく文字に呻き声を上げた。
『貴方の望みは?』
たった今まで存在しなかった文字列。
セルビノは何度もそれに目を走らせた。





