四十頁目
「安心しろよ、別に責めてるわけじゃねえ。言ったろ、『ありがとう』ってさ」
ヴァイゼルは麗筆の肩に腕を回し、顔を近づけた。麗筆の方が少し背が高いので、引っ張られるかたちだ。麗筆は赤ん坊を抱きしめて、迷惑そうに身動ぎした。
「なぁ、あいつらが持ってた金とか、装飾品とか、もしかして一緒に燃やしちまったのか?」
「……取ってありましたけど、やって来た兵士に全部渡しましたよ」
「ちぇっ、何だよ! あ、じゃあ……地下室のお宝は?」
麗筆はため息を吐いた。
「そんなものを手に入れてどうするんです。あんな汚いお金で裕福になって嬉しいですか?」
「あン?」
「そんなやり方で幸せになれるのですか?」
ヴァイゼルはカッとなり、麗筆から身を離すと憎々しげな表情で土塊を蹴飛ばした。
「……これだから」
「え?」
「金に苦労したことのない奴は言うことが違うよなぁ、先生! 俺たち貧乏人にとっちゃ金がすべてなんだよ! 食いモンも服も薬も、金がなきゃどうしようもねぇんだ!
ようやくちゃんと壁がある家の中で暮らせるようになったけどよ、それだって誰かのゴコウイってヤツなわけよ。いつ追い出されるかもわからねぇ、なんの自由もねぇ、その日暮らしとほとんど変わっちゃいねぇんだ。自由があった分、前のほうが気楽だったぜ……」
「では、野垂れ死にと隣合わせの路上暮らしに戻りますか?」
「本当はわかってんだよ、俺だって! 先生のおかげで、マトモな暮らしの取っ掛かりにいるって事ぐらい。だから感謝してる。けど、そうやって得たものを維持すんのは、難しいんだよ……」
「…………」
「……不安なんだよ。一度手に入れちまったから、また元に戻るのは、怖ぇんだよ」
握りしめられたヴァイゼルの拳を見て、麗筆は何も言えなかった。確かに彼は、ヴァイゼルのような暮らしをしたことがなかったからだ。彼にとって人間というものは、いつの間にか消えている短い命でしかなかったから。ヴァイゼルたちのような人間たちが、何を思い、何に苦しんで、己の未来にどんな思いを抱いているのかなど知ろうともしてこなかったから。
「ヴァイゼル、貴方は弱い」
「はぁ?」
「そして狡賢い」
「……喧嘩売ってんのか?」
「いいえ。貴方みたいな人、僕は嫌いではありませんよ。自分が弱いと知っているからこそ知恵を絞っているのですから」
麗筆のことを睨みつけていたヴァイゼルだったが、毒気を抜かれたように深く息を吐くと、だるそうにその場にしゃがみこんだ。
「ちぇっ、何でも分かったような顔しやがって」
「貴方に足りないのは主に経験でしょう。そして、肉体が健全に成長するための時間……。貴方は幸運ですよ、ヴァイゼル。ここにひとり、未来の貴方のために投資しても良いと思っている人間がいます」
「へぇ? ……って、おい。大丈夫か、先生」
ふらついた麗筆をその腕の赤ん坊ごと抱きとめて、ヴァイゼルはどこか座れる場所を探した。しかし、そんな贅沢なものはどこにもなかったので、せめて剝き出しの地面ではない、道の端っこに麗筆を連れて行った。
「具合が悪いんだったら早く言えよな。何が欲しい? 何か買ってくるぜ?」
「いえ、必要ありませんよ。それより、この子を頼みます……」
「わかった」
麗筆は赤ん坊の入ったバスケットをヴァイゼルに託した。ヴァイゼルは「いつの間に手に入れたんだ?」と訝しんだが、特に追求はしなかった。
「ぼくは、もう行かねばなりません。……きっとあの子は嫌だと言うでしょうから、貴方にお願いしたいのです」
「Dか。そういや、あいつどこ行った?」
「わかりません。ぼくは置いていかれたのです。ヴァイゼル、今の貴方に必要なのは、貴方を育ててくれる後ろ盾です。ぼくはそれを提供できます。その代わり、ぼくの依頼を受けてください」
ヴァイゼルはしかめっ面になった。
麗筆の体からどんどん力が抜けていく。横抱きにしたその細身は、思ったよりも随分軽かった。このまま消えてしまいそうなくらいに。
「何をすりゃいい?」
「頭の良いひとは好きです。……今から言う薬草を集めて、薬を作ってほしいのです。調合は誰か別のひとにお願いしてください。では、良いですか、ヴァイゼル」
「分かった」
麗筆が口にした植物の名を繰り返し、ヴァイゼルはしっかりと頭の片隅に記憶した。それを聞いて青年魔術師は嬉しそうに微笑み、赤く透き通った小さな石をヴァイゼルに見せた。
「これは?」
「貴方の未来に役立つものです。お金も、これも、使えばなくなってしまいます。でも、持っているだけで、それを武器にすることができます。
ローレンツ王子に会いに行きなさい。これを見せれば、必ず会えます。そして、彼から支援を引き出しなさい。孤児院の地下にあるという宝は、彼の気を引くでしょう」
「えっ、お、王子!?」
「ええ。ハッタリと勢いで取り入りなさい。そして、できた薬も王子に渡すのです。ぼくの名を使って……うっ……」
「お、おい、しっかりしろ!」
「……さすがに魔力を使いすぎました。頼みましたよ、ヴァイゼル」
「先生? ……レイヒ! くそっ!」
言いたいだけ言って、青年魔術師は去ってしまった。以前に一度、ヴァイゼルの前から消えたときのように、風になって。赤ん坊と一緒に取り残された彼の手の中には、紅玉のような石が一つだけ……。
薬草を集めて薬を作り、それを届けるという依頼に対してはきっと破格の報酬だろう。しかも、“庭”を通したわけでもなく、依頼人は先払いして去ってしまった。ヴァイゼルはこれを持ち逃げすることだって可能なのだ。
「くそ……」
忌々しげに掌中の玉を見るヴァイゼル。
彼はそれを服の隠しに入れると、赤ん坊の入ったバスケットを手に歩き出した。この子どもを麗筆に押しつけたあのオバサンを探して、返すために。そして、森に入って薬草を探すために。





