四十一頁目
退屈な歴史の授業から抜け出したDは、倒壊した“庭”のあちこちを覗いていた。そこかしこで絶えぬ火と炊き出しがあり、燃やすための木材をちょうど良い大きさにしているお爺さん、洗濯物を干しているお婆さん、駆け回る子どもたち。繕い物をする女たちや、粗末な敷物に雑魚寝している者たちと、雑多な生活がそこには広がっていた。
そんな中にあっても、本来の“庭”の仕事なのだろう刃物研ぎや小物の売買、酒類の提供をしている者たちもいる。そしてその横で図面を引いたり測量をしている男たち、資材をまとめている者たちと、王都再建のために忙しく働いている人々の姿もあった。食べ物を売る声や女たちの井戸端会議に、Dは表情を弛めた。
(ふぅん、皆それなりに楽しそうじゃない?)
スキップしつつさらに街を行くと、聖堂の頂きが見えてきた。新大陸オーヴォではそれほど特別な扱いをされているわけではないが、聖堂と言えば冠婚葬祭、人間は皆生まれてから死ぬまで聖堂と関わりを持って生きていかねばならない。
そこから物悲しげな弦楽器の音と、女たちのすすり泣く声が聞こえてきて、Dは足を止めた。そこでは葬儀が行われていた。
「あっ……」
借り物の心臓がきゅうと痛む。
この痛みはDのものではない。麗筆のものだ。
一度、あのせむしのガランのせいで死にかけてから、Dはより深く麗筆のことを知るようになった。借りた体はもちろん完全にDの意思に沿うように動いていて、Dが恐怖を覚えれば心臓は鼓動を早め、Dが泣きたくなれば涙腺が潤む。
だが、今のように、Dの精神が伴わずに麗筆の体だけが反応するときがある。中に入っているのが麗筆であれば、きっと彼自身が感じていたであろう痛みを、Dが代わりに感じているのだ。
平気な顔で盗賊を虐殺するし、自分の楽しみのために何の罪もない子どもを標本にしようとするくせに、その裏では人並みに心を痛めるし、寂しいという感情も持っているのだ、あの魔術師は。
Dは自分の体を抱きしめてしゃがみこんだ。
(はぁん……可愛い! 可愛い、かわいい、カワイイ〜〜〜ッ! 今すぐ抱きしめて、閉じ込めてしまいたい! 体中ぜんぶ、全部、串刺しにしてあげたい!! ああっ!)
Dは唇を噛んで無理やり嬌声を殺した。
体中が歓喜に震える。頬が熱くなり、悲しみのものではない涙が滲む。
(キュンキュンしちゃうぅ! これが、愛なのね!! 今すぐ麗筆がほしい……! 引き裂いて、噛み砕いて、食べちゃいたい!! 麗筆の涙はきっとキャンディみたいに甘いんでしょうね〜〜〜〜! きひひひひひひっ!)
今にも叫び出したい気持ちの昂りをDは必死で押し留めた。体の芯が熱を帯び、感情のうねりは荒ぶる海のようだ。肉体を持って初めて識った性的快楽への欲求は破壊衝動を伴いながら彼女の裡を暴れ回っていた。
(今の麗筆は、これまで見た中で一番弱いもの。今なら手に入るかもしれない……)
甘美な想像に、Dは舌なめずりをした。
麗筆はいつも自分のことを下に下に置こうとするが、彼は世界に何人もいない魔術師であり、今生きている魔術師の中では最高、最強の実力者である。老いない体と潤沢な魔力、優れた頭脳と魔術の才能を持ち、難しい術も使い熟せる技量がある。
何より彼は油断しない。冷たい心は揺れ動かない。
だからDは麗筆に手が出せなかったのだ。
今までは。
しかし、今は違う。四十年の眠りから覚めた麗筆は、不安を心に秘めていた。自我を保てなくなるかもしれない未来に怯え、過去に殺めた実母に罪悪感を抱いていた。「道具でしかない」と言い切っていたDに対して一時的な楽しみを与え、殺された無辜の子どもたちに憐憫を垂れ、義憤を燃やし、知己の病に同情した。
今の彼なら、もしかしたら。そんな期待がDの胸に渦巻く。魔術を奪い、黒い茨で絡め取って。記憶を暴き、苦痛と快楽を与え、感情の発露を舐めとって。己の輪郭さえあやふやになったところを、ひと思いに丸呑みに……。そうしたら、彼女と麗筆は本当の意味で「ひとつ」になれるのだ。
「麗筆を、私のものに……。そうだ、麗筆! 麗筆どこぉ?」
自分が置き去りにしてきたくせに、Dはさも今気づいたかのように、立ち上がってキョロキョロし始めた。
「あれっ? やっぱり……Dちゃん! Dちゃんじゃないか!」
「えっ? あっ、バン!」
Dに声をかけてきたのは、オルキダでDに助けられた駆け出しの若い探索者、バン・ラング・ルートだった。王都にいても中装鎧姿なのは変わらない。大きく手を振り、明るい金髪を揺らして走ってくるバンに、Dもまた駆け寄って抱きついた。
「バ〜ン!!」
「わっ!」
「えっへへ、久しぶりだね〜〜!」
実際は、オルキダでバンと別れてからそこまで日数は経っていないのだが、そう感じるというだけである。Dと麗筆のように空を飛ぶチートなんかなしに、馬車と徒歩でやってきたバンたちは、来てすぐ地震に見舞われ、復興作業に駆り出されていた。
「あ、そんなことより、Dちゃん。王太子の息子のユリウス殿下が君を探してたよ」
「ああ、ユーリね! 会ったよ〜〜」
「そうか、会ったんだ。殿下がオルキダの“庭”に探しに来てたとき、ちょうど居合わせて、ちょっと気になってたからさ」
「ありがとう、バン。あ、そうだ、麗筆に会って行ってよ、さっきまで一緒にいたから!」
「レイヒ……ああ、相棒だって言っていたね」
バンはDと別れたときのことを思い出していた。結局、気配だけで姿を見ることはできなかった狼のことも。
「……ポチさんからは、逃げられたのかい?」
「ううん。普通にあの後出会ったよ。麗筆ってば、ピンチになったときポチさんに助けられたのに、何のお礼もせずにこっちに来ちゃったの。ちょっとくらい優しくしてあげてもいいのにね〜?」
「ははは、そっか。あ、そうだ、こっちも仲間が増えたんだよ。Dちゃんの助言通り、魔術を使える子がね」
「どうせ女の子なんでショ?」
「えっ、あ〜〜、あはは……」
Dはちょっぴり意地悪な表情で、バンの鎧の胸をちょんと突いた。後ろ頭を掻きつつ、力なく笑うバン。これでは白状したのも同然だった。





