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『百億の欠落者(ロスト)』  作者: 紅月ヨルカ


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20/21

味のしない世界

カフェの扉をくぐると、アップテンポで陽気な音楽が耳を突いた。白を基調とした明るい店内には、香ばしい小麦の匂いと、どこか焦げたような深い香りが充満している。

泥水と硝煙にまみれ、首に異質な魔女の帽子を掛けた自分の姿は、どう見てもこの小綺麗な空間で浮き上がっていた。

しかし、周囲の客も店員も、その異様な格好に怯えるでもなく、驚く風すら見せない。レジカウンターの女性店員は、ごく日常の延長線にある笑顔を向けてきた。

「いらっしゃいませ〜。あっ、冒험者の方ですね? ようこそお越しくださいました☆ おすすめはトーストセットですけど、いかがなさいますか?」

(トーストってなんだろ……?)

ライムは手元のメニュー表に並ぶ、色鮮やかな写真に目を落とす。焼き色のついた四角い塊を見て、合点がいった。

(なんだ、パンか)

「あはは、お腹も空いてたし、トーストセットにします」

引き攣りそうになる頬を無理に動かし、少しだけ微笑んでみせる。

「はい、トーストセットですね♪ お飲み物は何になさいますか?」

重ねて弾んだ声で質問され、ライムの心には、冷めた諦めが去来した。

(何を飲んだって、今の俺には何も変わらないよ……)

「おすすめでいいです」

投げやりに答えると、店員は嬉しそうにメニューの一角を指差した。

「では、こちらはいかがですか? 当店自慢のブレンドを使用しているんですよ?」

写真に写る、氷の浮かんだ漆黒の液体。それには見覚えがあった。

「ああ、これは知ってる。良かった。じゃあ、この冷やし黒濁水くろにごりみずを下さい」

指を差して告げると、店員は一瞬だけ、困惑したように笑顔を固まらせた。

「あ〜……アイスコーヒーの事ですね? あなたの世界ではそう呼んでるんですか?」

「あはは、アイスコーヒー? 多分、文化の違いでしょうね……」

それ以上自分の世界の話をする気になれず、ライムは強制的に会話を打ち切った。

店員は手慣れた手つきでレジの画面をピッピと叩き、スマートに微笑む。

「ラピでのお支払いで良いですか? うちも最近導入したばかりなんですよ〜」

(ラピ……そういえば懐かしいな。アカリさんのところで、ガイドさんが持ってきてたな、確か……)

泥臭い戦場から遠く離れた記憶の断片を手繰り寄せながら、ライムは口を開いた。

「それ知ってます。確か、スーパーラピくんですよね?」

「あ〜……はい、そうですよ……。よくご存知ですね♪」

店員の目が泳ぎ、微妙な間が空く。

(違ったかな……?)

急に気まずさが押し寄せ、居心地の悪さを誤魔化すように、デジタル通貨の入った腕輪を無造作に端末へ近づけた。

――ラピ!♪

静かな店内に、おもちゃのようなくぐもった電子音が響き、あっけなく決済が完了する。

「はい、ありがとうございます♪ では、商品はお席の方にお持ちいたしますので、お好きな席でお待ち下さい」

ライムは逃げるようにレジを離れ、外の景色が見える窓辺の席に腰を下ろした。

透明なガラスの向こうには、平穏な街並みが広がっている。無意識のうちに、指先が首に掛けた魔女の帽子に触れていた。ざらついた布地の感触だけが、あの地獄が現実だったと教えてくれる。

「お待たせしました〜♪」

トーストセットがテーブルに置かれた。

「ああ……ありがとうございます」

受け取ると、すぐにパンを口へ運んでかじる。

(うん、温かいだけだな……)

きつね色の焼き目も、香ばしさも、今のライムの死んだ舌には届かない。

(こっちの、あいすこーひーも……冷たいだけの、ただの水だな)

カランと氷を鳴らし、黒い液体を喉を鳴らして一気に半分ほど飲み干す。そして、残ったトーストを無理やり口の中へ一気に押し込んだ。味わうためではなく、ただ胃袋を充たすためだけの無感情な作業。

咀嚼しながら、ぼんやりと窓の外の景色を眺めていた、その時だった。

突如として、視界のすべてが目も眩むような「白」に染まった。

音すらない。強烈な閃光が世界を塗り潰す。

(え? 今のは……?)

咀嚼を止め、驚愕して周囲を見回した瞬間、ピシ、ピシシ……と不穏な音が這った。

目の前の頑丈なガラス窓に、蜘蛛の巣のような無数のヒビが広がっていく。

光の波が、再び視界を真っ白に爆破した。

(うっ……この感じは…?)


内臓を揺るがすような衝撃と、焼けつくような熱風が肌を灼く。

たまらず目を瞑り、再び見開いたとき――。

耳を震わせていた陽気な音楽も、パンの焼ける匂いも、店員の能天気な声も、すべてが嘘のように消え失せていた。

カフェの壁も、天井も、ガラスも、ライムが今しがた座っていた椅子すらもない。

ただ、冷たい夜風が吹き抜ける中、ライムの目の前には、世界を丸ごと抉りとったかのような巨大で不気味なクレーターが、ぽっかりと口を開けていた。

「……っ、は……」

息を吸い込もうとして、喉が灼けるような熱気に襲われる。

見下ろしたクレーターの底部は、凄まじい熱量によって土砂やコンクリートがドロドロに融解し、いま正に急速に冷え固まりつつある最中だった。

液体から固体へと変貌していくその表面は、光沢を帯びた不気味な黒い『硝子ガラス』の塊と化している。

まだ完全には冷めきっておらず、バリバリと蜘蛛の巣のように走る黒いひび割れの奥底から、ドス黒いマグマのような赤光がじわじわと鈍くくすぶっていた。

ピキ……ピキピキ……、と。

静まり返った無の世界に、溶けた地面がガラス化していく不快な収縮音だけが不気味に響き渡る。

ライムが立っているその足元だけは、水分を100%奪われてサラサラとした温かい灰のような砂礫されきに変わっており、彼が立ち尽くすたびに、音もなく崩れて奈落へと滑り落ちていった。

さっきまで見ていた、あの平穏で透明なカフェのガラス窓はどこにもない。

視界を埋め尽くすのは、世界の終わりを告げるような、熱を持った黒い硝子の深淵だけだった。


首に掛けた魔女の帽子のざらついた布地を指先で確かめ、ライムはゆっくりと立ち上がった。

すすと熱風にまみれ、変わり果てた世界の中心を見つめる。

(確実に、時が戻った……。それに、さっきの閃光も出てる。何かが起きた……? でも、一体何が?)

ジャリ……、サラサラ……。

水分を失った灰のような砂を靴底で踏み締め、音を立てながら、ライムはゆっくりと歩き出した。警戒を怠らず、しかし引き寄せられるように、クレーターの底へと向かう。

陽炎かげろうが立ち上るその中心に、奇妙な人影がぽつんと佇んでいた。

驚いたことに、その男はこんな地獄の真ん中で、優雅にティーカップを傾け、何かを飲んでいるようだった。

漂ってくるのは、焦げ臭い煙を切り裂くような、上品で高貴な茶葉の香り。

ライムは好奇心と困惑に突き動かされ、男に近づきながら手を振ってみせた。

「あはは……大丈夫ですか? 何かあったんですか?」

だが、男は我関せずといった風に、静かに飲み物を口に運ぶだけだ。こちらを一瞥する気配すらない。

「あはは、見えてないのかな……? お邪魔だったらすみません……」

場違いな空間に耐えかねて、ライムがその場を離れようとした、その時だった。

「ああ……街中だったか。すまない事をしたな。着地は選べないんだ」

男はカップを口元から離さぬまま、淡々とした声で言った。

(なんだ、見えてたのか……)

ライムは少し安堵し、なんとか男の正体を知ろうと、言葉を重ねる。

「ああ……あはは、気付いてもらって良かった。何があったかわかってるみたいですね? 後――それは何を飲んでるんです?」

男はしばらくの間、沈黙したままゆっくりと飲み物を味わっていた。やがて、遠くを見つめるような目でぽつりと言葉を漏らす。

「…………街中に落ちたのに、生き残りがいたなんて……珍しいな。うん……人と飲む紅茶も美味い……」

ライムはその言葉に、少しだけ納得したように頷いた。

「ああ、紅茶っていうのを飲んでたんですか。美味しいみたいで良かったです。あはは、実は俺も、あいすこーひーを飲んでたんですよ。あの辺にあった店で……」

なんとか会話を繋げようとした、その瞬間。

男の体がわずかに揺れた。それを引き金にするように――ライムの身体から、あの禍々しい[閃光]が爆発的に吹き出し、辺りのすべてを一瞬で消滅させた。

(嘘だろ……またか。最近多いな。さっきの光のせいかな……?)

己の意志を無視して暴走する力に、やり切れない乾いた吐息を漏らし、ライムが再び歩き出そうとしたとき。

「なるほど……普通ではないのか」

すぐ背後から、低く冷徹な声が鼓膜を叩いた。

「うわぁっ!?」

心臓が跳ね上がり、驚いて 振り返った瞬間――視界が激しく暗転した。

風の音が変わる。

焦げ臭い煙の匂いは消え去り、代わりに鼻腔を満たしたのは、湿った土と青々とした草の匂いだった。

「え? え……? なんだ? どこだ、ここ……?」

クレーターも、謎の男も消えていた。見上げる空はどこまでも青く、のどかだ。

「今のは……夢か?」

混乱しながら、異変を確かめようと首元の帽子に手を伸ばそうとしたとき、自分の右手に「ある違和感」を覚えた。

手のひらに、じんわりと凍るような冷たさが伝わってくる。

視線を落とすと、そこには透明なプラスチックのカップに入った、黒い液体――さっきのカフェの『アイスコーヒー』が握られていた。カップの表面には、冷たい結露の水滴がびっしりと浮いている。

「ええ? なんで、あいすこーひーが……? なくなったよな? わけわからん……」

狐につままれたような気分のまま、一口飲んでみる。

「うん、さっきと同じ――ただの水だ」

やっぱり味はしない。ライムは苦笑しながら、足元の草むらにそっとカップを置き、改めて辺りを見渡した。

「随分と田舎だな……。なんか、この雰囲気、懐かしいな。元の世界に帰ってきたみたいだ……」

一面に広がるのどかな畑、遠くに見える緑の山々。そのどこか泥臭く素朴な風景に、ライムが淡い郷愁を覚えていた、その時だった。

「ああ〜!! 大変だぁっ!!」

静寂を破る、割れんばかりの大声が響き渡った。ライムは思わず声のする方へと顔を向ける。

畑を挟んだ向こう側のあぜ道で、奇妙な生き物がこちらを指差して大騒ぎしていた。それは、顔の真ん中に大きな目を一つだけ持った、紛れもない『一つ目の魔物』だった。

ライムは驚きながらも、そのコミカルな様子にどこか毒気を抜かれる。

(あはは……一応喋れるし、人なのか?)

警戒心よりも奇妙な親近感が勝り、ライムが魔物の方へとゆっくり近づいていく。

すると、一つ目の魔物はさらに慌てふためき、近くで黙々と畑仕事をしていた一人の男に向かって、声を張り上げた。

「魔王さん! 魔王さん! 大変です! ゆ……勇者が現れましたぁ〜っ!」

「魔王」と呼ばれたその男は、くわを動かしていた手を止め、ゆっくりと立ち上がった。泥に汚れたラフな格好。

「勇者? 流石に早すぎないか……?」

ぼやきながら、男はこちらへ向き直り、近づいてくるライムを――ただ、ひと睨みした。

その瞬間、世界の空気が一変した。

「――っ!?」

ライムの身体が、頭の先から爪先まで、完全に凍りついた。

物理的な衝撃ではない。だが、男の瞳の奥から放たれた、形容しがたいほどの圧倒的な「圧」が、ライムの全身の細胞を恐怖で支配する。心臓が握り潰されるかのような錯覚。一歩も動けない。あはは、と呑気に笑っていた思考すらも、その一瞬で完全に硬直してしまった。

冷や汗が頬を伝うのを見届けたのか、魔王はフッと表情を緩め、楽しげに笑った。

「あれは勇者じゃないよ。ああ、こっち来なよ。ちょっと話そうぜ」

さっきまでの殺気のような圧が嘘のように消え去り、魔王は気さくな笑顔で、ひらひらと手招きをしていた。

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