音の終点、獣の帰還
魔女の降らせる雨が、白昼の明かりをじわじわと侵食していく。
空は急速にどんよりとした鉛色へ曇り、西の地平へと陽が傾き始めていた。激しい戦闘による砂埃とミリオンペインの黒い霧が、冷たい雨粒と混ざり合って、あたりには異様な薄暗さと、喉を焼くような不快な煙が立ち込めている。
「ゴホ、ゴホッ……!」
カイルとライムがせき込むその一瞬の隙だった。
建物の上、煙の向こうに確かに君臨していたはずの、巨大な獅子の輪郭が――忽然と消えた。
「――っ!?」
ずっと目を離さずにいたはずのカイルの肌が、総毛立つ。
気配を追うべく、警戒しながら瓦礫の建物の足元へと一歩近づいた、その瞬間。
ぬうっ、と建物の影から文字通り「音もなく」這い出してきた狂気の顎。
俊敏すぎる獣の爪が空を裂き、カイルの左腕を深く引き裂いた。
「うっ……!」
カイルは思わず左腕を押さえて飛び退く。
(どういう事だ……全然気配が、掴めない……!)
傷口から溢れる生暖かい血の匂いが、冷たい雨の匂いに混ざり合う。必死に視線を巡らせるが、薄暗い雨幕のせいで五感が狂わされる。
その時、右手の奥でカラリと瓦礫が崩れる音が響いた。
「そこか!」
カイルが反射的にそちらを向いた瞬間、完全にその真逆、死角である左後ろから、無慈悲な爪が今度は右腕を激しく引っ掻いた。
「うっ……! まただ……くっ! なんで、なんでわからないんだよ!」
焦燥のあまり、カイルの声が荒れる。目で追おうとすればするほど、雨と夕闇に溶ける獅子の輪郭を見失う。
ライムはその光景を、ただ地面に伏したまま見つめるしかなかった。
肺の奥がまだゴホゴホと燻り、指一本まともに動かせない己の身体に、強烈な情けなさがこみ上げる。
(なんで動けないんだよ……何か、少しでもあいつの援護をしたいのに……!)
泥にまみれた視界の先、すぐ近くの地面に、パンチの衝撃でへし折れた十手の破片が、冷たく濡れて転がっているのが見えた。
(せめて、あそこまで行けたら……!)
気力だけで腕を伸ばそうとした瞬間、重心を失ったライムの身体が、無様にその場でひっくり返った。
一方、ベイルマンの姿が完全に見えなくなったことで、カイルのイライラは頂点に達していた。
だが、彼は戦士としての冷静さを辛うじて繋ぎ止める。足元に落ちていた鋭利な建物の破片を拾い上げると、あえて肉眼では何も見えない、怪しい暗がりの影へと、力任せに投げつけた。
――カァンッ!
乾いた硬質な音が響いた、その刹那。
音に過剰反応したベイルマンの巨体が、文字通り漆黒の旋風となって回転攻撃を仕掛けてきた。
「見えた……!」
カイルはその狂った軌道を読み切り、渾身の一撃をベイルマンの肉体へと叩き込む!
肉が潰れる確かな手応え。しかし、ベイルマンはもはや痛覚を失った化け物だった。殴られた風圧と反射をそのまま利用して強引に体勢をひねると、裂けた大口を開け、カイルの右腕に深々と牙を突き立ててきた。
ギチィッ、と骨が軋む音が鳴る。
「うわっ……!」
出血と、激痛と、肉を喰らわれる驚愕に、カイルは悲鳴に似た声を漏らした。だが、そのまま腕を引き抜こうとはせず、逆にベイルマンの口の奥深くまで腕を狂暴に押し込むように力を込め、その巨体ごと、泥みちの地面へと凄まじい力で叩きつけた!
ドシャアァッ! と激しい水飛沫が上がる。
虚を突かれた獅子は、驚いたように身を翻すと、もはや二本足で立つことすら放棄し、四足歩行の異様な低姿勢で、素早く夕闇の中へと姿を消した。
(四足に……引っ掻きに、噛みつき……? ベイルマンはもう、獣人じゃ……)
カイルの脳裏に最悪の確信がよぎった、その時。
ふと視線を戻すと、ライムが地面で無様にひっくり返っているのが目に入った。
「ライムさ〜ん!」
カイルは一瞬だけ戦意を緩め、慌てて彼のもとへと駆け寄っていく。
ライムは痛む身体を押さえながら、どこかおどけたような苦笑いを浮かべた。
「ああ、違う違う、大丈夫だって……ほら、あの十手の折れた部分が欲しくてさ。手を伸ばそうとしたんだけど……なんか、格好つかずに転けちゃってさ〜」
その情けない言い訳に、カイルの緊張が少しだけ解け、ふっと小さな笑みがこぼれる。
カイルは泥にまみれた十手の破片を拾い上げると、ライムの身体を優しく起こして座らせた。
「これ、ここに置いておきますね」
そう言って、ライムの手の届くすぐ近くに十手を置いた、まさにその瞬間。
ライムの瞳が、恐怖に激しく見開かれた。
「カイル、後ろだ――!!」
引き裂くような大声が、冷たい雨を割った。
「え……?」
カイルが思考を止めたまま、怪訝そうに振り向こうとした、その時には。
背後から迫った圧倒的な質量による、容赦のない突進。
ドガァァンッ!! と肉体と肉体が激突する鈍い音が響き、カイルの身体は文字通り宙へと吹き飛ばされ、激しく地面を滑りながら倒れ伏していった。
「カイル!」
叫ぶライムの声に応える者はいない。
ライムは、カイルを撥ね飛ばしたままそこに佇むベイルマンと、真っ正面から目が合った。
その獅子の黄金の瞳は――どこかぎょっと瞳孔を異常なまでに散大させており、もはやライムのことなど視界に入っていないかのように、ただカイルが倒れ伏している方向を、飢えた目でじっと見つめ倒れ伏すカイルへと迫った。
(――来る……!)
全身の激痛を圧して、カイルは咄嗟に足元の瓦礫の破片を掴むと、ベイルマンとは別の方向、瓦礫の山へと力任せに投げつけた。
――カァァンッ!!
激しい金属音が、冷たい雨音を割った。
その瞬間。カイルへ真っ直ぐ向かっていたベイルマンの巨体が、まるで操り人形の糸を引かれたかのように、唐突にその顔を音のした方へと逸らした。獣の本能が音に過剰反応し、突進の軌道が大きく乱れる。
「隙ありィッ!!」
カイルはその隙を逃さず、死力を振り絞って身体を立ち上げると、手にしていた鋭利な瓦礫の破片を、無防備なベイルマンの胴体へと、渾身の力で突き刺した。
グシャッ、と肉を裂く嫌な感触。
「グオォ……ッ!」
ベイルマンが小さく唸り声を上げる。刺さった場所から、どす黒い血が雨に濡れた毛並みを伝って地面の泥へと滴り落ちた。ベイルマンは、ふらつきながら近くの建物の陰へと移動しようとするが、その動きは明らかに精彩を欠き、鈍くなっている。
カイルは、噛み殺されかけた右腕の痛みに耐えながら、確信した。
(四足……引っ掻き、噛みつき……そして音への過剰反応。間違いない、こいつはもう、獣の本能のままで動いてる……!)
カイルはさらに瓦礫の破片を拾うと、今度は逃げようとするベイルマンの少し先の地面へと投げつけた。
再び響くカラリという音。ベイルマンの瞳孔がその音の方を向き、歩みが止まる。
「そこだァァッ!!」
カイルは獣としてのルーツを爆発させ、音に気を取られたベイルマンの無防備な横腹へ、突進回転攻撃を浴びせた!
ドガァァンッ!!
凄まじい衝撃音が響き、ベイルマンの巨体は、すでにミリオンペインで崩れかけていた瓦礫の建物をさらに打ち砕きながら、派手に倒れ込んだ。
「はぁ……はぁ……! さすがに、もう無理だろ……?」
カイルは肩で息をしながら、少し勝った気になって、自分の肉体を犠牲にして得た勝利の確信とともに、ゆっくりとベイルマンが倒れ込んだ場所に近付いた。
だが。
「……いない!?」
煙が晴れた場所に、ベイルマンの姿はなかった。
カイルが驚愕に目を見開いた、その瞬間。
頭上の薄暗い夕闇を割って、何かが降ってきた。
上空からの回転攻撃。カイルは反応することすらできず、地面へと叩きつけられた。
そして、倒れ込んだカイルの上に乗ると、ベイルマンはその巨大な顎を開き、カイルの首元へと、容赦なくその牙を思い切り噛み付いた。
ギチィッ!! と骨が軋む音とともに、鮮血がカイルの首元から噴き出る。
冷たい雨水に、熱い血液が混ざり、泥まみれの地面を真っ赤に染めていく。
「う、うがぁ……っ!」
カイルは必死に抵抗しようとするが、巨大な獅子の質量に完全に圧し潰され、首元を噛まれたことで、音を出すことも、息をすることも出来ない。
(まずい……! カイルが、死ぬ……!)
ライムは、ただ見ていることしかできない己の身体に、強烈な殺意を覚えた。
(何か、音が出れば……あいつの注意が逸れるのに……!)
動かないはずの手が、気力だけで僅かに、ミリ動いた。指が、泥に埋もれた折れた十手に触れる。音が鳴るように、あれをあいつの近くへ投げようと、十手を握りしめるが――そこから腕を振る力が、どうしても出ない。
(くそ……! カイル、カイルッ!!)
ライムが心の中で叫ぶ。
カイルの視界は、出血と窒息、そして激痛で次第に遠のきかけていた。
だが、その限界の瀬戸際で、カイルの瞳に、獣としての泥臭い闘志が再び灯った。
(……もう、やけだ……ッ!!)
カイルは、意識が飛びそうになりながらも、最後の力を振り絞って噛まれたままの身体を少しだけ起こすと――あえてベイルマンの首元ではなく、自分に牙を突き立てているベイルマンの、その目の前にある右腕の太い肉に、思い切り自分の牙を噛み付いた!
ギチ、と獣人カイルの牙がベイルマンの右腕の肉に食い込む。
「……ッ!?」
ベイルマンが、少し驚いたように、噛む力を一瞬だけ緩めた。
そして、自分の腕に噛みついているカイルを引き離そうと、噛むのを辞めて顎を離すと、カイルの身体を力任せに払い除けた。
キィィン……ッ。
激しい雨音を切り裂いて、外の広場から、鋭い鉄がコンクリートに落ちる高音が響き渡った。
その冷たい金属音に、カイルの首元を締め付けていたベイルマンの執着が、嘘のようにふっと消えた。ベイルマンはカイルをそっちのけにし、音の鳴った外の方へと弾かれたように顔を向ける。
カイルは、ドクドクと溢れ出る首元の熱い血を片手で必死に押さえつけながら、もう片方の手に鋭利な瓦礫の破片を握り直し、ふらつく足取りで外へと向かった。
冷たい雨が打ちつける外の広場には――ライムがいた。
本当に最後の、死力を振り絞ったのだろう。十手のあった方向へと不格好に腕を伸ばしたまま、彼は泥水の中にうつ伏せにひっくり返っていた。
ベイルマンはそのライムのすぐ近くで、冷たく濡れた折れた十手に鼻先を近づけ、フンス、フンスと熱い息を吐きながらその匂いを嗅いでいた。
かつて最強のヒーローとして立ちふさがり、自分たちを追い詰めた男の、あまりにも無惨で、あまりにも獣じみたその姿。
「……っ」
カイルは、胸の奥から湧き上がる虚しさに、言葉を失った。
(なんかもう……馬鹿らしいな。こんなに、こんな姿になっちゃうなんて……)
激しい憎しみも闘志も、冷たい雨に洗い流されていくようだった。カイルはベイルマンを哀れに思い、握りしめていた瓦礫の破片を、その場にぽとりと落とした。
カラリ、と小さな音が鳴る。
ベイルマンはその音に敏感に反応し、のそりとカイルの方へ近づいてきた。そして、落ちた破片に鼻を近づけ、クンクンと匂いを嗅ぐ。カイルを襲う気配は、もう微塵もなかった。
やがて満足したように顔を上げると、獅子はカイルに背を向け、のっしのっしと、ゆっくりとした足取りで遠ざかり始めた。
「カイル、大丈夫か……? 悪いんだけどさ、ちょっと座らせてくれない? まだ、あまり身体が動かせなくてさ……あはは……。やっぱり、無茶するんじゃなかったな……」
泥水の中からライムが顔を上げ、情けない自分をごまかすように、力なく苦笑いした。
カイルは、深く傷ついた首元を押さえたまま、ゆっくりとライムの元へ近づいた。そして、泥にまみれた彼の身体をそっと抱き起こし、瓦礫に背を預けさせて座らせる。
雨水に濡れたライムの顔を見つめながら、カイルは静かに呟いた。
「音、ありがとうございました……。でも、もう、良かったんですよ」
ライムは不思議そうに、瞬きを繰り返した。
「え? 良いって、どういう意味だ? カイル、あのままじゃ本当に危なかったんじゃ……」
「あの時……俺がやけくそで噛み返した後、ベイルマンは俺を振り解こうとしてたんです。だけど……」
カイルは自分の首元の血を拭い、雨に煙る空を見上げた。
「牙を抜く瞬間、あいつ、なぜか俺の傷口を優しく舐めてきたんですよね。その時、もう気づいちゃって。……それで、さっきの十手や破片の匂いをくんくん嗅いでる姿を見て、確信しました。あいつにはもう、戦う意志なんて残ってないって」
「あはは……そうなんだ。でも、良かった……。戦う意志がないなら、もう、あいつと殺し合わなくていいんだな……」
ライムは安堵の息を漏らし、ベイルマンが去っていった方向をじっと見つめた。
薄暗い雨の中を、巨大な獅子はのっしのっしと、ただひたすらに歩いていく。
魔女の降らせる抑制の雨に打たれ、ベイルマンの黄金の瞳は白く霞み、足元はフラフラと今にも倒れそうなほどに揺れていた。全身の傷口から溢れる血が、冷たい雨水に混ざって彼が歩む路を赤く染めていく。それでも、彼は振り返ることもなく、ただ遠くに見える「施設の灯り」だけを目指して、一歩、また一歩と重い足を進めていった。
あたりがすっかり薄暗い夕闇に包まれた頃。
獅子は、ようやく懐かしい施設の入り口付近へと辿り着いた。
ぽつりと優しく灯る光が、雨に濡れる彼の体を暖かく照らす。ベイルマンは、まるで我が家に帰ってきた子供のように、どこか満足したような穏やかな息を吐き出すと、その場に静かにうつ伏せになった。
そして、重い瞼をゆっくりと閉じ、二度と動かなくなった。
その最期をずっと見つめていた魔女が、雨の番傘を差しながら、静かに影から姿を現した。
冷たくて、どこか優しい雨の音が響く中、動かなくなった獅子を見つめ、ぽつりと静かに呟く。
「そう……終わったのね……」
彼女は、ベイルマンの閉じた瞳に、一瞬だけ慈しむような視線を向けたあと、ゆっくりと反転し、冷たい夕闇の雨の中を、ライムたちの待つ広場の方へと静かに歩き出して行った。




