白き獣、黒き獅子
超獣化したベイルマンが拳を構えた、まさにその瞬間だった。
ライムの「未来視」は、寸分違わず胸元へ突き進んでくる音速超えの質量を認識した。だが、脳がそれを理解した刹那、すでに鼻腔を突き抜ける血の臭いとともに肉体がひしゃげていた。
――否、時が戻る。
因果が巻き戻り、今しがた刻まれたはずの激痛は霧のように消失する。しかし、戻った瞬間のその座標へ、再び寸分の狂いもなく黄金の鉄拳が突き刺さる。
(嘘だろ……速度が速すぎて、時戻しをしてもまた同じパンチを喰らう……!)
思考が形を結ぶ一瞬の狭間にも、無数の拳がライムの輪郭を削り、その度に時間が巻き戻る。肉体の損傷こそノーカウントにされているが、魂の摩耗までは巻き戻せない。終わらない打撃の嵐の中で、脳髄が激しく明滅を繰り返す。
(なんとかしないと、衝撃が内側に蓄積されていく……。でも、どうすれば……!)
その焦燥に呼応するように、ライムの肌の表面からパチパチと青い閃光が弾け始めた。大気が焦げるオゾンの臭いが鼻を突く。
(まずい……このままじゃ……あの能力が発動する! 止めないと……っ!)
ライムは、十手を握る右手に、血が滲むほどの力を込めた。一瞬でもいい、この絶望的な軌道を逸らす。ベイルマンの胸元に刻まれた、あの生々しい傷口付近へと十手の先端をねじ込むように、容赦ない連撃を受けながらも必死に腕を動かした。
(よし、当たる――!)
確信したのも束の間、十手の冷たい鉄の感触は、黄金の拳が放つ圧倒的な衝撃波によって容易く弾き飛ばされた。硬質な金属音が耳を圧する。
(くそ……駄目か。時間がないのに……!)
体の周りで暴れる青い閃光は、ライムの焦りに同期して、徐々に澱んだ『どす黒い閃光』へと変色していく。バチバチと音を立てる不気味な輝きは、ライムの身体を包み込むようにビリビリと激しく加速していった。
「一回止まれ!!」
叫びは破壊の嵐にかき消される。
(って、無理か。アイツは時が戻るたびに、ただ機械的に殴り続けてるだけだし……。もう、あの力を発動するしかないのか……)
逃げ場のない因果の檻の中で、ライムが諦めかけたその瞬間――スッと、意識が完全に深淵へと落ちた。
刹那、広場の空気が凍りついた。
ガギィィィィィンッッッ!!!
鼓膜を震わせる絶大な破壊音が響く。誰も説明できない超常の現象が、そこにあった。
意識を失ったはずのライムの周囲で、大気がベキベキと目に見えて歪み始める。ベイルマンの拳が届くより早く、吸い寄せられるように十手がその軌道上に固定されていたのだ。
どれほど絶大な衝撃を受けようとも、ライムの肉体は一歩も後ろへ吹っ飛ばされない。空間の座標そのものに縫い付けられたかのような異常な静止。その絶対的なエネルギーの衝突に耐えかねて、十手は――バキィィィ!と悍ましい音を立てて真っ二つに折れ曲がった。
衝撃の反動で、さすがのベイルマンも数歩、後ろへと足を踏み外す。
「なんだ? あのパンチを防いだのか……?」
ベイルマンの黄金の瞳に、初めて微かな驚愕が走った。しかし、即座にそれを圧殺し、再度ライムを肉塊に変えるべく拳を振り上げる。
だが、ライムの肉体はすでに『人間』の領域になかった。
折れた十手を握ったまま、ライムの身体は重力を無視してふわりと宙に浮いている。その全身を、濁流のような「どす黒い渦」が変色させながら包み込んでいく。そして、彼が握りしめていた十手の残骸までもが、触れた端から黒い砂へと還り、形を失って風の中にサラサラと消えていった。武器を持つことすら、世界から拒絶されているかのように。
ゆっくりと、無音で石畳に着地したライム。
その足取りは、まるで底なしの泥濘を進むかのように、ノロノロと重苦しい。一歩進むたびに、足元の石畳が音もなく黒い塵へと変わっていく。
「なんだお前は……」
ベイルマンの喉から、掠れた声が漏れた。
のろのろと近づいてくるライム。その身体の動きは、空間ごと歪ませながら真っ直ぐ向かってきているはずなのに、どう動いているのか、何処に実体があるのかすら認識できない。
世界そのものが拒絶を起こしているような、圧倒的な不気味さ。ベイルマンの傲慢な魂に、本能的な悪寒が走り抜ける。殴ることも、逃げることもできない。黄金の超獣は、金縛りに遭ったかのようにその場でただ立ち尽くすしかなかった。
ライムが一歩、また一歩と、確実に死の距離を詰めてくる。
押し寄せる絶望的な悪寒を、ベイルマンは奥歯を噛み締めて無理やり抑え込んだ。剥き出しのプライドが、彼の理性を辛うじて繋ぎ止める。
意を決して――黄金の獣が吠えた。
「……怖ぇよ…ぐっ!だからどうした!くそ!そんなに死にたいなら死なせてやろう!」
太ももの生体装甲に収納されていた異形の刃物を引き抜き、狙いを定める。視界がブレるほどの超高速移動。一瞬で距離を詰め、ライムの心臓を目がけて一気に刃を突き刺しに走った。
しかし――手応えは、皆無だった。
ベイルマンの巨大な質量は、ただの幻影を裂くように、ライムの身体を冷たくすり抜けた。
「なんだ……っ!?」
ベイルマンが動揺に目を見開いた、その瞬間だった。
どす黒い閃光だけが、音もなくその身を漂っている。
――静寂。
ほんの一瞬。
広場から、音という音が消えた。
パキン、とガラスが割れるような乾いた音が広場に響く。
直後、彼を覆っていた無敵の黄金の鎧が、内側からの爆圧に耐えかねて木っ端微塵に崩れ散った。それと同時に、ベイルマンの全神経に、これまで生きてきて一度も感じたことがないほどの超質量の「破壊」が一気に押し寄せる。
「が、あ、あぁぁぁぁぁぁッッッ!!!???」
数百万回分の連撃の質量、その全ての痛みが、因果の逆流となって彼の肉体を内側から引き裂いたのだ。ベイルマンの巨体は、超高速の勢いを保ったまま制御を失い、広場に面した建物の分厚い外壁を豪快に突き破った。
ズゴォォォォォンッッッ!!!
凄まじい地響きと、夜の闇を白く染めるほどの砂埃が立ち込める。崩落した瓦礫の奥へと、ベイルマンは物言わぬ肉塊のように激しく倒れ込んでいった。
――[百万回の痛み(ミリオンペイン)]。
役目を終えたどす黒い閃光が、徐々にライムの身体から引いていく。
嵐の去った広場で、元の細い少年の姿に戻ったライムは、糸が切れた人形のように、その場へ力なく座り込んだ。
「何が……起きたんだ……?」
泥濘の底から引き揚げられたような感覚の中で、ライムは辛うじて意識の糸を繋ぎ止めた。
のろのろと辺りを見渡すが、視界は最悪だった。数瞬前まであったはずの頑強な建物は無残に崩壊し、美しい石畳の広場はまるで虚空に削り取られたかのようにボロボロに荒れ果てている。そしてその一帯を、カンカンと照りつける太陽の光を遮るようにして、足元から這い回る不気味な「黒い霧」が冷たく漂っていた。
ベイルマンの姿はどこにもない。だが、激しく瓦礫が倒壊し、今なお重い砂埃を上げているあの建物の崩落跡を見るに、おそらくあの辺りに吹き飛んだのだろうな、とライムはぼんやりと認識する。
「ゴホゴホ……! ライムさん! 大大丈夫ですか? なんだ、この黒い霧は……っ」
白昼の異様な静寂に包まれた広場に、焦燥に駆られた足音と、喉を詰まらせる生々しい咳の音が響いた。ライムの姿を探して、広場の中心へと誰かが踏み込んでくる。
「ゴホゴホ……! カイル、か、ここだよ!」
生存を知らせるために手を振ろうとしたライムだったが、指先一つすら鉛のように重く、ピクリとも動かなかった。全身のエネルギーを使い果たした肉体は、ただ地面に座り込むことしか許さない。
「ああ、ここだったんですか? ゴホゴホ……黒い霧が濃くて、全然見えませんでしたよ……。でも、無事で、本当に良かったです」
霧を割って、ライムの元へと必死に駆け寄ってくる影。
その影が至近距離まで近づいた瞬間、ライムは思わず息を呑んだ。
「ああ……あれ? カイル、か……? お前、なんか全体的に白くなってるけど……大丈夫なのか?」
昼の光を浴びて神聖にきらめく、神秘的な純白の獣姿。いつもと完全に異なるその異形の輪郭に、ライムの喉から戸惑いと心配が混ざった声が漏れる。
「ああ、僕は大丈夫です。あの、川の抑制の水をたくさん飲んで、全身に浴びたせいか、こんな姿に変わっちゃいましたけど……。でも、不思議と身体の芯から、なんか凄まじい力が漲ってきたんです!」
カイルは己の白い手足を見つめながら興奮気味に言葉を弾ませたが、すぐにライムの異変に気づいて顔を近づけた。
「って、それよりライムさんは大丈夫だったんですか!? さっき、空間がひっくり返るような凄い音がしてたし……それに、この地面とか建物もボロボロだし……。何があったんですか?もしかしてライムさんが…? でも一体、どうやって!?」
熱を帯びた声で一気に畳み掛けてくるカイルに対し、ライムは緊張の解けた苦笑を浮かべる。
「あはは……いや、いっぺんに言うなよ。こっちだって、気がついたらベイルマンは消えてるし、周りはこんな状態だし、オマケにカイルまで真っ白になってるし……もう、戸惑う事ばかりだよ」
「あ……すみません、心配のあまり、つい……」
カイルは決まり悪そうに耳を伏せたが、すぐにその瞳をキリッと鋭く引き締め、真剣な声音で問いかけた。
「――じゃあ、ベイルマンはまだ、確実に倒せたわけじゃ?」
「終わったとは言い切れないよ。死体を確認したわけでも、気絶して倒れてるのをこの目で見たわけでもないしね。できれば、もう二度と動けない状態で、これで綺麗に終わってて欲しいけどさ……」
満身創痍の身体をごまかすように、ライムはわざと冗談っぽく肩をすくめてみせた。
「そうですね。本当に、これで終わりでいいです……」
カイルが静かに同意した、その時だった。
二人の間を遮っていた黒い霧が、風にさらわれて、すうっと薄く晴れていく。
――その刹那、崩壊した建物の上、太陽の光を背に浴びて、瓦礫の頂点に「それ」はいた。
逆光の中で、どす黒い影がゆらりと立ち上がる。
四足で姿勢を低く屈め、今にも飛びかからんとする凶悪な姿勢。生体装甲の剥がれ落ちた異形の肉体の奥から、狂気と憎悪にギラギラと狂い狂った「黄金の目」が、はっきりと二人を睨みつけていた。かつての傲慢なヒーローの面影はない。そこにいるのは、ただの飢えた凶獣だった。
その悍ましい姿を真っ向から見つめ、カイルの背の毛が逆立つ。
「やっぱり……まだ、終わってなかったですね……」
カイルは鋭い爪を石畳に喰い込ませ、その低い重心のまま迎撃の構えを取った。
「ああ……」
ライムもまた、微動だにしない身体のまま、瓦礫の上の獅子をじっと見つめ返した。
カイルは静かに、ライムの身体をかばうようにしてその一歩前へと移動した。純白の獣は、一瞬の隙も与えない鋭い眼光で、黄金の目を滾らせるベイルマンを正面から睨み据える。




