歪んだ黄金
住宅街の喧騒が遠く霞む、石造りの広場。
周囲を囲むアイアンフェンスは赤錆に侵され、風が吹くたびに「キィ、キィ」と金属の悲鳴を上げている。舞い上がる砂埃には、焦げた鉄と湿った土の匂いが混じり、鼻腔を不快に刺激した。
その中央で、両者は対峙する。
「悪党どもが……。数に頼って、この俺に傷を負わせた程度で勝てる気でいるのか?」
ベイルマンの声は、ひび割れた装甲の奥で歪んで響く。
対するカイルは、獣特有の荒い吐息を漏らしながら、濁った赤い瞳で男を射抜いた。
「……お前の方が、よっぽど悪党じゃないか。罪のない獣人たちを力で押さえ込み……実験体にまでして……!」
「はっ、ガキが。……随分と子供っぽい理屈だな」
ベイルマンが、歪んだ金属音を立てて嘲笑する。
「暴れるから抑え込む。危険だから隔離する。……これのどこが悪だ? 私はこの街の平和を維持する『ヒーロー』だ。感謝こそされ、恨まれる筋合いはないな」
「お前なんか、ヒーローなんかじゃない……! よくも、おじさんを!!」
カイルの足元で石畳が爆ぜた。
怒りに任せた突進。獣化によって強化された右拳が、空気を切り裂く鋭い音を立ててベイルマンの顔面へと肉薄する。
だが――。
ガシィッ!!
重厚な金属音が広場に響き渡る。ベイルマンは、その巨体に見合わぬ速度でカイルの拳を鷲掴みにしていた。
「……なんだ、その程度か。野生の誇りとやらはどこへ行った?」
「っ……が、あ……!」
「失せろ」
ベイルマンの左拳が、カイルの腹部へめり込む。**ドォン!**という、肉と鉄が衝突したとは思えない鈍い衝撃音。カイルの身体は文字通り「くの字」に折れ、弾丸のように後方へ吹き飛んだ。
カイルが地面を転がる、そのわずかな隙。
ライムが懐に入り込み胸部に残された歪みの塊を、手にした十手の切っ先が、歪んだ鋼鉄の隙間へ吸い込まれるように突き刺さった。
メリッ……パキッ!
硬質な金属が、物理的な限界を超えて粉砕される音が鼓膜を震わせる。
ベイルマンの肉体を貫く前に、十手の刃が耐えきれず結晶のように砕け散った。指先に伝わるのは、巨大な岩盤を刺したかのような無慈悲な反動。
「硬いな……。」
ライムは、痺れた右手を気にする様子もなく、砕けた破片が地面に落ちる音を背景にバックステップで距離を取りつつカイルの元に向かった。
アイアンフェンスの影、泥にまみれて転がっていた水の容器。ライムは視線すら向けず、流れるような動作でそれを掠め取ると、コートの奥深くへと滑り込ませた。
「大丈夫? ちゃんと動ける?」
壊れた蓄音機のような、抑揚のない声。カイルは肺に溜まった泥を吐き出すように咳き込み、震える膝を叩いて立ち上がった。
「……勢いの割に、そこまで痛みはない、かな……」
「どうした? 逃げ場を相談中か? それとも、少しでも長く生き延びるための無駄な足掻きか?」
ベイルマンが、重厚な金属音を響かせながら一歩ずつ距離を詰めてくる。その笑みは、獲物をじわじわと追い詰める捕食者のそれだ。
「あれ……水がない……」
カイルが狼狽え、周囲を視線で探る。ライムはただ、冷徹な瞳のまま短く告げた。
「大丈夫。ちゃんと持ってるよ」
その一言で、カイルの瞳に宿る色が「恐怖」から「決意」へと塗り替えられた。
「僕が、なんとかします……!」
カイルが独楽のように鋭く回転し、その遠心力を乗せてベイルマンの懐へ突撃する。爪が、牙が、ベイルマンの装甲を狙って閃く。
「いつもそれだな。進歩がない」
ベイルマンが片腕を突き出す。岩盤が迫るような圧力。カイルはその剛腕に弾き飛ばされたが、即座に獣の柔軟さで着地を決めると、低い姿勢からベイルマンの太もも目掛けて渾身の蹴りを放った。
ゴンッ!!
重い音が広場に響く。だが、ベイルマンの脚は一ミリも動かない。蹴ったカイルの足に、まるで鉄柱を蹴り上げたような激痛が走る。
「あはは、全然ダメじゃん」
背後から、ライムの乾いた笑い声が空気を切り裂いた。
「やっぱり正面から相手するのは無理だね」
ライムが、一歩、前に出る。
「ライムさん、無理です! 下がってください! 獣人の僕でも、あんな……!」
「ああ、無理だ無理だ。さっさと家に帰れ。……帰れるものなら、な!」
ベイルマンの言葉が途切れるより早く、丸太のような剛拳がライムの頭部を狙って振り下ろされた。空気が圧縮され、爆鳴が響く。
ライムは笑ったまま、手にした十手の「芯」をわずかに傾けた。
キィィィィィィィンッ!
火花が散る。十手はベイルマンの力を受け止めるのではなく、そのベクトルを横へと滑らせた。拳はライムの耳元を掠め、背後の空気を爆ぜさせる。
「ライムさん……!?」
「無理だ無理だって、二人とも決めつけないでよ。これでも……あはは、死に損なって、ここまで生きて来ちゃったんだからさ」
狂気を含んだ笑顔。ベイルマンの顔から、余裕が消え失せる。
「一回避けたくらいで、いい気になるなよ小僧がぁ!」
唸りを上げる追撃。左右から繰り出される猛攻に対し、ライムは羽毛のように軽く、拳が届く一瞬前にその「逆位置」へと身体を滑り込ませる。
「避けることには、自信あるんだよね」
ライムは、追い縋るベイルマンの拳を紙一重でかわしながら、隣に立つカイルへ視線を向けた。
「俺も普通じゃない。……でも、最初から無理だって諦めるのは、嫌なんだ」
その言葉に、カイルは一瞬呆然とし、やがて小さく、だが力強く笑った。
「……ごめん。少し、見くびってたよ」
カイルが、ライムの横に並ぶ。
二人の視線が、初めて一つに重なり、ベイルマンという「正義の鉄塊」を射抜いた。
ベイルマンは獰猛な口元を歪め、傲慢な哄笑を広場に響かせた。
「ふははは……っ! ちょっと様子を見ていれば、いい気になりやがって! 小僧ども、ヒーローという存在がどれほど絶対的なものか、その身に思い知らせてやる!」
次の瞬間、ベイルマンの巨体から無数の拳が撃ち出された。砂埃を切り裂き、残像を結ぶほどの超高速の連撃。一発でも直撃すれば肉塊に変えられる鉄拳の嵐。
だが――ライムは笑っていた。
まるで最初から拳の軌道が地面に描かれているのをなぞるように、首を傾げ、半歩退き、羽毛のように軽い足取りで、そのすべてを紙一枚の隙間でひらり、ひらりと躱していく。
「あはは、ヒーローの割に動きが単純だな〜」
笑顔のまま放たれる、乾いた挑発。
ベイルマンの意識がライムの異常な回避能力に吸い付けられているその隙に、カイルが地を這うような速度で側面へと回り込んでいた。自らを受け入れた獣の瞬発力が爆ぜる。カイルは鋭い爪を突き出し、ベイルマンの脇腹へ猛烈な引っ掻きを浴びせた。
ガギィィィンッ!
しかし、獣人同士の肉体と肉体がぶつかり合う鈍い音が響き、カイルの爪はベイルマンの異常な筋密度を誇る肉体に弾かれる。
「馬鹿か? その程度の爪が、この俺の体に効くと思ったのか! 所詮は獣だな!」
ベイルマンが嘲笑うと同時に、弾いた勢いのまま左の拳を裏拳のように振り抜いた。
ドゴッ――!!
重い打撃音が響き、カイルの左横腹に凄まじい衝撃がめり込む。
「ぐっ……!?」
骨がみしりと悲鳴を上げるほどの激痛。だが、カイルは白目を剥きそうになりながらも、その肉体に刻まれたベイルマンの右腕を、両手で、必死に抱きすくめるようにして掴み寄せた。
「今です……ライムさん……ッ!!」
「調子に乗るなよ、一匹狼が!」
ベイルマンが吼え、掴まれた右腕を強引に振り回しながら、軸足を激しく回転させた。重厚な脚がカイルの足元を激しく払い、カイルの巨体が石畳へと叩きつけられる。
完全に体勢を崩したカイルへ向け、ベイルマンは容赦なく、その巨大な脚を、頭部目掛けて勢いよく踏み下ろした。
だが、その死の足首に、刃のない十手の「芯」が滑り込む。
キィィィィィンッ!!
ライムは真っ向から受け止めず、十手の鈎でベイルマンの足首の傾きをわずかに狂わせ、その剛力を石畳へと滑らせて逸らした。衝撃で広場の地面が激しく爆砕するが、軸をずらされたベイルマンの巨体が、ほんの一瞬、不格好に揺らいで体勢を崩す。
その隙を、見逃さなかった。
ライムの左手が、コートのポケットから水の入った容器を無造作に引き抜く。
キャップはすでにない。ライムは歪んだ笑顔を張り付かせたまま、ベイルマンの胸元――以前の戦闘で抉られ、未だ血の滲む「生々しい傷口」に向けて、その液体を一気に浴びせかけた。
パシャッ、と軽い音がして、水が傷口の奥深くへと吸い込まれていく。
カイルは動きを止めたベイルマンを見据え、腹部の痛みに耐えながらゆっくりと起き上がった。
「ライムさん、これで大丈夫ですね……」
しかし、ライムは喜ぶどころか、音もなく後ろにステップを踏んで十分な距離を取る。
「油断はしない方がいいよ?」
冷静な声に、冷たい警告が混じる。
「なるほど……抑制水、か……」
ベイルマンは静かに、水に濡れた胸元の生々しい傷口に触れた。力が抜けていく感覚を自覚しながらも、その表情にはまだ不敵な色が残っている。
「へぇ〜、詳しいね?」
ライムが十手を弄びながら軽口を叩く。
「だからなんだ? 知っていて当たり前だろう。そこの黒い獣のような、出来損ないの獣を抑え込むための物だぞ?」
ベイルマンの喉から、肉食獣特有の低い嘲笑が漏れた。
「命を選別するような真似をして……!」とボソッと呟き
「水が適合しない者を、容赦なく殺すくせに……よく言うよ……!」
カイルは牙を剥き出しにし、憎悪に燃える黄金の瞳でベイルマンを射抜く。
「社会を乱す者を成敗するのが世界の理だと思うが? ……少々、舐められすぎているな。小僧ども、感謝しろ。死ぬ前に良いものを見せてやろう!」
ベイルマンが自身の腹部を肉がひび割れるほどの力で強く叩き、そのまま胸へと素早く両手をなぞらせた。そして、猛々しく両腕を天へと掲げる。
「変身……!」
交差させた両腕を胸の前で激しくクロスさせ、咆哮した。
「――超獣化!!」
プシュゥゥゥゥゥッッッ!!!!
ベイルマンの肉体を覆う、筋肉と一体化したような生体装甲の隙間から、凄まじい熱を帯びた白い蒸気が一気に噴き出し、広場の視界を白く染め上げる。
「な、何が起きてるの……!?」
突然の異変に、カイルの喉がひきつり動揺が走る。だが、ライムの無機質な瞳は冷徹にその霧の奥を見つめていた。
「変身って言ってるから、変身じゃない?」
場違いなほど軽やかな笑い声。
その蒸気の奥――ベイルマンの両腕の装甲内では、仕込まれていた無数の注射針が、彼の太い血管へと容赦なく突き刺さっていた。ドクドクと不気味な音を立てて内側に強制注入される、異なる種類の怪しげな薬品。それが血液と混ざり合った瞬間、ベイルマンの泥臭い褐色だった装甲が、細胞の組み換えを起こしながら、ギラギラとした禍々しい「黄金」へと変色していく。
「これこそが本来の、ゴールドレオン・ベイルマンの真の姿である!!」
ベイルマンが深く身構えると同時に、全身の皮膚から溢れ出ていた蒸気が、爆風のように一気に周囲へ噴射され、砂埃を吹き飛ばした。圧倒的な王の威圧感。
「あはは、強そうじゃん」
ライムは壊れた笑顔のまま、刃のない十手の柄を握り直す。
「よく笑ってられるね……なんか、ヤバそうだよ……!」
カイルがそのプレッシャーに圧倒され、冷や汗を流したその瞬間――。
「まずは、目障りな貴様からだ……」
ベイルマンの言葉の「だ」の瞬間には、すでに大気を爆裂させるほどの高速パンチが放たれていた。
「え? 早す――」
ライムが驚愕してカイルの方を見た時には、すべてが手遅れだった。
視界がブレるほどの衝撃。カイルの巨体が凄まじい速度で弾き飛ばされ、広場の端にあるアイアンフェンスに激突する。
メキメキメキッ、バリリィィィンッ!!!
硬い鉄の柵が地盤ごと派手に引き剥がされ、カイルの身体を巻き込みながら、そのまま崖下の暗闇へと落下していく。
バシャァァァァァァァンッッッ!!!
遥か下から、鼓膜を震わせるほどの激しい水の音が響き渡った。
ライムの顔から初めて余裕の笑みが消える。「カイル!」と叫びながら猛然と駆け寄り、壊れたフェンスの先を見下ろした。
そこには、轟々とうねりを上げる広大な川が流れており、今しがた引き剥がされた鉄柵の残骸だけが、濁流に揉まれて虚しく浮かんでいた。カイルの姿はどこにもない。
「安心しろ。次は小僧、お前の番だ。……避けられると思うなよ」
背後から響く、地獄の底のような足音。
黄金の獣と化したベイルマンが、静かに、だが確実にライムの退路を断つように拳を構えた。




