波紋を呼ぶ真理の行動と兄妹の再会
真理が突然の失踪、一体何が起きている? そして兄妹がやっと再会を果たします。予定より随分遅くなってしまいました。
ここ数日、船室の薄暗がりでランタンの光に起こされる朝が続いていた。だからこそ、背中に落ちる日差しの暖かさが、やけに心地よく感じられる。勇斗は大きく伸びをし、胸いっぱいに清々しい空気を吸い込んだ。
湖面を渡る風が草葺き屋根を揺らし、遠くで澄んだ水音が響く。鳥たちのさえずりが、カロル村の朝に柔らかな彩りを添えていた。
「ユウト様! 大変です!」
その静寂は、慌ただしい足音と切羽詰まった叫び声によって破られた。眠気など一瞬で吹き飛ぶ。
ノックもそこそこに扉が開き、リアナが飛び込んできた。寝起き直後なのか簡素な下着姿のままで、栗色の髪は乱れ、その目だけが不安げに大きく見開かれている。
「リアナ、どうし――」
彼女のただならぬ気配に、勇斗は言葉を失った。咄嗟に視線を逸らしたが、リアナはお構いなしに駆け寄ると、震える手で一枚の紙を差し出した。
それは、湿地草を薄く伸ばして作られた、柔らかい繊維の紙だった。表面に光苔の粉が混ぜ込まれているのか、朝の光を受けて淡くきらめいている。
紙を受け取り、勇斗はそこに綴られた文字に目を走らせた。
『所用が出来たので、少し別行動を取ります。
みんなはマジョルカを村へ送り届けてください。
無事を祈っています。
心配しないでください。
用が済んだら、必ず戻ります。 真理』
読み終えた瞬間、胸の奥がひやりと冷えた。筆跡は間違いなく真理のものだ。けれど、その文面からは、いつもの彼女らしい合理的なロジックが感じられない。まるで、何かから逃れるような……。
「真理さん、どうして……何も言わずに……」
リアナはその場にへたり込み、悲しげに眉を寄せた。その姿を見て、勇斗はようやく我に返る。
「リアナ、まずは服を……」
指摘された彼女は、はっと自分の格好に気づき、頬を真っ赤に染めて慌てて部屋へ戻っていった。
その後、身支度を整えたリアナと合流し、フィナにも事情を説明して、勇斗たちはグルドの家へと向かった。
「姿は見ておらんが、早朝に誰かが発った気配はあった。人間がこの森に来ること自体が珍しい。知識がある者なら、希少な素材でも探しに行ったのかもしれんな」
グルドの推測に、勇斗も一理あると頷いた。だが、リアナはどうにも腑に落ちない様子で、不安げに唇を噛んでいる。手を引かれたマジョルカは、心配そうにそんなリアナの顔を見上げていた。
「ここにいてもしかたがない。目的を優先すべきだ」
フィナはいつも通り無表情のまま、扉の方へ視線を向けた。アマンダが奥から水晶魚の炙り串を一本持ってきて、笑顔でマジョルカの手にそっと握らせる。
「ほら、これでも食べて元気をお出し」
マジョルカは目を輝かせ、一口かじった瞬間に頬をぱっとほころばせた。その無邪気な笑顔が、勇斗の胸にわずかな安堵と、言いようのない焦燥を同時に呼び起こす。
真理の行方は気がかりだったが、今はまず、マジョルカを無事に送り届けることが先決だ。リアナにばかり負担はかけられない。勇斗はフィナの意見に同意し、一行はカロル村を後にした。
村を離れると、湿地の匂いが次第に薄れ、森の濃密な空気が肌を撫でる。湖畔の風が背中を押すように吹き、草葺き屋根の揺れる音も、すぐに聞こえなくなった。道らしい道はなく、獣道のような細い踏み跡が続くだけだ。だが、フィナは迷いなくその先を進んでいく。彼女の周囲には目に見えない“何か”が寄り添っているようで、時折、木々の間から楽しげな囁きが聞こえる。樹の精霊たちが、フィナを導いているのだろう。そう思うと、勇斗の重かった気分も少しだけ軽くなった。
所用とは、一体何のことだろうか。あの真理が、何の相談もなしに単独行動を取るとは考えにくい。まさか、何か危険なことに巻き込まれたのでは――。勇斗が考え込んでいると、マジョルカの手を引くリアナがぽつりと呟いた。
「真理さん……きっと何か、私たちに言えない悩みがあるんですよね……」
その声には、仲間を信じたい気持ちと、拭えない不安が滲んでいた。
「もしかしたら、先回りして俺たちを驚かそうとしてるのかもな」
勇斗は口に出してから、笑って誤魔化すと、不安を振り払うように前を歩くフィナの背中を追うことに集中した。
幸いにも、道中で魔獣に遭遇することはなかった。フィナが精霊たちに頼んでくれていたのかもしれない。一行は何事もなく暗黒の森を抜け、ゼルファ村へと到着した。
「マジョルカ! まあ、お前! 今までどこへ行っていたんだい!」
出迎えたエルメラは駆け寄るなり、少女をぎゅっと抱きしめた。その目尻には、安堵と心配が入り混じった涙が光っている。その表情を見て、勇斗も胸のつかえがふっと下りるのを感じた。しかし、周囲を見渡しても、真理の姿はない。
やはり、ただの「所用」ではないのかもしれない。
エルメラはフィナに礼を述べると、フィナは首を横に振り、勇斗を指差した。
「助けたのは私じゃない。この勇者だ」
突然の指名に勇斗は肩を跳ねさせ、頭を掻きながらぎこちなく会釈した。
「おぬしがユウトか。……ずいぶんと幼い兄じゃな」
エルメラは一瞬だけ眉をひそめて勇斗を値踏みするように見つめたが、すぐに表情を和らげ、深く頭を下げた。
「見た目はどうでもよいことか。マジョルカを助けてくれて、本当にありがとう」
その声には、長い時間、少女を案じ続けた者だけが持つ、深い実感がこもっていた。
「勇斗!」
その時、階段の上から澄んだ女性の声が響いた。勇斗が顔を上げると、長い黒髪を光に揺らし、深い青の瞳をした女性が立っていた。透き通るような青いローブをまとったその顔立ちは、紛れもなく日本人だった。
彼女は目に涙を浮かべたまま駆け下りてくると、ためらいもなく勇斗に抱きついた。
「うわっ……!」
思わず目をつむり、身体を強ばらせる。ふわりと香草の匂いが鼻をくすぐり、心臓が大きく跳ねた。
「ユウト様!」
リアナの驚く声で我に返り、勇斗はそっと女性の肩を押して距離を取った。
「えっと……どちら様、ですか?」
勇斗の言葉に、女性は目を丸くしたあと――ぷっと吹き出し、堪えきれないように笑い出した。
ひとしきり笑ったあと、涙を指で拭い、勇斗の顔をまっすぐに見つめる。
「お兄ちゃん。私よ。玲奈だよ」
その瞬間、勇斗の脳裏で、記憶の中の幼い妹の顔と、目の前の大人びた女性の顔が、ちぐはぐに重なった。
「……玲奈? お前、本当に、玲奈なのか?」
驚愕に目を見開く勇斗に、玲奈は何度も何度も頷いた。
「そうだよ。私だよ、お兄ちゃん」
見上げるほど背が高くなり、すっかり大人の女性になった妹。その姿を前に、勇斗は言葉を失い、ただ呆然と立ち尽くすしかなかった。
「一体、どうなってんだよ……」
「私だって驚いたわよ! お兄ちゃんこそ、全然変わらないんだもの!」
久しぶりに再会した兄妹の会話は、どこか噛み合わない。勇斗は高校生の姿のまま、玲奈は十年以上の歳月をその身に刻んでいる。それが、この世界で過ごした“時間の差”が生んだ、残酷で、不思議な現実だった。
「それで賢者様、なんて呼ばれてるんだってな」
「え? 賢者? 誰のこと?」
「お前のことだよ。見た目は大人になっても、中身は全然変わってねぇな」
「何よそれ、ひどくない? 私はずっとお兄ちゃんのこと心配してたんだから。普通、妹の心配するでしょ? なのに、お兄ちゃんは私のことなんて忘れて、こんな綺麗なメイドさんや巫女さんたちに囲まれて……鼻の下伸ばしてのんびり貴族ごっこしてたんでしょ!」
「違う! 俺は王様に魔王討伐を頼まれて、仕方なく……! それに、お前がこの世界に来てたなんて知らなかったんだから、しょうがねぇだろ!」
「言い訳ばっかり! 意味わかんない!」
感動的な再会は一瞬で霧散し、いつかのリモコン争奪戦さながらの兄妹喧嘩が始まった。横で見ていたエルメラは目をぱちくりさせ、フィナは小さくため息をつき、リアナはおろおろと二人を見比べている。マジョルカでさえ、炙り串を抱えたまま心配そうに首を傾げていた。
「もう、その辺でおよし。兄妹なら、互いの立場をもう少し尊重したらどうだい?」
エルメラの仲裁で二人はようやく口を閉ざしたが、互いにそっぽを向いた顔には不満の色がくっきりと残っている。
空気を変えるように、フィナが玲奈へ視線を向けた。
「お前がエル=ノアに呼ばれた理由は何だ?」
玲奈は深く息を吸い感情を鎮めると、天井を見上げ、思い出すように語り始めた。
「お兄ちゃんもこの世界に来る前に聞いたでしょ? “助けて”って声。あれはルミエラ・ノアっていう、ずっと昔の人の声だったみたい。彼女が魔族に魔法を教えたことで魔力が暴走して……それがまた起きるのを、心配してるんだと思う」
「それが勇者召喚と関係しているのか?」
フィナの問いに、エルメラが静かに答えた。
「……古き神託にこうある。『異界の者、現れる時、天の神、試練を下す。世界は抗い、王は滅ぶ』。つまり勇者は、神託によって“王を滅ぼす定め”を負っている」
エルメラの言葉に、勇斗の胸がざわついた。魔王を倒すのが定め……真理が言っていたことと同じだ。
「そして、その力の暴走を止めるのが、賢者の役目とも考えられる」
エルメラは目を閉じ、祈るように息を整える。フィナは鼻を鳴らし、納得したように腕を組んだ。
「でも、私にそんな大役……。ルミエラさんみたいに魔法が使えるわけじゃないし、賢者なんて務まりませんよ」
玲奈は困ったように笑ったが、エルメラは首を振って否定した。
「レナも神に選ばれた異界人。精霊と心を通わせるだけで、この世界では希有な存在だ。もっと自信を持ちなさい。そしてユウト。おぬしは力に飲まれるな。常に自我を保ち、その力を制御するのだ」
勇斗は真剣な眼差しで頷いた。
「そうなると……真理も、何か神託を受けていたんでしょうか?」
「マリ? それは誰だね?」
「俺と一緒にこの世界に来た女性です。日本の出版社に勤めてたって話なんですけど……」
その説明に、玲奈がじとっとした視線を勇斗に向けた。
「なんだよ」
「別に……。たくさんの女性に囲まれて、楽しそうじゃない。私のことなんて、いなくても平気だった訳ね」
「何でそうなるんだよ!」
勇斗が立ち上がると、玲奈も負けじと立ち上がる。再び不穏な空気が漂い始めた、その時だった。
「おや、来客かい? なんだか……あまり良い雰囲気ではないようだね」
穏やかな声と共に、ヴァルドが部屋に入ってきた。
玲奈はすぐに彼の前に進み出ると、誇らしげに腕を広げて紹介する。
「こちらヴァルドさん。森で私を助けてくれて、ずっと面倒を見てくれてるの。誰かさんと違って、すっごく優しいんだから」
突然の紹介と棘のある言葉に、ヴァルドは戸惑いながらも丁寧に頭を下げた。
「で、こっちがその“誰かさん”の兄です」
「君がユウトか。……無事で何より、で合ってるよね?」
兄妹の険悪な空気に、ヴァルドは引きつった笑みを浮かべる。
(この銀髪の魔人が玲奈を助けてくれたのか。魔族にも良い奴はいるんだな)
勇斗は魔人の顔をじっと見つめ、感慨にふける。
そして前に立つと、見上げる形になりながらも、深々と頭を下げた。
「玲奈を助けてくださり、本当にありがとうございます。甘木勇斗です。兄として、心から感謝します。このご恩は、必ず」
「お兄ちゃん……」
真摯に頭を下げる兄の姿に、玲奈は胸の前でそっと拳を握りしめた。
「そのマリとかいう者の話だが、今はどこにいるんだい?」
エルメラの問いに、勇斗は真理の残した紙を取り出し、机の上に広げた。
「カロル村までは一緒だったんですが、今朝、この置き手紙を残して……。でも、用事が済んだら戻ると書いてあるので、きっとまた会えると思います」
エルメラは湿地草の紙を手に取り、目を細めた。光苔の粉が淡く光る紙の上で、古びたインクの文字が浮かび上がる。
「……これは古代語〈ヴェル=アーク〉じゃないか。そのマリという娘、本当にただの異界人なのかい?」
その言葉に、勇斗は首を傾げた。だが、玲奈は何か思い当たったように息を呑む。
「古代語……古文書に書かれていた、失われた文字……」
そして、フィナが独り言のように、静かに呟いた。
「……古き影」
その一言が落ちた瞬間、部屋の空気が凍てついた。エルメラも、玲奈も、ヴァルドでさえ息を呑む。勇斗だけが、その言葉の持つ不吉な響きを、まだ理解できずにいた。
古代語。古き影。彼女がもしかして、あの魔導具を、魔族の仕業に見せかけてばら撒き、争いの火種を作ったんでしょうか? それはまだ先の話になるでしょう。たぶん。




