第10話 社会人
春が終わり、初夏の風が吹き始めていた。
十八歳になった悠真は、施設を卒業した。
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荷物は少なかった。
着替え。
数冊の本。
母の写真。
そして。
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一枚の写真。
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高校の卒業式の日。
花束を抱えて笑う自分と美咲。
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その写真だけは大事に鞄へ入れた。
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施設を出る朝。
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職員たちが見送ってくれた。
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「頑張れよ。」
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「何かあったらいつでも帰っておいで。」
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悠真は深く頭を下げた。
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そして。
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最後に美咲の前へ立つ。
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中学三年生になった妹。
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泣きそうな顔をしていた。
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「そんな顔するな。」
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「だって……」
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「会えなくなるわけじゃない。」
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「でも……」
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美咲の目に涙が浮かぶ。
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悠真は笑った。
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昔と同じように頭を撫でる。
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「頑張れ。」
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「うん。」
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「看護師になるんだろ?」
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「うん。」
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「じゃあ泣くな。」
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その言葉に。
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美咲は必死に涙をこらえた。
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こうして。
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兄妹は初めて別々の場所で暮らすことになった。
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悠真が働き始めたのは町工場だった。
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金属部品を作る工場。
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朝は早い。
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仕事は重い。
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覚えることも多い。
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最初は失敗ばかりだった。
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怒られる。
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ミスする。
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手には傷が増えていく。
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それでも。
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辞めたいとは思わなかった。
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毎月の給料日。
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封筒を開く。
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そして真っ先に計算する。
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生活費。
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家賃。
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光熱費。
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食費。
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そして。
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美咲への仕送り。
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「これだけ送れるな。」
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自分に残るお金は少ない。
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でも構わなかった。
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ある日。
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美咲から電話がかかってきた。
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「お兄ちゃん!」
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元気な声。
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それだけで疲れが少し消える。
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「どうした?」
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「テストで学年五位だった!」
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「すごいじゃん。」
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「えへへ。」
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電話の向こうで嬉しそうに笑う。
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その笑い声を聞きながら。
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悠真も自然と笑っていた。
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仕事は辛かった。
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でも。
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美咲が頑張っている。
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それだけで続けられた。
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夏。
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工場は地獄のような暑さだった。
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汗が止まらない。
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身体が重い。
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先輩たちは言う。
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「慣れる。」
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しかし。
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なかなか慣れなかった。
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ある日。
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帰宅すると夜の十時だった。
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狭いアパート。
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ワンルーム。
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静かだった。
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冷蔵庫を開ける。
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水だけ。
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コンビニのおにぎりを食べる。
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テレビを付ける。
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何も頭に入らない。
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ふと。
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部屋を見回した。
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静かだった。
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あまりにも静かだった。
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施設にいた頃は違った。
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美咲の声。
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子供たちの笑い声。
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職員たちの声。
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いつも誰かがいた。
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でも今は。
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誰もいない。
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その時だった。
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急に寂しくなった。
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母が亡くなった夜以来の感覚。
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孤独だった。
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本当は。
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自分だって誰かに甘えたかった。
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辛いと言いたかった。
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疲れたと言いたかった。
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でも。
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言えなかった。
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兄だから。
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そう思い続けてきた。
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机の上を見る。
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写真立て。
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卒業式の写真。
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その隣には。
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少し色褪せた折り紙の星。
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いつだったか。
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美咲が言った。
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「一つじゃ寂しいから。」
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そう言って。
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同じ星を折ってくれた。
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悠真はその星を手に取った。
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「頑張るか。」
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誰に言うでもなく呟く。
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すると。
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携帯が震えた。
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メッセージだった。
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送り主は美咲。
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『お兄ちゃん、お仕事お疲れさま!』
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『ちゃんとご飯食べてね!』
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『無理しないでね!』
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最後に。
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小さな顔文字。
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(^_^)
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悠真は思わず笑った。
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そして返信する。
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『ありがとう』
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短い一言。
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でも。
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その一言には。
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たくさんの想いが詰まっていた。
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孤独な夜だった。
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だけど。
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完全に一人じゃなかった。
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遠く離れていても。
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自分には妹がいる。
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そう思えた。
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そして。
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この頃からだった。
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悠真の身体に。
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少しずつ無理が積み重なり始めたのは。
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まだ誰も気付いていなかった。




