第15話 何ではなく、水を置いた者たち
水袋は、石段の上に置かれていた。
倒れていない。
投げられてもいない。
置かれていた。
そのことが、まず目についた。
包帯は水袋の横にある。
古い布を裂いたものではない。
細く、同じ幅で畳まれている。
急いでいたはずなのに、結び目だけは丁寧だった。
町民が集まってきた。
昨日までなら、誰かが先に手を伸ばしただろう。
喉が渇いた者へ渡す。
怪我をした者へ巻く。
それだけのものだった。
今朝は違った。
誰も触らない。
水と布が、まるで刃物のように見られていた。
「誰のだ」
男が言った。
誰も答えない。
「異端者の仲間か」
別の声がした。
それだけで、人が半歩下がった。
水袋と包帯は、何も変わっていない。
変わったのは、人の目だった。
私は石段へ近づいた。
「触るな」
誰かが言った。
「証拠かもしれない」
証拠。
その言葉は、昨日よりずっと軽く使われるようになっていた。
軽い言葉ほど、遠くまで転がる。
私は膝をついた。
水袋の口を見た。
結び目がある。
革紐を二度回し、最後を小さく内側へ入れている。
ほどけにくい。
でも、急げば片手でも開けられる。
私はそれを見たことがあった。
ロシュフォールで。
井戸の近くで。
サラが残した水袋と、同じ結び方だった。
私は息を止めた。
サラ。
名は喉まで来た。
だが、口には出さなかった。
私は彼女を見ていない。
この水袋を置いた手も見ていない。
見ていないものに名をつければ、また誰かが紙の中で別人になる。
「書記」
ドミニクの声がした。
「何か知っているのか」
私は水袋から目を離さなかった。
「知っているとは言えません」
「では、何を見た」
「水袋です」
「それだけか」
「包帯も」
「誰が置いた」
「見ていません」
ドミニクが近づいた。
町民が道を開ける。
彼は水袋には触れず、包帯の方を見た。
「負傷者を助けるためのものか」
「そのように見えます」
「異端者を助けるためのものか」
私は顔を上げた。
「負傷者と異端者は、同じ意味ではありません」
空気が固くなった。
ベルトランが小さく私の名を呼んだ。
止める声ではなかった。
気をつけろという声だった。
ドミニクは私を見た。
「同じになることはある」
「誰が同じにするのですか」
「調べる者だ」
「では、調べる前に同じにしないでください」
言葉が出たあとで、指先が震えた。
だが、引っ込めなかった。
水袋は水袋だ。
包帯は包帯だ。
置いた者は、まだ名のない者だ。
それ以上にしてはいけない。
少なくとも、私の筆では。
「記録に残せ」
ドミニクが言った。
「白い印のない家に、水袋と包帯が置かれていた」
「はい」
「置いた者は不明」
「はい」
「異端者支援の疑い」
私は筆を止めた。
「そこは、書けません」
ドミニクの目が細くなる。
「なぜ」
「疑いを見ていません」
「疑いは、状況から生じる」
「状況は、水と包帯です」
「白い印のない家だ」
「それも状況です」
「なら書ける」
「書けることと、書いていいことは同じではありません」
今度こそ、町民の誰かが息を呑んだ。
私は自分の声が遠くから聞こえるようだった。
怖くないわけではない。
怖い。
ドミニクに逆らうことも。
町民の目がこちらへ向くことも。
また、書かないせいで誰かが疑われることも。
それでも、筆は動かなかった。
ロシュフォールの調書が、頭に浮かんだ。
顔を見ていないまま、名が整えられていった紙。
空白が、あとから何もなかった場所にされた紙。
今度は、水袋の横に空白ができようとしている。
私はそこへ、勝手な名を入れたくなかった。
「公式報告には」
ベルトランが言った。
声は疲れていた。
「どう書く」
私は少し考えた。
考えたと言っても、選べる言葉は少なかった。
「サン=ヴェールの異端騒擾」
その言葉を口にした瞬間、自分の中で何かが冷えた。
広すぎる。
平たすぎる。
そこには、マレーヌの声がない。
リアの赤い糸がない。
ギヨームの閉めていた門がない。
読めない名がない。
水袋も包帯も、ただの付記になる。
それでも、公式報告はそういう形を求める。
ベルトランは目を閉じた。
「それしかないか」
「公式には」
私は言った。
「公式には、です」
彼はその違いを聞いた。
何も言わなかった。
夕方になって、私は役所の片隅に残った。
記録庫はもう使えない。
焼け残った机を外へ運び、壁際に置いた。
そこが仮の書き場になった。
公式報告を書いた。
サン=ヴェールの異端騒擾。
火災。
死傷。
損壊。
連行。
未確認。
必要な語を、必要な順に並べた。
そこに嘘は少ない。
だが、足りないものが多すぎた。
夜になってから、別の紙を出した。
私的な紙だ。
誰にも提出しない。
誰にも読ませない。
そう決めても、手は震えた。
私は最初に、白い印と書いた。
次に、水袋。
包帯。
赤い糸。
読めない名。
閉めていた門。
生きなさい。
一つずつ書いた。
文章にしなかった。
つなげると、また意味が作られる。
意味が作られると、誰かがそれを使う。
だから、まず別々に置いた。
水袋の横に、サラと書きそうになった。
筆先が紙に触れる直前で止まった。
見ていない。
私は見ていない。
だから、書かなかった。
代わりに、結び目とだけ書いた。
その下に、小さく付け加えた。
見ていないものを、見たことにしない。
その一文を書いた時、胸が痛んだ。
正しいことをした痛みではなかった。
遅すぎることに気づいた痛みだった。
ドミニクの委任状についても書いた。
教会の印。
査問使の権限。
調べよ、という言葉。
だが町は、そこに別の言葉を読んだ。
分けよ。
差し出せ。
従わない者を見つけよ。
紙には書かれていない。
それでも、人は読んだ。
私は最後にこう書いた。
印のある紙は、書かれていない言葉まで人に読ませる。
書き終えた時、外で足音がした。
私は紙を伏せた。
入ってきたのは、若い助祭だった。
顔に疲れが残っている。
手に、小さな紙片を持っていた。
「別の村からです」
「今?」
「早馬ではありません。商人が、門のところで渡していきました」
私は紙片を受け取った。
粗い紙だった。
文字は急いで書かれている。
けれど、読めた。
麦を濡れたまま袋に戻すな。
水は煮ろ。
それだけだった。
村の名はない。
署名もない。
ただ、井戸端に貼られていたという。
助祭が不安そうに私を見た。
「これも、異端でしょうか」
私は紙片を見た。
水。
麦。
煮ろ。
生きるための言葉だった。
だが、この町ではもう、生きるための言葉も疑いになる。
「分かりません」
私は答えた。
「分からないまま、預かります」
助祭はうなずいた。
私は紙片を私的な紙の横へ置いた。
公式報告には、まだ書かない。
夜の外で、サン=ヴェールの門がきしんだ。
風かもしれない。
誰かが出ていったのかもしれない。
私は確かめなかった。
確かめられなかった。
ただ、紙の上に残った言葉を見ていた。
水は煮ろ。
それは祈りより短かった。
命令より優しかった。
そして、この先のどの町でも、危険な言葉になり得た。
エティエンヌは戻らなかった。
リアは、まだ姿を見せなかった。
マレーヌの名は、公式のどの欄にも入っていなかった。




