第7話「神はどちらの門に立たれるのですか」
教会裏の風は、表の広場より冷たかった。
石壁に遮られて、火の匂いも、人の息も、少し遠い。
そのかわり、草の匂いがした。
踏まれた草。
濡れた土。
古い墓石にたまった夜露。
教会の裏庭には、小さな墓が並んでいる。
名のある墓。
名の削れた墓。
ただ石を置いただけの墓。
昼間なら、子どもが走り抜けることもある場所だった。
今夜は、誰も走らない。
司祭だけが膝をついていた。
祈る形で。
祈れない顔で。
「神はどちらの門に立たれるのですか」
私はもう一度、同じ問いを置き直した。
答えが欲しかった。
正しい答え。
町へ持って帰れる答え。
ベルトランに渡せる答え。
リアに、マレーヌに、ギヨームに、まだ名を出されていない誰かに、これでいいと言える答え。
紙に書ける答え。
司祭はすぐには返さなかった。
彼の手は組まれたままだった。
指の節が白くなっている。
祈りではなく、手が手を押さえているように見えた。
「マティアス」
ようやく、司祭は言った。
「その答えを知る者が、戦を始めるのです」
私は息を止めた。
望んだ答えではなかった。
だが、逃げた答えにも聞こえなかった。
「戦は、もう外にあります」
「ええ」
司祭はうなずいた。
「外にもあります」
「内にも、あります」
私がそう言うと、司祭は目を伏せた。
否定しなかった。
否定してほしかった。
せめて、そこまでは来ていないと言ってほしかった。
まだ町は町です、と。
まだ隣人は隣人です、と。
まだ家の扉は、家の扉です、と。
だが司祭は、そう言わなかった。
教会の表から、かすかなざわめきが届いた。
誰かが名を呼んでいる。
まだはっきりしない。
だが、名を呼ぶ時の声だった。
人を探す声ではない。
人を決める声。
「代表者が待っています」
私は言った。
「司祭様が、町民に言えば」
「何を?」
「神は、人を差し出せとは望まれない、と」
言ってから、自分の言葉の軽さが怖くなった。
神。
望まれない。
私はいま、誰の名を使おうとしたのか。
司祭は顔を上げた。
怒ってはいなかった。
悲しんでもいなかった。
もっと疲れた顔だった。
「それを私が言えば、町は救われると思いますか?」
「少なくとも、止まります」
「何が」
「人を……選ぶことが」
「いいえ」
司祭は静かに首を振った。
「人は、別の言葉で選びます」
私は黙った。
司祭は組んだ手を見下ろした。
「神の名で止めれば、今度は神に逆らった者を探します。町のために止めれば、町を危うくした者を探します。母を守るために止めれば、その母のために誰が危うくなったのかを探します」
彼の声は低かった。
低いのに、一つずつ耳に残った。
「言葉は、止めるためにも使えます。けれど、止める言葉もまた、誰かを指すことがあります」
私は、広場で見た巻物を思い出した。
教会の封蝋が残る紙。
ドミニクの手の中で、町の司祭の足を止めた紙。
あの紙には、何と書いてあったのか。
私は全部を読んでいない。
見えたのは、印。
肩書き。
教会直属の査問使。
調べよ。
おそらく、そういう意味の文だったはずだ。
だが、広場で人々が聞いたのは違った。
決めよ。
分けよ。
差し出せ。
紙に書かれていない言葉まで、町は読んだ。
読まされた。
私も、その一人だった。
「あの委任状は」
私は言った。
司祭が目を上げる。
「あれは、ドミニク修道士に調べることを許すものですか?」
「そうです」
「決めることを、許すものではない」
司祭はすぐには答えなかった。
その沈黙が、答えだった。
私は続けた。
「なら、なぜ町は従うのですか」
「印があるからです」
「印だけで」
「印だけではありません」
司祭は、やっと手をほどいた。
指先が震えていた。
「人は、印を見る時、自分の恐れも一緒に読みます。紙に書かれていないことを、恐れが補う。だから紙は重くなる」
教会の鐘楼が、風でかすかに鳴った。
鐘が鳴ったわけではない。
吊られた金属が、夜の中で少し揺れただけだ。
それでも私は肩を震わせた。
夜明けまで。
その言葉が、どこにでも入り込む。
「司祭様は」
私は聞いた。
「止めないのですか」
「止めたい」
それは、あまりに早い返事だった。
考えて出した言葉ではない。
ずっと胸の中にあった言葉が、触れられてこぼれたようだった。
「止めたいのです」
司祭はもう一度言った。
「けれど私は、自分の言葉で誰かを救えるほど、強くありません」
「強くなくても」
「強い者の言葉だけが人を殺すのではありません」
司祭は私を見た。
目が赤い。
けれど、その奥にまだ濁っていないものがあった。
「弱い者が、強い名を借りる時も、人は死にます」
私は何も言えなかった。
司祭が神の名を借りることを恐れている。
それは、臆病に見える。
広場の人々はそう見るだろう。
ベルトランも苛立つかもしれない。
ギヨームなら、短く舌打ちするかもしれない。
リアなら、そんな弱い糸で何を縫うの、と言うかもしれない。
だが私は、その怖さを少しだけ理解してしまった。
ベルナールの問い。
ジルの声。
私の筆。
あの時、私は強い者ではなかった。
ただの若い書記だった。
けれど、私の書いたものは、人の死に近づいていった。
弱い手でも、紙の上では刃になる。
それを私はもう知っている。
「では」
私はかすれた声で言った。
「何を書けばいいのですか」
司祭は、少しだけ目を閉じた。
「分からない、と」
「それは、報告になりません」
「ええ」
「代表者は怒ります」
「ええ」
「ドミニク修道士は、無用な書記だと言うでしょう」
「かもしれません」
「町民は、答えを欲しがっています」
「知っています」
短い返事ばかりだった。
だが不思議と、突き放されている感じはなかった。
司祭は、答えを持たないまま、逃げずにそこにいた。
それが、いちばん耐えがたい誠実さに見えた。
「分からない、と書いて、誰かが助かりますか?」
「すぐには」
「なら」
「けれど、分かるふりをして書けば、誰かはすぐに失われます」
風が止まった。
一瞬だけ、裏庭の草が動かなくなる。
町も止まったように思えた。
もちろん、そんなことはなかった。
町は止まらない。
外の兵も止まらない。
夜明けも止まらない。
止まったのは、私の中の何かだけだった。
答えがないことを、答えとして持って帰る。
そんなものを、誰が受け取るのか。
私は受け取れるのか。
「司祭様」
表の方から声がした。
若い助祭だった。
息を切らしている。
「広場に、町民が集まっています」
司祭は立ち上がろうとした。
膝が一度、力を失った。
私は手を伸ばした。
彼は私の腕を借りた。
軽かった。
大人の男なのに、ひどく軽く感じた。
「誰の家に」
司祭が聞いた。
助祭は一度、私を見た。
私に聞かせるべきか迷ったのだろう。
その迷いで、私はもう分かった。
「布屋です」
助祭は言った。
「マレーヌさんの家の前に、人が」
司祭の手が、私の腕の上で固くなった。
表の広場から、声が大きくなってきた。
戸を叩く音が混じっている。
一度。
二度。
三度。
人が扉を叩く音は、鐘より乱れている。
乱れているから、怖い。
誰かが叫んだ。
「開けろ」
その声が、教会裏まで届いた。
司祭は目を閉じた。
祈りではない。
痛みに耐えるための顔だった。
私は記録板を抱え直した。
何を書けばいいのか、まだ分からない。
だが、分からないままでも、行かなければならなかった。
表へ出る石段の向こうで、町が一つの家へ集まっていく。
白い印のない扉へ。
まだ朝ではなかった。
それなのに、誰もがもう、夜明けに間に合わせる顔をしていた。




