第6話「夜明けまで」
夜明けまで。
その言葉は、城壁の石に当たり、町の中へ落ちてきた。
落ちてきたものは、音だけではなかった。
時間だった。
町に残された時間。
考える時間。
迷う時間。
誰かの名を口にするまでの時間。
それらが全部、夜明けまでという一言に押し込められた。
城門の前に、使者が立っていた。
馬には乗っていない。
槍を持っている。
槍先には、細く巻かれた紙が結ばれていた。
紙は風に震えている。
怖がっているように見えた。
もちろん、紙が怖がるはずはない。
怖がっていたのは、それを見る私たちの方だった。
ギヨームは門の上から使者を見下ろしていた。
両手は城壁の縁をつかんでいる。
指が白い。
白い印ではない。
力を入れすぎた人間の白だった。
「サン=ヴェールへ」
使者が言った。
声は、門の上まで届いた。
「夜明けまで。異端を渡せ」
町の中で、誰かが息を呑んだ。
それが誰だったのか、分からない。
私かもしれない。
ベルトランかもしれない。
門の陰に集まっていた町民かもしれない。
ひとつの息が、すぐに幾つもの息へ分かれた。
夜明けまで。
異端を渡せ。
その二つの言葉は、町民の口に入るには硬すぎた。
だから、すぐに別の形へ砕かれていく。
誰を。
何人。
どの家。
白い印のない家。
祈りが遅れた家。
母親が奥に隠れている家。
言葉は、勝手に道を見つける。
私は記録板を抱えていた。
書くためではない。
胸の前に何かを置いていないと、息が浅くなりすぎるからだ。
ベルトランが門の下へ進んだ。
見上げる。
「その紙を渡せ」
使者は、槍を少し上げた。
槍先に結ばれた巻物が揺れた。
門は開かない。
開けられない。
開ければ、それだけで町が先に折れたように見える。
だが、紙は受け取らなければならない。
ギヨームが短く言った。
「籠を下ろす」
門の内側から、小さな荷籠が縄で下ろされた。
普段は、外から来た者の通行札や小さな荷を確かめるためのものだ。
人を入れずに、物だけを受け取る。
門番の知恵だった。
使者は槍先の紙をほどき、籠へ入れた。
その動きは丁寧だった。
丁寧すぎた。
まるで、こちらに礼を尽くしているかのように。
籠が引き上げられる。
ギヨームは紙を取らなかった。
すぐ横にいた若い衛兵が手を伸ばしかける。
ギヨームはその腕を押さえた。
「代表に渡せ」
言葉は短い。
だが、腕を押さえる手は強かった。
自分の手で受け取れば、自分が門を開けたような気がするのだろう。
紙一枚でも、そうなのだ。
私はその気持ちが少し分かった。
紙は、扉より軽い。
けれど、開けるものは扉だけではない。
ベルトランが巻物を受け取った。
封蝋は赤かった。
教会の印が押されている。
ドミニクの名もあった。
教会直属の査問使。
その肩書きが、夜の中で妙に乾いて見えた。
ベルトランは封を切った。
目を走らせる。
口元が固くなった。
読まずとも、内容は分かっている。
さっき聞いた言葉が、紙の中で整えられているだけだ。
夜明けまで。
異端の疑いある者を差し出すこと。
協力する家を示すこと。
拒む者は町全体の拒絶と見なすこと。
紙の上では、どれもまっすぐな文字だった。
まっすぐな文字は、人を曲げる。
「人間を門から出すのか」
ギヨームが言った。
城壁の上からではない。
いつの間にか、階段を下りてきていた。
息が荒い。
門の鉄粉と汗の匂いがした。
「家畜みたいに」
使者は答えなかった。
もう用件は済んでいる。
答える必要がない顔だった。
その顔が、ギヨームをさらに怒らせた。
「聞こえなかったか。人間だぞ。名前がある。家がある。飯を食う。寝る。門を出す時だけ、数にするのか」
「私は伝えた」
使者は言った。
「夜明けまで」
「そればかりだな」
ギヨームが一歩出た。
ベルトランが腕で止める。
「衛兵長」
「代表、これは門じゃない」
ギヨームはベルトランを見た。
「屠り場の柵だ」
その言葉に、周囲の町民がざわめいた。
誰かが「そんな言い方を」と言った。
誰かが「でも」と言った。
でも。
その後に続く言葉を、私は聞きたくなかった。
でも、出さなければ全員が。
でも、誰か一人なら。
でも、印のない家なら。
でも、疑われている者なら。
でも、母親ひとりなら。
言葉はまだ声になっていない。
それでも、町の空気にはもう混じっていた。
ベルトランは巻物を握りしめた。
「広場へ戻る。代表者を集める」
「集めてどうする」
ギヨームが言った。
「夜明けまでに、人の出し方を相談するのか」
「出さない方法を探す」
「門は閉めている」
「分かっている」
「俺は閉めている」
「分かっている」
「なのに、あいつらはもう中にいるみたいな顔をしている」
ギヨームの声が、そこで少し低くなった。
「門の中で、こっちが勝手に道を作ってるからだ」
ベルトランは返せなかった。
私も返せなかった。
門は閉まっている。
だが白い印は塗られた。
名は囁かれた。
候補は作られた。
町はまだ外敵を入れていない。
けれど、外の言葉だけはもう家々の中に入っていた。
その頃、リアは店の奥で母の手を引いていた。
これは、後でエティエンヌから聞いた。
彼の話はところどころ乱れていた。
自分が何を言ったかより、リアが何を言ったかばかり覚えていた。
だから私は、全部を正確には書けない。
ただ、その夜、リアが母を隠そうとしたことだけは確かだ。
布屋の奥には、古い地下倉があった。
湿気を嫌う布は本来、地下に置かない。
それでも、古い羊毛や売り物にならない端切れ、壊れた木箱はそこへ押し込まれていた。
床板を上げると、冷たい空気が上がってくる。
リアは片手に燭台を持ち、片手で母の手を引いた。
「早く」
「そんなに引かなくても、足はまだついています」
マレーヌは静かに言った。
「今は冗談いらない」
「冗談ではありません。転んだら、あなたがまた怒るでしょう」
「怒るから転ばないで」
「難しい注文ね」
マレーヌの声は、いつもと大きく変わらなかった。
それがリアを苛立たせた。
母が泣けば、抱きしめられた。
母が叫べば、いっしょに叫べた。
けれど、母は静かだった。
静かに階段を下り、静かに壁へ手をつき、静かに娘の焦りを受け止めていた。
リアはそれが怖かった。
母がもう、自分より先のことを考えている気がしたからだ。
「ここなら見つからない」
リアは言った。
「羊毛の袋を前に積む。上に反物を置く。私が店に立つ。誰かが来たら、母さんは裏口から」
「裏口の先はどこ」
「路地」
「路地の先は」
「井戸裏」
「井戸裏の先は」
「南門の羊毛倉」
「そこにも誰かがいるでしょう」
「いなければ行ける」
「いれば?」
「黙ってて」
リアの声が鋭くなった。
マレーヌは黙った。
その沈黙に、リアはすぐ傷ついた顔をした。
「違う。今のは」
「分かっています」
「分かってない」
「そうかもしれません」
マレーヌは、娘の髪へ手を伸ばした。
リアは避けなかった。
母の指が、乱れた髪を耳の後ろへ流す。
子どもの頃と同じ手つきだった。
その手つきが、今は残酷だった。
子どもの頃と同じことができるのに、子どもの頃には戻れない。
「リア」
「なに」
「私が隠れれば、誰かが代わりに選ばれます」
「知らない」
「知っています」
「知らないって言ってる」
「あなたは知っています」
リアは燭台を木箱の上に置いた。
火が揺れる。
地下の壁に、二人の影が大きく伸びた。
「母さんを選ぶくらいなら、別の誰かを選べばいい」
言ってから、リアは息を止めた。
自分の言葉が、自分の口から出たことを信じたくない顔だった。
マレーヌは責めなかった。
責めないことが、リアには余計につらかった。
「そう思うのは、悪いことではありません」
「悪い」
「娘なら、そう思います」
「じゃあ母さんは」
「母なら、別の娘を見てしまいます」
リアは何も言えなかった。
マレーヌは続けた。
「私が隠れて、誰か別の母親が門へ連れていかれる。すると、その娘はあなたと同じ顔をします」
「やめて」
「私はその顔を、見ないふりができない」
「やめてって言ってる」
「だから、迷っています」
リアは顔を上げた。
マレーヌは微笑んでいなかった。
強い顔でもなかった。
ただ、疲れていた。
とても疲れた顔だった。
「立派なことを言っているのではありません。怖いのです。隠れるのも、出ていくのも、どちらも怖い」
「なら隠れて」
「隠れたら、あなたが私を守ったと思うでしょう」
「守りたい」
「守れなかった時、あなたは自分を責める」
「そんなの、あとでいい」
「あと、が来る人間は少ないのよ」
リアの目に涙がたまった。
それでもこぼれなかった。
こぼせば、母が本当に危ないことを認める気がしたのだろう。
彼女は泣く代わりに、古い布を引きずった。
羊毛袋を動かす。
木箱をずらす。
母のための隙間を作る。
息ができるだけの隙間。
人が隠れるには狭すぎる。
死ぬには広すぎる。
そんな隙間だった。
「ここに入って」
リアは言った。
「少しだけ。夜明けまで。夜明けを過ぎたら、きっと何とかする」
「夜明けまで、という言葉は」
マレーヌは静かに言った。
「今夜、いろいろな人が使いますね」
「母さん」
「はい」
「お願いだから、今は私の言うことを聞いて」
マレーヌは娘を見た。
長い沈黙があった。
やがて、彼女は頷いた。
リアの顔に、ほんの少し光が戻った。
だがマレーヌは、隙間に入る前に自分の袖を見た。
袖口に、リアが急いで巻いた布紐があった。
手を引くために巻いたものだ。
逃げる途中で離れないように。
マレーヌは、それをほどき始めた。
「何してるの」
「きついと、跡が残ります」
「跡なんてどうでもいい」
「後で、あなたが見るでしょう」
「見ない」
「あなたは見る子です」
布紐がほどけた。
リアは、その手をもう一度つかもうとした。
だが、マレーヌは娘の髪を撫でた。
手首ではなく、髪を。
引かれるためではなく、残すための手つきだった。
エティエンヌは入口の上で見張っていた。
彼は何度も外を見た。
足音が増えている。
町民が動き始めている。
夜明けまでという言葉が、通りを走っている。
それは鐘より早かった。
人が人に伝えるからだ。
鐘は一度鳴れば同じ音だが、人の口は鳴るたびに意味を足す。
夜明けまで。
異端を渡せ。
マレーヌの名が出ている。
白い印のない家を見ろ。
布屋の奥にいる。
逃げるかもしれない。
止めろ。
まだ誰も大声では叫んでいない。
だが、町はもう叫ぶ準備をしていた。
私はその頃、教会へ向かっていた。
ベルトランに命じられ、司祭を呼びに行ったのだ。
司祭は教会の表にはいなかった。
祭壇にもいなかった。
裏庭にいた。
膝をついていた。
地面は冷たかったはずだ。
だが彼は、立ち上がろうとしなかった。
両手を組んでいる。
祈っているように見えた。
しかし、口は動いていなかった。
祈りの言葉が出ないのだと、すぐに分かった。
司祭が祈れない時、町は何にすがればいいのか。
そんなことを思って、すぐに自分を恥じた。
司祭も人だ。
神の言葉を持っている人ではなく、神の前で言葉を探す人だ。
それでも私は、答えが欲しかった。
欲しくて、たまらなかった。
「司祭様」
彼はゆっくり顔を上げた。
目が赤かった。
泣いたのか、眠っていないのか、分からなかった。
「マティアス」
声はかすれていた。
「代表者が、広場へ」
「分かっています」
「夜明けまでです」
「分かっています」
分かっています。
その言葉は、何も進めなかった。
分かっているのに、誰も止められない。
分かっているのに、町は動く。
私は一歩、近づいた。
「神は」
声が、自分でも驚くほど固かった。
司祭は私を見た。
「神はどちらの門に立たれるのですか」
教会裏の風が、草を揺らした。
城門の方で、誰かが走る音がした。
町のどこかで、戸板が叩かれた。
夜明けは、まだ来ていない。
だが、町はもう夜明けに追いつかれ始めていた。




