第3話「名簿は救済のために作った」
役所の奥の部屋には、夜になっても人が残っていた。
蝋燭の火は六つ。
机の上には、もっと多くの影があった。
住民名簿。
洗礼簿。
婚姻の記録。
埋葬の記録。
町で生まれた者。
町に入った者。
町から出た者。
紙の上では、みんな同じ厚さの線だった。
けれど、その夜だけは違った。
名前が、重かった。
マティアスは筆を持ったまま、最初の一行から動けずにいた。
向かいの椅子では、ベルトランが両手を組んでいる。
その指の節が白くなっていた。
町の代表者たちは、誰も座り心地を探さなかった。
商人のロランは外套を脱がず、革の手袋を片方だけ外している。
粉屋の親方は、膝の上で帽子を潰していた。
司祭は洗礼簿の背に手を置いたまま、祈りの言葉を口にしなかった。
「三人」
最初に口にしたのは、ロランだった。
声は小さかった。
小さいのに、部屋の隅まで届いた。
「三人で済むなら、まだ倉は残る」
粉屋の親方が顔を上げた。
「三人で済むと、誰が言った」
「誰も言っていない。だから、こちらで形を作るんだ」
ロランは手袋を外した指で、机の端を二度叩いた。
「向こうは名簿を求めている。なら、名簿を渡す。空の箱を差し出せば、箱ごと持っていかれる」
「町民を箱にするな」
ベルトランの声は低かった。
怒鳴らなかった。
怒鳴れば、その言葉が壁に跳ね返って、自分にも刺さると知っているようだった。
「数の話にするな。町民の名だ」
ロランは黙った。
だが、黙っただけだった。
引き下がったわけではない。
別の代表者が、咳払いをした。
「三人で足りないなら、五人だ」
誰もその男を見なかった。
見なければ、自分が言ったことにもならない。
そんな空気が、部屋に広がった。
「五人なら、町は残るかもしれない」
「残った町で、誰がパンを買う」
粉屋の親方が言った。
「差し出した家の隣人が、うちのパンを食うと思うか」
「食わなければ飢える」
ロランが返した。
「飢えれば買う」
その言葉に、司祭がかすかに目を閉じた。
マティアスは、筆先が乾いていくのを見ていた。
乾けば書けなくなる。
けれど墨を足せば、書けてしまう。
それが嫌だった。
「マティアス」
ベルトランが名を呼んだ。
「候補を拾えるか」
候補。
その言葉が、紙の上に落ちた。
名ではなく。
人でもなく。
候補。
マティアスは唇を開いた。
「それは、まだ」
自分でも情けないほど、小さな声だった。
「まだ、何だ」
「根拠を見ていません」
ベルトランは目を伏せた。
責めているのではない。
分かっている顔だった。
けれど、その顔の上に、町の代表者という役目が重なっていた。
「根拠を作れとは言っていない。記録を見ろと言っている」
「記録を見ても、誰が疑わしいかは分かりません」
「分かるものからでいい」
ロランが横から言った。
「よそから来た者。門の外に親戚がいる者。旅人と商売した者。夜に祈りへ来なかった家。いくらでもある」
「それは、生活です」
マティアスは言った。
声が少しだけ強くなった。
「疑いではありません」
「生活の中に疑いは混じる」
ロランは疲れた目で笑った。
「粉にも石が混じる。だからふるいにかける」
粉屋の親方が帽子を握り直した。
「うちの粉を、そんな話に使うな」
「たとえだ」
「たとえにされた家は、燃えるかもしれん」
部屋の外で、誰かが走る音がした。
すぐに遠ざかった。
町の中に兵はまだ入っていない。
だが、足音だけはもう入っていた。
マティアスは住民名簿を開いた。
最初の頁には、広場に近い家々の名が並んでいた。
パン屋。
桶職人。
洗濯女。
皮なめし職人。
子どもの名は、小さく脇に添えられていた。
大人の名の下に、未来みたいに書かれていた。
この名簿を作った時、マティアスは一つずつ家を回った。
生まれた子が教会の施しを受けられるように。
病の老人が配給から漏れないように。
火事が起きた時、どの家に何人いるか分かるように。
名簿は、救済のために作った。
少なくとも、そう教えられた。
「名簿は」
マティアスは紙から顔を上げた。
「救済のために作ったものです」
誰もすぐには答えなかった。
蝋燭の芯が小さく鳴った。
「だからこそだ」
司祭が言った。
初めて聞こえるほどの声だった。
「救うために、残す者を定めねばならない時がある」
マティアスは司祭を見た。
司祭は目を合わせなかった。
洗礼簿の背に置いた手だけが、少し震えていた。
「残す者を定めるなら」
マティアスは言った。
「残されない者も定めることになります」
司祭は息を吸った。
そして、吐けなかった。
ベルトランが机に置かれた封書を見た。
ドミニクの使者が置いていったものだった。
封は開かれている。
そこには丁寧な文字で、町に求めるものが書かれていた。
異端に関わる者の名。
疑いある者の住まい。
調べに協力する者の印。
言葉は丁寧だった。
丁寧な分だけ、逃げ道がなかった。
「名のない疑いは、町全体の疑いとなる」
ベルトランが、前夜に聞いた言葉を繰り返した。
その声は、自分で言って自分で嫌っている声だった。
「あの男はそう言った」
「なら、町全体を疑わせないために名を出すしかない」
ロランが言った。
「子どもらまで連れていかれるよりは、まだ」
「まだ、何ですか」
マティアスは聞いた。
ロランの口が止まった。
「まだ、ましだと言うのですか」
「言いたくて言っていると思うか」
ロランの声が荒れた。
すぐに抑えた。
商人らしく、損を数える顔に戻ろうとした。
だが戻りきらなかった。
「うちには娘が二人いる。下の子は、兵の足音を聞くだけで棚の下に隠れる。町が疑われたら、あの子も外へ引きずり出されるかもしれない」
「だから、別の誰かの娘を」
「そうだ」
ロランは言った。
言ってから、顔を歪めた。
「そうだ。俺は今、そういう話をしている。分かっている」
部屋は静かになった。
分かっている者ほど、ひどいことを言う。
分からない者よりも、ずっと正確に。
マティアスは、前の町で作った調書を思い出した。
書けなかった空白。
書かなかった痛み。
紙の上に余白として残り、あとから見れば何もなかったように見える場所。
あの時は、空白が怖かった。
今回は違う。
名前がありすぎる。
ありすぎる名前が、誰かを選べと言っている。
紙の上に町が丸ごと乗っている。
丸ごと救えないなら、削れと言っている。
「書けません」
マティアスは言った。
ベルトランが顔を上げた。
「何を」
「疑いの名簿です」
「マティアス」
「見ていません。聞いていません。調べてもいません」
筆を持つ指が痛い。
それでも離せなかった。
「書けば、それは記録になります。記録になれば、あとから見た人は、疑いがあったと思います」
司祭の喉が鳴った。
ロランは目をそらした。
「何も書かなければ、町全体が疑われる」
ベルトランが言った。
声に責めはなかった。
だから、余計に苦しかった。
「代表者として、私は町を守らなければならない」
「町は、人の名でできています」
「分かっている」
ベルトランの声が、そこで初めて少し割れた。
「分かっているから、名を扱う者をここに呼んだ」
マティアスは返せなかった。
呼ばれた理由を、嫌というほど理解した。
町で文字を書ける者は少ない。
記録を読める者は、もっと少ない。
マティアスは教会から命じられ、町を移り、名を集め、名を整え、名を残してきた。
救うために。
忘れないために。
奪われた時、奪われたと証明するために。
その力が今、奪う側の手に近づいている。
「洗礼簿を見ます」
マティアスは言った。
「住民名簿だけでは、分かりません」
「何が分かる」
ロランが聞いた。
「誰が、同じ教会で名を受けたかです」
「それが何になる」
「分かりません」
マティアスは正直に答えた。
「でも、疑いを作るより先に、同じ場所にいたことを見ます」
ベルトランはしばらく黙っていた。
やがて、司祭に目を向けた。
「鍵を」
司祭は頷き、腰の鍵束を外した。
その音は、いつもなら教会の戸棚を開ける音だった。
その夜は、別のものを開ける音に聞こえた。
書記室は、役所の奥よりさらに寒かった。
壁際の棚に、教会の写しが並んでいる。
湿気を吸った革の匂いがした。
司祭は一冊ずつ机へ運んだ。
マティアスは頁をめくった。
名。
名。
名。
生まれた日。
洗礼を受けた日。
父の名。
母の名。
代父の名。
代母の名。
どの名も、誰かが濡れた額に水を受けた日のものだった。
泣いた子もいただろう。
眠っていた子もいただろう。
母親が笑った日も。
父親がぎこちなく胸を張った日も。
今は、全部が線になっている。
マティアスは一つの名で手を止めた。
ロランが疑いの例として出した、門の外に親戚がいる家。
その子の代母は、粉屋の親方の妻だった。
別の頁をめくる。
夜の祈りへ来なかったと噂された家。
その父親は、司祭の前任者の葬儀で棺を担いでいた。
さらにめくる。
旅人と商売した者。
その妻は、ベルトランの末子と同じ日に洗礼を受けていた。
「洗礼名が同じです」
マティアスは言った。
声が紙に吸われた。
「ここにも、ここにも……主の名がある」
司祭は隣で頁を見ていた。
長い沈黙のあと、ぽつりと言った。
「だからこそ、裂くのが苦しい」
マティアスは顔を上げた。
「裂くのですか」
司祭は答えなかった。
答えないことが、答えだった。
廊下から足音がした。
ベルトランが入ってきた。
その後ろにロランと、他の代表者たちが続く。
彼らは書記室の狭さに戸惑い、すぐに棚の記録へ目をやった。
そこに答えがあると思っている。
答えがあるなら、誰かが苦しまずに済むと思っている。
「どうだ」
ベルトランが聞いた。
マティアスは開いた頁を指した。
「分けられません」
「理由を言え」
「同じです」
「何が」
「この町で生まれ、この教会で名を受け、同じ井戸の水を飲んでいます」
マティアスは頁をめくった。
「疑いのある家だけを線で囲もうとすると、囲み線が隣の家に触れます。隣の家を避けると、その代父に触れます。代父を避けると、その妻に触れます」
「町だからな」
ギヨームの声がした。
いつの間にか、扉のところに立っていた。
外套に夜露がついている。
「門も同じだ。片側だけ閉めれば済む門なんてない」
「衛兵長」
ベルトランが振り向いた。
「外は」
「静かすぎる」
ギヨームは短く答えた。
「兵は焚き火を増やした。寝る気は薄い」
ロランが唇を噛んだ。
「時間がない」
「時間がないからといって、根拠のない名は渡せない」
ベルトランが言った。
その言葉に、マティアスはわずかに息をついた。
だが、すぐにロランが首を振った。
「名を渡せないなら、渡さない者を示せばいい」
「どういう意味だ」
「疑いのない家だ」
ロランは手袋を握った。
「協力する家。祈りを欠かさない家。町の代表者が責任を持てる家。そこに印をつける」
司祭が顔を上げた。
「印」
「白い石灰でいい」
ロランは早口になった。
計算が一度走り始めると、止まらない声だった。
「扉に十字を塗る。兵にも見える。疑いのない家だと分かる。名を出さずに、町の協力を示せる」
「印のない家はどうなる」
マティアスが聞いた。
ロランは答えなかった。
答えなくても、皆が分かった。
印のない家。
それは、疑いがあると書かれていない家ではない。
助けると書かれていない家になる。
ベルトランは机に置かれた洗礼簿を見た。
そして、窓の外を見た。
夜の向こうに、兵の焚き火が赤く揺れている。
「町民の扉に、町民を分ける印を塗るのか」
誰も答えなかった。
司祭が胸元で十字を切ろうとして、途中で手を止めた。
マティアスは筆を握ったまま、白い石灰の粉を想像した。
白。
清めの色。
祝福の色。
洗礼の布の色。
その白が、扉の上で境目になる。
ベルトランが深く息を吐いた。
「朝までに、代表者を集める」
「朝では遅い」
ロランが言った。
「夜のうちに塗る。朝、兵が門を見る前に」
ギヨームが扉の外へ目を向けた。
「石灰なら、南倉庫にある」
その一言で、部屋の中の空気が動いた。
できる。
できてしまう。
マティアスはそれが一番恐ろしかった。
誰かが悪魔のような命令を下したのではない。
誰かが町を守ろうとした。
誰かが子どもを守ろうとした。
誰かが根拠のない名を渡すまいとした。
それでも、次の道具が見つかってしまう。
「書きません」
マティアスは言った。
ベルトランがこちらを見た。
「白い印の名簿も、私は書きません」
ロランが苦しそうに笑った。
「書かなくても、扉は見える」
その通りだった。
紙にしなくても、町そのものが名簿になる。
扉が頁になる。
白い印が、文字になる。
印のない家が、空白になる。
マティアスは、もう一度あの調書の空白を思い出した。
何も書かれていない場所は、何もなかった場所に見える。
けれど今度の空白は、町中の扉にできる。
夜の底で、南倉庫の鍵が開く音がした。
白い粉を入れた桶が、一つずつ運び出される。
誰も大声を出さなかった。
誰も命令だとは言わなかった。
ただ、町を救うためだと、自分に言い聞かせていた。
マティアスは窓の向こうを見た。
最初の扉に、刷毛が触れる。
暗い木の上に、白い線が一本引かれた。
それは祈りの形に似ていた。
けれど祈りよりも先に、境目に見えた。




