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前世社畜の令嬢、『複式簿記』で没落領地を即黒字化!〜冷徹補佐官と最強の仕事中毒パートナーになり極上ハーブ茶で王都席巻〜  作者: 黒崎隼人


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第9話「計算の暴力と、白旗のインク」

 王都のパレルモ商会、その最上階に位置する特別応接室。

 厚い絨毯が足音を吸い込み、重厚なマホガニーのテーブルが室内の空気を重く沈ませている。

 壁に掛けられた振り子時計が、等間隔で乾いた音を刻んでいた。

 アリアは革張りのソファに深く腰掛け、目の前に置かれた冷めた紅茶の液面を見つめていた。

 向かいの席には、たっぷりと肥え太った初老の男が座っている。

 隣領を治めるダート子爵。

 彼の額には玉の汗が浮かび、太い指先が落ち着きなくテーブルの縁を叩いていた。


「……ローズ男爵家が、我が領の流通を頭越しに素通りして直接王都へ荷を運び込んだ件。誠に遺憾である」


 ダート子爵の低くしゃがれた声が、沈黙を破る。

 彼は懐から絹のハンカチを取り出し、額の汗を乱暴に拭った。


「我々は近隣の領地として、貴族間の相互扶助の精神に基づき、流通の統合を提案したはずだ。それをコソ泥のような真似で水路を使い、抜け駆けをするとは」


「抜け駆け、ですか」


 アリアは顔を上げ、冷ややかな視線を子爵へ向けた。


「相互扶助という言葉の意味を、私は勘違いしていたようです。私の辞書では、街道に私兵を配置して隣領の荷馬車を不当に足止めし、ギルドに圧力をかけて輸送を妨害する行為は、扶助ではなく敵対行為と呼ぶのですが」


 ダート子爵の顔に、一瞬だけ狼狽の色が走る。

 だが、彼はすぐに傲慢な態度を取り繕い、鼻で笑った。


「証拠のない言いがかりだな。街道の警備は治安維持の一環だ。ギルドの件にしても、彼らが自主的に貴様の荷を拒否しただけのこと。没落寸前の貧乏男爵家と取引をして、焦げ付くのを恐れたのだろうよ」


「証拠なら、ここにあります」


 アリアの隣で直立不動の姿勢を保っていたルークが、一枚の羊皮紙をテーブルの中央へ滑らせた。

 紙が木肌を擦る音が、異様に大きく響く。

 ダート子爵が羊皮紙に目を落とす。

 そこに記されているのは、彼が輸送ギルドの幹部に宛てた賄賂の送金記録と、裏帳簿の写しだった。


「な、なぜ貴様らがこれを……」


 子爵の顔面から、急速に血の気が引いていく。


「情報というものは、正しく対価を支払えば簡単に手に入るものです」


 ルークが眼鏡のブリッジを中指で押し上げる。

 彼の声は、どこまでも平坦で冷酷だった。


「それに加え、ダート領の主要産業である鉄鉱石の採掘権について。過去五年間、王家への申告漏れが疑われる数字の不自然な推移を見つけました。こちらの資料は、王都の監査院へ提出する準備がすでに整っております」


 ルークはさらに分厚い書類の束をテーブルに積み上げた。

 ドスン、という重い音が、子爵の肩をびくっと跳ねさせる。

 アリアは紅茶のカップを手に取り、香りだけを嗅いでから静かにソーサーへ戻した。


「子爵。あなたは私たちを、少しばかり運良く特産品を当てただけの無知な子供だと見くびっていたようですね」


 アリアの言葉が、鋭い刃となって子爵の喉元に突きつけられる。


「ローズ家は今、王都の有力な商会や貴族たちと強固なパイプを構築しました。私たちのハーブ茶と織物は、彼らの日常に欠かせないものになりつつあります。もし私たちがここで不当な扱いを受ければ、彼らが黙っていないでしょう」


 ダート子爵の唇が、紫色に震えている。

 彼はハンカチを握りしめ、何かを言い返そうと口を開閉したが、声は出なかった。

 圧倒的な情報の差と、逃げ場のない論理の包囲網。

 彼の拠り所としていた権力と財力は、机上に並べられた数字の暴力の前に完全に無力化されていた。


「……どうしろと、言うのだ」


 絞り出すような声。

 それは、完全な降伏の合図だった。

 ルークが一枚の契約書を差し出す。


「ダート領の街道におけるローズ家所有の荷馬車の無条件通行許可。および、王都への流通網の独立性の承認。さらに、今回の妨害行為に対する損害賠償として、ダート領で産出される鉄鉱石の優先買取権の付与。……これらに署名していただきます」


「ば、馬鹿な。鉄鉱石の優先買取権だと。そんな条件を呑めば、我が領の利益が……」


「監査院の調査が入り、脱税が発覚して爵位を剥奪されるよりは、安上がりの代償かと存じますが」


 ルークの氷のような視線が、子爵を射抜く。

 子爵は力なく肩を落とし、震える手で羽ペンを握った。

 インク瓶にペンを浸す手が小刻みに揺れ、契約書の末尾に乱れた筆跡でサインが刻まれる。

 アリアはその様子を無表情で見下ろしていた。

 同情はない。

 ここで彼を叩き潰しておかなければ、いずれ再び牙を剥かれることは自明の理だ。

 領民の笑顔と、自分たちの平和な未来を守るためなら、彼女はどこまでも冷徹になれた。


「契約は成立しました」


 ルークがインクの乾きを確認し、契約書を素早く鞄に収める。


「今後の良好な関係に期待いたします。ダート子爵」


 アリアは優雅に立ち上がり、一礼した。

 背を向けて応接室を後にする彼女の足取りは、羽のように軽かった。


◆ ◆ ◆


 王都の大通りに出ると、空は抜けるような青空だった。

 馬車の行き交う喧騒が、耳に心地よく響く。


「完璧な勝利でしたね。お嬢様」


 アリアの斜め後ろを歩くルークが、静かに言う。


「ルークが用意してくれた裏帳簿のおかげよ。あれがなければ、最後までしらばっくれられていたわ」


「ダート子爵の金の流れは、以前から不審な点が多くありました。少し探りを入れただけで、埃が出るわ出るわ……無能な人間の帳簿を見るのは、それだけで苦痛です」


 ルークの言葉に、アリアは吹き出しそうになるのを必死に堪えた。

 彼は本当に、数字の美しさに異常な執着を持っている。


「これで、私たちの領地を脅かす外敵は当分現れないわ。いよいよ、内政に完全に集中できる」


「ええ。帰ったら、まずは西区の灌漑工事の予算を見直しましょう。鉄鉱石を安く仕入れられるようになったので、水路の補強に鉄骨を使えるかもしれません」


「いいわね。それから、秋の収穫祭の準備も進めないと」


「収穫祭、ですか。無駄な出費の典型ですが」


「無駄じゃないわ。領民たちの労働を労い、連帯感を高めるための重要な投資よ」


 アリアが立ち止まり、ルークを振り返る。


「あなたも参加するのよ、ルーク。一緒に」


 ルークは一瞬だけ目を丸くし、すぐに視線を逸らした。


「……私は補佐官です。祭りのような非生産的な行事に参加する義務は」


「義務ではなく、権利よ。私たちが一緒に築き上げた豊かさを、一番近くで実感する権利」


 アリアのまっすぐな視線から逃れられないと悟ったのか、ルークは小さく息を吐いた。


「……分かりました。ただし、私のスケジュールが許せばの話ですが」


「言質は取ったわよ」


 アリアは満面の笑みを浮かべ、馬車乗り場へと足を踏み出した。

 隣を歩くルークの気配が、今はただ頼もしく、そして心地よかった。

 二人の戦いは大きな節目を迎え、物語は最終章へと向かって加速していく。

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