第10話「黒字の決算と、夜明けの灯火」
ローズ領への帰還は、凱旋行進のようなものだった。
王都での大成功と、ダート子爵家からの謝罪と賠償のニュースは、アリアたちが到着するよりも早く領内に知れ渡っていた。
馬車が領主の館の門をくぐると、集まっていた大勢の領民たちが一斉に歓声を上げた。
手には収穫されたばかりの麦の穂や、色鮮やかな秋の花が握られている。
「お嬢様、万歳」
「俺たちの領主様、万歳」
窓を開けると、彼らの熱気と土の匂いが混ざり合った風が車内へ吹き込んできた。
アリアは笑顔で手を振り返し、胸の奥が熱くなるのを感じていた。
かつて、この領地の民の瞳には諦めと絶望しか宿っていなかった。
それが今、希望に満ちた活力へと変わり、確かな未来を見据えている。
「すごい熱気ね」
「彼らにとって、あなたは救世主ですから」
ルークが馬車の揺れに合わせて身体をわずかに傾けながら、淡々と応じる。
「私一人じゃ何もできなかったわ。ルークがいたからよ」
「私は計算式を組み上げ、交渉の手足として動いただけです。その数式に命を吹き込み、彼らを動かしたのは、あなたの情熱だ」
ルークの横顔は、集まる領民たちを静かに見渡している。
その瞳の奥には、いつもの冷徹さとは違う、穏やかな光が宿っていた。
館の正面玄関で馬車が止まる。
長旅の疲労で身体は重かったが、アリアの足取りは驚くほど軽かった。
◆ ◆ ◆
その夜。
誰もいなくなった執務室に、ランタンの炎が二つ揺れている。
机の上には、王都での取引の決済書、ダート領からの賠償金の証明書、そして領内の秋の税収予測の書類がうず高く積まれていた。
アリアは羽ペンを握り、真新しい総勘定元帳の最後のページに数字を書き込んでいく。
借方と貸方の数字が、一糸乱れぬ美しさで並んでいく。
「これで、すべての債権者への返済が完了します」
ルークが横から別の書類を差し出し、アリアの書き込んだ数字と照合する。
「……一致しました」
彼が静かに宣言する。
アリアはペンの動きを止め、深く息を吐き出した。
「つまり」
「ええ。ローズ男爵家の負債は、完全にゼロになりました。それどころか、現在金庫にある余剰資金は、領地をさらに二つ買い取れるほどの額に達しています」
ルークの言葉が、静かな部屋に反響する。
黒字化。
前世で過労死するまで追い求めていた、利益という名の数字。
だが、今目の前にある数字は、単なる企業の利益ではない。
領民の笑顔であり、明日への希望であり、アリア自身が生き抜いた証だった。
「終わったのね……」
アリアの目頭が熱くなり、視界が滲んだ。
ペンを持つ手が震え、ポツリと、帳簿の余白に透明な雫が落ちる。
「泣いているのですか」
ルークの声が、普段よりもずっと近くで聞こえた。
気がつけば、彼はアリアのすぐ隣に立ち、彼女の手元を見つめている。
「泣いてないわ。インクの匂いが目に染みただけ」
アリアは慌てて目元を擦ろうとしたが、それよりも早く、ルークの手が伸びてきた。
彼の指先が、アリアの目尻の涙をそっと拭い取る。
冷たいはずの彼の指が、今は火傷しそうなほど熱く感じられた。
「……よく、頑張りましたね。アリア」
お嬢様でもなく、領主代行でもなく。
彼が初めてアリアの名前を口にした瞬間だった。
アリアは顔を上げ、彼の瞳を真っ直ぐに見つめ返した。
銀縁眼鏡の奥の瞳は、これまでにないほどの深い熱を帯びて、アリアを捉えて離さない。
「ルーク……」
「私は、数字の計算しかできないつまらない男です。ですが、あなたが隣にいると、私の計算式は常に想定外のエラーを起こす。……それが、これほど心地よいものだとは思いませんでした」
ルークの顔が近づく。
彼から漂うインクと紙の匂い、そして微かなハーブの香りが、アリアの呼吸を支配する。
二人の唇が触れ合う直前、アリアは小さく微笑んだ。
「そのエラー、一生直らないかもしれないわよ」
「望むところです」
ルークの腕がアリアの背中に回り、強く抱き寄せられる。
ランタンの炎が揺れ、重なり合った二人の影が壁に長く伸びた。
窓の外では、夜明けの光が白々と空を染め始めている。
領地の長い冬が終わり、暖かい春が訪れようとしていた。
机の上に残された帳簿の黒い数字は、二人の確かな未来を祝福するように、静かに朝日に照らされていた。
数日後、ローズ領は建領以来最大の祝賀祭を迎える。
それは、過去の清算の終わりであり、二人で歩む新たな人生の始まりでもあった。




