第11話「黄金の麦穂と、結ばれる指先」
澄み切った秋の空気が、開け放たれた窓から勢いよく流れ込んでくる。
風に揺れる薄手のカーテンが、柔らかな朝の光を細かく砕いて床に散らしている。
アリアは鏡台の前に座り、真新しいドレスの襟元を指先で整えた。
普段のインク染みのついたブラウスとは違う、深い群青色のベルベット生地。
織物工房の親方が、王都で流行している最新の意匠を取り入れて特別に仕立ててくれたものだ。
胸元に施された銀糸の刺繍が、呼吸に合わせて微かに光を反射する。
扉をノックする音が、静かな室内に響く。
「お嬢様。そろそろ準備はよろしいですか」
扉越しに聞こえるルークの声は、相変わらず平坦だ。
だが、その底に潜むわずかな緊張感を、アリアの耳は正確に捉えていた。
「ええ。今開けるわ」
立ち上がり、スカートの裾を軽く払ってから木製の重い扉を引き開ける。
廊下に立っていたルークは、アリアの姿を目にした瞬間、瞬きを忘れたように動きを止めた。
彼の視線が、アリアの髪からドレスの裾へとゆっくり滑り落ちる。
いつもは一切の乱れがない銀縁眼鏡の奥の瞳が、かすかに揺らいだ。
「……似合わないかしら」
アリアが首を傾げると、ルークは慌てて視線を逸らし、咳払いを一つ落とした。
「いえ。計算外の仕上がりです。領民たちが仕事の手を止めて見惚れてしまうと、来期の生産性に影響が出るかもしれません」
「それは最高の褒め言葉として受け取っておくわ」
アリアは微笑み、ルークの腕にそっと手を添える。
彼の着ているフロックコートもまた、今日のために新調された漆黒の上質な布地だった。
布越しに伝わる彼の体温は、以前のような冷たさを感じさせない。
二人が館の正面玄関を出ると、そこには見渡す限りの熱狂が広がっていた。
広場の中央には巨大な焚き火の跡が組まれ、周囲を隙間なく屋台が取り囲んでいる。
肉の脂が炭に落ちて焦げる香ばしい匂いが、鼻腔を強く刺激する。
樽から注がれる赤ワインの甘い香りと、焼きたてのパンの芳醇な匂いが、風に乗って入り交じる。
広場のあちこちから、木製の楽器が奏でる軽快な旋律と、靴底が石畳を打ち鳴らす音が響き渡っている。
「領主様がいらっしゃったぞ」
誰かの声が上がると、人波が自然と左右に割れて道を作る。
領民たちの顔は、どれも朝陽に照らされて輝いていた。
彼らの手には、豊穣の象徴である黄金色の麦穂が握りしめられている。
アリアはゆっくりと歩みを進めながら、一人ひとりの顔を見渡した。
少し前まで、重税と飢えで頬をこけさせていた者たちの姿は、もうここにはない。
新しい布で仕立てられた色鮮やかな衣服を纏い、誰もが自信に満ちた表情でアリアたちを迎えている。
「お嬢様。これ、私たちが作ったんです」
織物工房の若い娘たちが、籠いっぱいの小物を持って駆け寄ってくる。
ローズ領の特産品であるハーブを練り込んだ石鹸や、精巧な刺繍が施された手提げ袋。
「とても美しいわ。王都の店に並べても恥ずかしくない出来栄えね」
アリアが袋の一つを手に取って称賛すると、娘たちは頬を朱に染めて歓喜の声を上げる。
「これからの季節、王都では防寒具の需要が高まります。この刺繍の技術を応用し、厚手のマントを生産ラインに乗せるのも悪くない提案ですね」
ルークが横から冷静な声で口を挟む。
「ちょっと、ルーク。今日は仕事の話はなしって約束でしょう」
アリアが軽く肘で小突くと、彼は眼鏡のブリッジを中指で押し上げた。
「職業病です。数字を生み出す可能性を目の前にして、思考を止めることはできません」
口ではそう言いながらも、ルークの口角はわずかに上がっている。
彼もまた、この広場を満たす活気に当てられているのだ。
歩みを進めるうち、人混みはさらに密度を増していく。
不意に、背後から急ぎ足で通り抜けようとした男がアリアの肩にぶつかりそうになる。
「危ない」
ルークの手が素早く伸び、アリアの腰を抱き寄せる。
彼の引き締まった胸に背中が密着し、力強い鼓動がドレス越しに伝わってくる。
「……ごめんなさい。助かったわ」
「人が多すぎます。はぐれないように」
ルークは腰から手を離すと、そのままアリアの右手をしっかりと握りしめた。
彼の長く冷たい指が、アリアの指の間を縫うように絡みつく。
「ルーク……?」
「合理的な判断です。迷子を捜索する手間を省くための」
言い訳めいた台詞を吐くルークの耳は、夕焼けのように赤く染まっていた。
アリアは何も言わず、握られた手に少しだけ力を込める。
繋いだ手から伝わる熱が、周囲の祭りの喧騒を遠くに押しやっていくようだった。
二人は指先を絡ませたまま、黄金色の麦穂が揺れる広場をゆっくりと歩き続ける。
ダート領からの妨害を退け、真の独立と豊かさを手に入れたローズ領。
そのすべてが、繋いだ二人の手の中に凝縮されている。
青空に高く放たれた祝砲の音が、祭りの本格的な始まりを告げた。




