第12話「星降る夜と、永遠の帳簿」
広場の喧騒が遠い波音のように響く、屋敷の三階にあるバルコニー。
アリアは冷たい石の欄干に身を預け、眼下に広がる光の海を見下ろしている。
無数のランタンが広場を埋め尽くし、踊り狂う領民たちの影が石畳の上で交差する。
夜空には雲一つなく、冷気を帯びた風が星々の瞬きをより一層際立たせていた。
背後で、カチャリと陶器の触れ合う音が鳴る。
「冷えますよ。羽織るものを」
ルークがアリアの肩に厚手のショールを掛け、湯気を立てるティーカップを差し出した。
「ありがとう。……今日くらいはワインかと思ったけれど」
「アルコールは思考を鈍らせます。それに、あなたは酔うと数字の計算を始める悪癖がある。祭りの夜に複式簿記の講義を聞かされるのは御免です」
ルークは自分のカップを手に、アリアの隣に並ぶ。
カップから立ち上るペパーミントとカモミールの香りが、張り詰めた神経を優しく解きほぐしていく。
共に幾夜もの徹夜を乗り越えてきた、ローズ領特産のハーブ茶。
高級なワインよりも、この琥珀色の水面こそが二人の勝利の味だ。
「信じられないわ」
アリアは一口お茶を含み、ため息のようにこぼした。
「ほんの数ヶ月前まで、この領地は明日にも潰れそうだった。私は修道院送りを覚悟して、あなたはずっと冷ややかな目で私を見ていた」
「過去の記録を掘り起こすのは無意味です。重要なのは、現在と未来の数字が黒字であるという事実だけだ」
ルークは空を仰ぎ、星の軌道をなぞるように視線を動かす。
「ですが、もしあの時、あなたが狂ったように帳簿に線を引かなければ。泥にまみれてハーブの葉を摘まなければ。……私は今頃、別の主の元で、無味乾燥な計算を繰り返していたでしょう」
ルークの言葉が、夜風に乗ってアリアの耳に届く。
彼の声には、いつもの冷徹な響きはない。
そこにあるのは、隠しきれない熱情と、アリアへの絶対的な敬意だ。
「ねえ、ルーク。領地の負債はゼロになった。特産品の流通網も確保して、当面の資金繰りにも困らない」
アリアはカップを欄干に置き、ルークの横顔を見つめる。
「あなたの補佐官としての最大の仕事は、これで終わりよ。……明日から、あなたはどうするつもり?」
ルークの肩が微かに動く。
彼はゆっくりとアリアの方へ向き直り、懐から一通の折り畳まれた羊皮紙を取り出した。
「次の仕事の契約書を、持参しました」
彼が羊皮紙を開く。
そこには、これまで二人が使ってきた帳簿と同じ、几帳面な表が描かれている。
だが、記入されている項目は数字ではない。
『借方:ルーク・ウォレンの生涯の忠誠、およびすべての知識と労働力』
『貸方:アリア・ローズの隣で未来を創造する権利、およびその笑顔を独占する権利』
アリアは息を呑み、紙面とルークの顔を交互に見比べる。
「これって……」
「私は計算高い男です。一度手にした最高の資産を、手放すつもりは毛頭ない」
ルークは懐から銀細工の美しい羽ペンを取り出し、アリアへ差し出す。
「この契約には期限がありません。ローズ領がどれほど豊かになろうと、私があなたの隣で数字を弾き出す。あなたが思い描く無謀な未来を、私がすべて現実の形にする。……そのための、終身契約です」
彼の瞳が、月光を受けて濡れたように光る。
冷たい仮面を完全に脱ぎ捨てた、一人の男としての熱い眼差しが、アリアの全身を射抜く。
アリアは震える手で羽ペンを受け取った。
胸の奥で、熱い塊が破裂しそうに膨らんでいる。
「……条件があるわ」
「何なりと」
「深夜の残業の時は、必ずあなたがお茶を淹れること。それから……もう二度と、私の手を離さないこと」
アリアは一歩踏み出し、ルークの胸元を指先で軽く掴む。
ルークの唇から、小さな笑い声が漏れる。
彼は羊皮紙をバルコニーのテーブルに置き、アリアの腰を力強く引き寄せた。
「契約、成立です」
ルークの顔が近づく。
彼の眼鏡の冷たい感触がアリアの額に触れ、次の瞬間、二人の唇が静かに重なり合った。
ペパーミントの爽やかな香りと、彼の体温が混ざり合う。
それは、どんな精緻な計算式でも導き出せない、圧倒的な熱を伴った確かな実感だった。
夜空から、一筋の星が尾を引いて流れる。
広場から湧き上がる歓声が、二人の新たな誓いを祝福するように響き渡る。
テーブルに置かれた羊皮紙には、二人のサインが並んで刻まれている。
インクの染みと数字から始まった二人の物語は、ここからまた新たな白紙の帳簿へと、鮮やかな未来を描き出していく。




