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前世社畜の令嬢、『複式簿記』で没落領地を即黒字化!〜冷徹補佐官と最強の仕事中毒パートナーになり極上ハーブ茶で王都席巻〜  作者: 黒崎隼人


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エピローグ「春の帳簿と、変わらぬ温度」

 厚い雲が空を覆っていた長い冬が去り、開け放たれた窓からは暖かな春の風が静かに流れ込んでいる。

 ローズ領の屋敷の庭園では、雪解け水を吸い上げた木々が一斉に新緑の芽を吹き出し、陽光を受けて翡翠のように鮮やかな光を放っていた。

 風が通り抜けるたびに、遠くの畑から土を掘り起こす匂いと、新しく植えられたハーブの青々とした香りが執務室まで運ばれてくる。

 アリアはマホガニーの机に向かい、真新しい羊皮紙の上を滑る羽ペンの感触に集中していた。

 借方と貸方。

 二つの列に並ぶ数字は、かつての絶望的な赤字を完全に脱却し、豊かな黒のインクで力強く刻まれている。


「春の灌漑工事の追加予算、想定よりも二割ほど安く収まりそうね」


 アリアが書類から目を離さずに告げると、隣に座るルークの手がわずかに止まった。

 彼の銀縁眼鏡が、窓から差し込む春の光を鋭く反射する。


「先月のダート領との鉄鉱石の取引で、運河の通行料を相殺する契約を結び直した成果です。彼らも今や、我が領の流通網なしでは成り立たない状況ですから」


「ふふ。あの傲慢だった子爵が、定期的にご機嫌伺いの手紙を送ってくるようになるなんてね」


「油断は禁物です。利益の匂いがする場所には、必ず新たな欲望が群がる。王都の貴族たちの動きも注視しておく必要があります」


 ルークは淡々と告げながら、椅子から立ち上がって給湯器の前に移動した。

 彼が茶葉を天秤で正確に量り、陶器のポットにお湯を注ぐ。

 湯が茶葉に当たり、静かに弾ける音が室内に響く。

 やがて、アリアの机の端に置かれた白いティーカップから、桜の塩漬けとミントを掛け合わせたような、柔らかな香りが立ち上った。


「王都のパレルモ商会からの提案で作成した、春の新作ブレンドです。……毒見は済ませてありますので、ご安心を」


「相変わらず可愛くない言い方ね」


 アリアは羽ペンをインク瓶に戻し、苦笑しながらカップを両手で包み込んだ。

 左手の薬指には、冷たい光を放つ銀細工のシンプルな指輪がはめられている。

 カップを差し出したルークの左手にも、全く同じ意匠の指輪が光っていた。

 祝賀祭の夜、星降るバルコニーで交わした終身契約。

 あれから数ヶ月が経ち、二人の関係は領民たちの前で正式な婚約として発表された。

 今では、領内の誰もが二人の歩む未来を信じ、疑う者はいない。

 アリアが一口お茶を含むと、口の中に広がる清涼感と後から追いかけてくる優しい甘みが、固まっていた脳の疲労をじんわりと溶かしていく。


「美味しいわ。これを次の特産品の目玉にしましょう。茶葉の包みは薄桃色の布地にして……」


「その前に、休日の取得を提案します」


 ルークの声が一段低くなり、彼の手が伸びてきてアリアの目の前にあった書類を裏返した。


「あなたはここ数週間、新商品の開発と農地の視察にかまけて、まともな睡眠時間を確保していない」


「仕事中毒なのはお互い様でしょう? ルークだって、夜遅くまで別の帳簿を眺めているじゃない」


「私の耐久値とあなたの耐久値を同列に語らないでいただきたい。それに、私の所有物を不当にすり減らされるのは本意ではありません」


 ルークが身を屈め、彼の顔がアリアの視界を覆う。

 インクと真新しい紙の匂いに、彼の体温が混ざり合ってアリアの呼吸を浅くさせる。


「……ルーク」


「今日の午後は、馬車で隣町の市場まで視察という名目の散歩に出ます。反論は受け付けません」


 強引な言葉とは裏腹に、彼の手はアリアの頬を壊れ物のように優しく撫でた。

 冷たいはずの彼の指先が、今は驚くほど温かい。

 アリアは彼の手に自分の手を重ね、静かに目を閉じた。

 領地の未来は明るく、帳簿の数字は完璧な黒字を描き続けている。

 だが、彼女にとっての最大の資産は、どんな計算式でも弾き出せない、この確かな熱と存在だった。

 春の風が窓辺のカーテンを揺らし、部屋の空気を柔らかく掻き回す。

 二人の物語は、これからも穏やかに、そして終わることなく続いていく。

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