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前世社畜の令嬢、『複式簿記』で没落領地を即黒字化!〜冷徹補佐官と最強の仕事中毒パートナーになり極上ハーブ茶で王都席巻〜  作者: 黒崎隼人


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第8話「水面の月と、揺るがぬ誓い」

 平底船が夜の運河を滑るように進む。

 水面が船首に当たって砕ける音が、暗闇の静寂を規則的に破っていた。

 王都までは、あと数時間の距離だ。

 甲板には荷を覆う帆布が厳重に掛けられ、アリアはその脇の木箱に腰を下ろしていた。

 川面を渡る風は冷たく、容赦なく体温を奪っていく。


「少し、冷えますね」


 背後から厚手の毛布が肩に掛けられた。

 振り返ると、ルークがランタンの灯りを頼りに、契約書の束を確認している。


「ありがとう。ルークは寒くないの?」


「私は平熱が低いので、この程度の気温変化は問題ありません」


 淡々と答える彼の横顔は、水面に反射する月光を受けて彫像のように白く冷ややかだ。

 だが、彼がアリアの肩に触れた手のひらからは、確かな熱が伝わってきていた。


「ダート子爵は、私たちが水路を使うと予想しているかしら」


「可能性はゼロではありませんが、対応には遅れが生じるはずです。彼らは陸路の封鎖に人員を割きすぎている。我々が王都に到着し、パレルモ商会との取引を完了させれば、彼らの目論見は完全に崩壊します」


 ルークは書類から視線を上げ、遠くに見え始めた王都の灯りを細めた目で見つめた。


「それにしても、あの船乗りを説き伏せるとは。あなたの度胸には、時折背筋が凍る思いがします」


「ルークが後ろで睨みを利かせてくれていたからよ。一人だったら、金貨を奪われて川に放り込まれていたかもしれないわ」


 アリアは毛布を引き寄せ、膝を抱えた。

 張り詰めていた緊張の糸が、ここへ来て少しずつ緩み始めている。


「ねえ、ルーク。もし、この計画が失敗して、領地がダート子爵に飲み込まれたら……あなたはどうするつもりだったの?」


 唐突な問いに、ルークはペンを動かす手を止めた。

 彼は無言のまま、ランタンの炎を見つめている。


「私は有能な主の元でしか働きません。あなたが無能だと判断すれば、次なる寄る辺を探すだけのこと。計算の合わない帳簿に固執する趣味はありませんので」


 いつもの冷徹な台詞。

 だが、アリアにはそれが彼の本心ではないことが、痛いほど分かっていた。

 深夜の執務室で共に数字と格闘した日々。

 過労で倒れた自分に上着を掛けてくれた不器用な優しさ。

 そのすべてが、彼が単なる計算高い補佐官ではないことを証明している。


「嘘ね」


 アリアは静かに微笑んだ。


「あなたは、最後まで私と一緒に領地を守ろうとしてくれたはずよ。……そうでしょう?」


 ルークは小さく息を吐き、眼鏡の位置を直した。


「……買い被りです。ですが」


 彼は視線をアリアに向け、その瞳の奥に強い光を宿した。


「あなたの描く未来は、私がこれまでに見たどんな美しい数式よりも、完璧で惹きつけられる。その未来が完成する瞬間を、この特等席で見届けたいという欲望には抗えそうにありません」


 それは、彼なりの最大限の賛辞であり、忠誠の誓いだった。

 アリアの胸の奥が、温かい何かで満たされていく。


「ええ。見せてあげるわ。誰も文句のつけようがない、最高の黒字決算を」


◆ ◆ ◆


 翌朝、王都の船着き場は喧騒に包まれていた。

 パレルモ商会の荷馬車が何台も連なり、ローズ領からの特産品を次々と積み込んでいく。

 商会の主人は、アリアの姿を見るなり満面の笑みで歩み寄ってきた。


「アリア様。お待ちしておりました。ダート子爵からの横槍が入ったと聞き、半ば諦めておりましたが……まさか水路を開拓してくるとは」


「約束の期日は守る主義ですので。商品の状態は完璧です」


 アリアは堂々と胸を張った。

 その背後で、数人の見知らぬ男たちが舌打ちをして立ち去るのが見えた。

 ダート子爵の放った監視役だろう。

 彼らの敗北を知らせる報告は、すぐに子爵の元へ届くはずだ。


「お嬢様」


 ルークが、商会からの支払い証明書を手に歩み寄ってきた。


「入金、確認しました。これでダート子爵の妨害を完全に跳ね除けたことになります」


 彼の声には、いつもの冷徹さの中に、確かな安堵の響きが混じっていた。


「これで、ようやく一息つけるわね」


 アリアは大きく伸びをし、王都の澄んだ空気を胸いっぱいに吸い込んだ。


「いいえ。一息ついている暇はありません。子爵は必ず次の手を打ってきます。それに、今回開拓した水運ルートの整備と、新たな船団の構築という課題が増えました」


 ルークが、新しい白紙の帳簿をアリアの目の前に突きつける。


「帰りの馬車の中で、今後の投資計画を練り直していただきます。睡眠時間は三時間を確保しますので、文句は言わせません」


 アリアは呆れたように笑い出し、ルークの差し出した帳簿を力強く受け取った。


「望むところよ。地獄の果てまで付き合ってもらうわ」


 朝日が王都の石畳を照らし、二人の影を長く伸ばす。

 その影は、もはや互いを支え合うように、一つに重なり合っていた。

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