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前世社畜の令嬢、『複式簿記』で没落領地を即黒字化!〜冷徹補佐官と最強の仕事中毒パートナーになり極上ハーブ茶で王都席巻〜  作者: 黒崎隼人


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第4話「雨音の帳と、重なる熱」

 空を覆う鈍色の雲から、冷たい雨が絶え間なく降り注いでいた。

 屋敷の窓ガラスを叩く水滴の音が、執務室の静寂を規則的に破る。

 予定していた農地への視察は中止となり、アリアとルークは朝から書類仕事に没頭していた。


「西区の開墾費用、当初の見積もりよりも一割ほど超過していますね。クワとスキの修繕費が想定を上回ったようです」


 長机に広げられた巨大な見取り図の上に、ルークの長く細い指が滑る。

 アリアは身を乗り出し、彼の指先が示す数字を覗き込んだ。


「土壌改良のために、通常よりも深く掘り起こすよう指示したからだわ。これは必要な経費よ。削るべきは……ここね」


 アリアが地図の別の地点をペン先で叩く。

 その瞬間、彼女の肩がルークの腕に軽く触れた。

 わずかな接触。

 しかし、布越しに伝わる体温の差異に、アリアは一瞬だけペンを止めた。

 ルークは体温が低い。

 彼がいつも冷徹な機械のように振る舞うせいか、その肌の冷たさすらも、彼の構成要素の一つとして完成されているように思えた。

 ルークは身を引くこともなく、アリアが示した箇所へ視線を移す。


「旧代官の別荘地への整備費。確かに、これは現在凍結状態です。ここから予算を回せば、開墾費用は賄えます」


「その線で帳簿を修正して。午後には、王都へ送り出す第一陣の荷の最終確認があるわ」


 アリアは姿勢を正し、何事もなかったかのように自分の書類へ向き直った。

 だが、鼻先をかすめたインクと、微かな雨の匂いの混ざり合ったルークの体臭が、奇妙に意識の隅にこびりついて離れない。


◆ ◆ ◆


 午後。

 雨脚はさらに強まり、外の景色は白く煙っていた。

 屋敷の広間には、織物工房から納品された真新しい袋と、乾燥を終えた茶葉の樽が所狭しと並べられている。


「手は絶対に止めないで。香りが飛ぶ前に、袋の口を紐で固く縛り上げるのよ」


 アリアの指示が飛ぶ。

 領民の女たちが、手際よく茶葉を量り、袋に詰めていく。

 アリア自身も、腕まくりをしてその輪の中に加わっていた。

 精巧に作られた天秤の皿に、規定量の茶葉を乗せる。

 ほんのわずかな誤差も許さない。

 高級品としてのブランドを確立するためには、品質の均一性が絶対条件だった。


「お嬢様。王都行きの馬車の準備、完了しております」


 防水外套を深く羽織ったルークが、雨だれを滴らせながら広間に入ってきた。

 彼の靴底から、大理石の床に冷たい水たまりが広がっていく。


「荷馬車の幌は二重にした? 湿気は茶葉の最大の敵よ」


「油紙で厳重に覆い、その上からさらに厚手の帆布を被せてあります。たとえ馬車ごと川に落ちても、中身は濡れない仕様です」


「極端な例えだけど、安心したわ」


 アリアは袋の口を縛り終え、それを木箱の中に丁寧に並べた。


「これが、私たちの第一歩ね」


 木箱には、ローズ家の紋章を簡略化した焼印が押されている。

 かつては権威の象徴でしかなかったその紋章が、今、新たな価値を持って世に放たれようとしている。


「王都の商会への売り込みは、私のほうで手配した代理人が行います。お嬢様は、吉報を待つだけで結構です」


 ルークの声は相変わらず平坦だが、その視線は木箱にしっかりと固定されていた。

 彼にとっても、この数週間の血を吐くような努力の結晶なのだ。


「頼んだわよ、ルーク」


 木箱が荷車に積み込まれ、雨の中を出発していくのを、二人は玄関の庇の下で並んで見送った。

 馬のいななきと、車輪が泥を跳ね上げる音が、雨音に混じって遠ざかっていく。


「……終わりましたね。第一段階は」


 ルークが、ポツリとつぶやいた。


「ええ。でも、休む暇はないわ。第二陣の生産と、秋の収穫の準備が控えている」


 アリアが振り返ると、ルークの肩が微かに揺れていた。

 疲労からではない。

 彼は、笑いを堪えていたのだ。


「何がおかしいの?」


「いえ。……これだけ働いて、まだ次の労働計画を立てる。あなたの底なしの強欲さに、いっそ清々しさすら覚えたまでです」


 ルークは口元を手で覆いながら、なおも肩を震わせている。

 彼がこれほど感情を表に出すのを見たのは、初めてだった。


「失礼ね。領民の笑顔と、私の平穏な老後のためよ。必要な投資だわ」


 アリアはむっとした顔を作ったが、不思議と怒りは湧いてこない。

 むしろ、彼の人間らしい一面を見られたことが、少しだけ嬉しかった。


◆ ◆ ◆


 夜。

 雨は小降りになったものの、冷え込みは一層厳しさを増していた。

 執務室の暖炉には火が入っているが、広い部屋を温めるには物足りない。

 アリアは肩掛けを羽織り、今後の生産予測のグラフを作成していた。

 コトリ。

 いつものように、ルークが淹れたお茶が机に置かれる。


「ありがとう」


 アリアがカップを両手で包み込むと、ジンジャーのピリッとした香りが立ち上った。


「体を温める効果があります。冷えは万病の元ですから」


「ルークも飲む?」


「私は既にいただきました」


 ルークは椅子を引き、アリアの隣に腰を下ろした。

 今までは長机の向かい側が彼の定位置だったが、いつの間にか、隣に座ることが自然になっている。


「この計算式、少し冗長ですね。こちらの数式を当てはめれば、工程を一つ減らせます」


 ルークが横からペンを伸ばし、アリアの書類の余白にさらさらと数式を書き込む。

 顔が近い。

 彼の眼鏡のレンズに、ランタンの炎が揺れているのが見える。


「……なるほど。確かにこっちのほうがスマートね」


 アリアは冷静を装いながら答えたが、心臓の鼓動がわずかに早まるのを感じていた。

 雨音の帳に包まれた密室。

 並んで座る二人の間に、以前のような張り詰めた警戒心はない。

 あるのは、同じ戦場を駆け抜ける戦友としての、絶対的な信頼。

 そして、それ以上の何かが、静かに芽吹き始めていることを、アリアは気付かないふりをして、帳簿の数字へ目を落とした。

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