第3話「乾燥葉の香りと、結ばれる糸」
微かな風が吹き込むたび、室内を青緑色の香りが撫でていく。
領主の館の裏手にある、かつては物置として使われていた石造りの小屋。
今はそこが、アリアの新たな戦場となっていた。
木製の棚板に隙間なく広げられたハーブの葉。
アリアの指先が、その表面をそっと滑る。
乾燥具合は悪くない。
葉脈の水分が均一に飛び、指の腹に触れる感触は薄い羊皮紙のように脆く、そして軽い。
「カモミールの配合を、あと一割減らしてちょうだい。香りが前面に出すぎているわ。ペパーミントの爽やかさを引き立たせるのが先決よ」
アリアは顔を向けずに指示を出した。
背後で控えていた作業着姿の領民たちが、無言で頷き、素早く棚の葉を仕分け始める。
言葉はなくとも、彼らの手つきには迷いがない。
アリアがこの数日で徹底的に叩き込んだ、厳密な温度管理と選別の成果だった。
「お嬢様。輸送ギルドとの約定書です」
背後の扉が開く音と共に、冷たい外気が流れ込んだ。
振り返ると、分厚い書類の束を抱えたルークが立っている。
仕立てのよいフロックコートにはシワ一つないが、銀縁眼鏡の奥の瞳には、微かに血走った疲労の色が滲んでいた。
「ご苦労様。ギルドマスターの反応は?」
「最初は、没落貴族の戯言だと鼻で笑われました。ですが、バートン元代官の不正帳簿と、彼らが裏で交わしていた不当なリベートの証拠を提示したところ、顔面を蒼白にさせていました」
ルークは手元の束から一枚の羊皮紙を引き抜き、アリアの前に差し出した。
一番下には、かすれて震えたような筆跡でサインが刻まれている。
「結果として、王都までの輸送費は従来の四割減。さらに、荷の破損時の全額保証も取り付けました。これ以上絞り上げるとギルド自体が破産しかねないため、このあたりが妥協点かと」
「十分よ。さすがはルークね」
アリアは羊皮紙を受け取り、内容に視線を落とす。
完璧な契約書だった。
ルークの交渉術は、冷徹という言葉すら生ぬるい。
相手の弱点を正確にえぐり出し、退路を断ってから、もっともらしい条件を提示して首を縦に振らせる。
「これで流通の土台は整ったわ。あとは、肝心の商品を完成させるだけ」
アリアが棚の上のハーブへ再び視線を向けた時、外から慌ただしい足音が近づいてきた。
「お嬢様。お嬢様はいらっしゃるか」
小屋の入り口に姿を現したのは、先日アリアが直談判に赴いた織物工房の親方だった。
彼の太い腕には、麻布で包まれた大きな束が抱えられている。
「親方。試作品ができたのね」
「へえ。徹夜で織り上げました。お嬢様の言う通り、経糸と緯糸の比率を変えて、目を極限まで詰めてみたんでさぁ」
親方は作業台の上に束を置き、覆っていた麻布を勢いよく剥ぎ取った。
そこにあったのは、淡い生成り色の小さな袋の山だった。
アリアは一つを手に取る。
指先に伝わるのは、これまでの領地で作られていた粗悪な麻布とは全く違う、滑らかで張りのある感触。
光にかざしても、向こう側が透けることはない。
「素晴らしいわ。これなら、茶葉の香りを一切逃さず、湿気も防げる。手触りも、王都の貴婦人たちが好む上品さがある」
アリアの口からこぼれた称賛に、親方の強面がふわりと緩んだ。
「本当ですか。そりゃあ良かった。うちの若い衆も、久々に腕の鳴る仕事だって喜んでましてね。バートンの野郎の下請けをしてた時とは、布の張り合いが違うって」
「これからが本番よ、親方。来週までに、この袋をあと五百個用意してちょうだい。報酬は前払いで、今までの倍の単価で買い取るわ」
「ご、五百。しかも倍額で。……承知しやした。工房の連中を総動員して、必ず間に合わせてみせます」
親方は深く頭を下げ、足取りも軽く小屋を去っていった。
残されたアリアとルーク。
ルークは静かに歩み寄り、袋の一つを指で摘み上げた。
「確かに、悪くない仕上がりです。ですが、五百個分の茶葉の選別と梱包。そして、王都での販売先の開拓。……現在の私たちの人員で、予定の期日に間に合うと本気でお考えですか」
「間に合わせるのよ。私たちが寝る時間を削れば、計算上は可能でしょ」
アリアはこともなげに言い放ち、再びハーブの選別作業に戻る。
ルークは小さくため息をつき、眼鏡の位置を直した。
「あなたは、本当に狂っている。領主の令嬢が、自ら泥と埃にまみれて働くなど、貴族の常識からすれば正気の沙汰ではない」
「常識で領地が救えるなら、誰も苦労はしないわ。私には、時間が無いの」
修道院の冷たい床。
前世で味わった、無機質な病室の天井。
アリアの脳裏に、不吉な映像がフラッシュバックする。
それを振り払うかのように、彼女の手元はより一層速く動き始めた。
「……分かりました。梱包作業の段取りは、私が組み直します。王都の商会への紹介状も、数通手配しておきましょう」
「お願い、ルーク」
「ただし、今日の夕食は必ず摂っていただきます。これ以上痩せ細られては、見栄えが悪すぎて王都の商談に響きますので」
突き放すような物言い。
だが、その声の底にある微かな温度を、アリアは聞き逃さなかった。
「……ええ。善処するわ」
夕日が差し込む小屋の中、乾燥葉の甘い香りが、二人の間を静かに漂っていた。
◆ ◆ ◆
深夜の執務室。
書類の山は相変わらず机を占領しているが、以前のような乱雑さはない。
借方と貸方が美しく整列した真新しい帳簿が、秩序を保って並べられていた。
アリアはペンを置き、目頭を指で強く押さえた。
視界がぼやけ、数字が虫のようにうごめいて見える。
カチャリ。
陶器の触れ合う小さな音がして、机の端に白いティーカップが置かれた。
「王都のパレルモ商会、および東区の高級サロンとの面会の手配が完了しました」
ルークが、ランタンの灯りの向こう側で淡々と報告する。
「早いわね。サロンの女主人は気難しいと聞いていたけれど」
「彼女が贔屓にしている劇団のパトロンの情報を流したところ、手のひらを返したように歓迎されました。情報というものは、時に金貨よりも重い」
「……相変わらず、えげつない手を使うわね」
アリアは苦笑しながら、カップの縁に唇を寄せる。
今日のお茶は、完成したばかりのローズ家特製ブレンドだった。
口に含んだ瞬間、ミントの清涼感が思考をクリアにし、後から追いかけてくるカモミールとラベンダーの甘さが、張り詰めた神経を優しく解きほぐしていく。
「……完璧だわ」
「ええ。これならば、王都のうるさい貴婦人たちも文句は言わないでしょう」
ルークもまた、自分のカップを手に取っていた。
長机の端と端。
当初は遠かった二人の距離が、書類を広げ、計算をすり合わせるうちに、いつの間にか互いの呼吸が聞こえるほどに縮まっている。
「明日から、いよいよ梱包作業ね」
「戦場が、また一つ増えるだけです」
二人は暗闇の中で、同じ未来を見据えていた。
没落への歯車は、確実に逆回転を始めている。




