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前世社畜の令嬢、『複式簿記』で没落領地を即黒字化!〜冷徹補佐官と最強の仕事中毒パートナーになり極上ハーブ茶で王都席巻〜  作者: 黒崎隼人


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第5話「黒インクの染みと、微睡みの特等席」

 王都からの早馬がローズ領に駆け込んだのは、空に秋の気配が色濃く混じり始めた午後のことだった。

 土煙を上げて中庭に滑り込んだ伝令の男は、息も絶え絶えに革製の筒をルークへと手渡した。

 ルークは一瞥もせずに銀貨を弾いて男に渡し、封蝋を指先で冷徹に剥がし取る。

 丸められた羊皮紙を引き抜き、その内容に視線を落とした瞬間、彼の薄い唇がわずかに歪んだ。


「お嬢様。王都の代理人からの報告書です」


 ルークの声はいつも通り平坦に聞こえたが、その語尾には微かな震えが混じっていた。

 アリアは羽ペンの動きを止め、差し出された羊皮紙を受け取る。

 視線を走らせた先には、信じられない桁の数字が躍っていた。


「……完売。しかも、追加の発注が三倍の量で来ているわ」


 アリアの声が、空気を震わせる。

 東区の高級サロンで提供されたハーブ茶は、その芳醇な香りと目新しい絹のような手触りの茶袋が話題を呼び、貴族の女性たちの間で瞬く間に流行の的となった。

 パレルモ商会を通じた一般販売分も、店頭に並んだその日のうちに姿を消したという。


「代理人の巧みな誘導もあったのでしょうが、それを差し引いても異常な速度です」


 ルークが眼鏡のブリッジを中指で押し上げる。


「これで、今月末に迫っていた債権者への第一回返済をクリアできるだけでなく、次期生産のための十分な余剰資金が確保できました」


 アリアは羊皮紙を両手で強く握りしめた。

 紙の擦れる音が、誰もいない執務室に響く。

 胸の奥底で燻っていた重い鉛のような不安が、少しずつ熱を帯びて溶けていく感覚があった。


「すぐに追加生産の指示を。それから、領民たちへの還元も忘れないで」


「還元、ですか」


「ええ。茶葉の摘み取りに関わった者には給金の割り増しを。織物工房には、新調した織り機を三台寄付するわ」


「それは少々資金の使い込みが早すぎませんか」


「先行投資よ。彼らの労働意欲がこの領地の血肉になるの。笑顔で働いてもらわないと、生産性は上がらないわ」


 アリアは立ち上がり、開け放たれた窓から外の景色を見下ろした。

 中庭の向こう、遠くに見える畑では、領民たちがカマを手に農作業に励んでいる。

 以前のような死んだ魚のような目は、もうどこにもない。

 ルークは彼女の背中を静かに見つめ、やがて小さく息を吐いた。


「……承知いたしました。手配はすべて私が」


 数日後、領地には活気が満ちていた。

 真新しい織り機が運び込まれた工房からは、夜遅くまでリズミカルな木の当たる音が響き渡り、ハーブ畑では女たちが冗談を言い合いながら葉を摘んでいる。

 かつては重税と中間搾取に苦しみ、絶望に沈んでいた人々の顔に、確かな光が宿っていた。


「お嬢様、これ、うちの畑で採れた一番甘い果実です」


 視察に訪れたアリアに、小さな子供が籠いっぱいの赤い果実を差し出した。

 泥だらけの小さな手と、恥ずかしそうに下を向く仕草。


「ありがとう。あとでルークと一緒にいただくわね」


 アリアが子供の頭を撫でると、周囲の大人たちからも温かい笑い声が漏れた。

 その後ろで、荷車の積載量を確認していたルークが、無言のままこちらへ視線を向ける。

 彼と目が合うと、アリアは小さく頷いてみせた。


◆ ◆ ◆


 夜の執務室は、相変わらず冷気が床を這っている。

 だが、机の上に広げられた帳簿の数字は、かつてないほどの熱を帯びていた。

 赤インクで埋め尽くされていた貸方の欄が、今や黒インクの力強い文字で塗り替えられようとしている。

 アリアは数字の列を目で追いながら、羽ペンをインク瓶に浸した。

 しかし、指先に力が入らない。

 まばたきをするたびに、瞼が重力に逆らえなくなっていく。

 連日の視察と追加発注への対応で、彼女の体力は限界に達していた。


「……七十と、八十五で……」


 途切れ途切れの声が口からこぼれる。

 ペンの先端が紙に触れたまま静止し、そこに真っ黒なインクの染みがじわじわと広がっていく。


「お嬢様」


 隣から聞こえた低い声に、アリアはびくっと肩を震わせた。


「あ、ごめんなさい。計算が……」


「インクが滲んでいます」


 ルークの手が伸びてきて、アリアの指からそっと羽ペンを抜き取った。

 彼の指先がアリアの手の甲に触れる。

 いつもは冷たく感じるその肌が、今は奇妙に温かく感じられた。


「少し休んでください。残りの集計は私がやります」


「だめよ。私の仕事だわ」


「能率が落ちている人間に任せるほど、私はお人好しではありません。それに、ここで倒れられては私の計算が狂います」


 相変わらずの減らず口だが、その声音には普段の鋭利な刺がない。

 ルークはアリアの肩を軽く押し、机の上に重ねられた不要な書類の束を脇へどけた。


「十五分だけです。それ以上は起こします」


 逆らう気力も残っていなかった。

 アリアは机の上に腕を組み、そこに額を乗せた。

 木の硬い感触が、疲労した頭蓋に心地よい。

 目を閉じると、すぐ隣でルークのペンが紙を走るカリカリという音が聞こえてくる。

 一定のリズム。

 それはまるで、幼い頃に聞いた子守唄のようにアリアの鼓膜を撫でた。

 やがて、背中にふわりと軽い重みが乗せられる。

 ルークの着ていた上着の匂い。

 インクと、微かな雨の冷たさが混ざったような、彼の香り。


『ありがとう』


 声に出す前に、アリアの意識は深い眠りの底へと沈んでいった。

 ルークは帳簿に数字を書き込みながら、隣で規則正しい寝息を立てる少女へ視線を向けた。

 彼女の寝顔は、日中の強気な領主の顔とは別人のように無防備だ。


「……本当に、手の掛かる主人だ」


 誰に聞かせるでもないつぶやきは、ランタンの炎が爆ぜる音に掻き消された。

 彼は上着がずり落ちないよう位置を直し、再び数字の列へと向き直る。

 二人の間に流れる時間は、世界のどこよりも静かで、穏やかだった。

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