133. 春の門をくぐる日
「アリーチェ様。おはようございます」
まだ夢の名残がうっすらと残る中、ノックの音とともに扉越しに届く声に、私は目を覚ました。
「起きているわ。入ってちょうだい」
上体を起こしながら返すと、ほどなくして扉が開き、キアーラが静かに部屋へ入ってきた。慣れた手つきで窓辺へ向かい、カーテンを引く。
さっと差し込んだ光に、思わず目を細めた。
冬の薄曇りから差し込む淡い光ではなく、やわらかな温もりを感じさせる春の光。
窓の外に残っていた雪はいつの間にか姿を消し、枝先に小さく膨らんだ芽がちらほらと見え始めている。
水の州カーザエルラに、春の訪れが確かに届いていた。
「今日はいい天気そうで良かったですね」
「そうね。今日はせっかくの初日だもの。晴れてくれて良かったわ」
春の初月、第三週の金の日。今日は、州立学院の入学日。私の学院生活が始まる日だ。
二ヵ月前の出来事が、つい昨日のことのように感じられる。あの編入試験の日から、季節が一つ進んでいた。
(……長かったようで、あっという間だったな)
私はキアーラが用意してくれた水盆で顔を洗うと、手際よく差し出されたタオルで水気を拭き取る。そして、そのまま寝衣を脱ぐと、用意されていた制服へと袖を通した。
深い漆黒。
学院の制服の色は黒と定められている。多少の装飾や細部の調整は許されるけれど、基本の意匠は統一されていた。
黒は、闇の女神の貴色。その智慧にあやかり、学びに励む者の証として、黒を身にまとうとされている。
(それにしても、やっぱりいい布は違うね)
光を受けるとしっとりとした艶を帯び、まるで夜の水面のような漆黒。肌に触れる布地は滑らかで、吸い付くような感触がある。
この制服は、学院指定の服飾店で仕立てたものだけれど、私はその前段階――布地選びからこだわった。
イグナツィオ様の計らいで特別に呼び寄せてもらったのは、テッセリア商会。私の友人であり、フィオルテ商会の従業員であるメリッサの父親が営む商会だ。
屋敷に呼ぶことができたのは、私の立場や周囲が落ち着いたというのもあるけれど、編入試験合格のお祝いでもあったのだと思う。
テッセリア商会が屋敷に到着した日、応接室に現れたのは、商会主であるメリッサの父親と、その隣に立つ見慣れた姿。それを見た瞬間、私は思わず声を上げて駆け寄った。
「メリッサ……!」
「アリーチェ!」
きちんとした場であることも忘れて、メリッサの手を取って微笑みかける。とはいえ、周囲の視線を感じ、すぐに我に返って姿勢を正したけれど、込み上げてくる懐かしさは抑えきれない。
(……本当に久しぶりだ)
最後にメリッサに会ったのは、誘拐された当日。その後、手紙で別れの挨拶をしたきりだった。
あれから半年も経ったという事実に、ずいぶん遠くまで来てしまったような気持ちになる。
「元気そうでよかったわ。すごく……その、雰囲気が変わった気がするわね」
「お嬢様然としている?」
私が悪戯っぽく口にすると、メリッサは少しだけ目を丸くした後、涙ぐんだ瞳で嬉しそうに笑う。
「前以上に、大人びた雰囲気をしているわ。でも……アリーチェはアリーチェね」
「それ、褒められてる?」
「もちろんよ」
軽口を交わすと、互いに自然と笑みがこぼれる。
テッセリア商会の主である彼女の父親やキアーラたちが同席しているため、完全に昔と同じようにとはいかないけれど、それでも半年の時間があっという間に埋まっていくのが分かる。
布地を広げてどれがいいか選ぶ合間、ふとした瞬間に交わす短い言葉や表情に、友人として身近に過ごした頃の気配が滲む。
立場も環境も大きく変わったのに、あの頃と同じ距離感で接してくれることが本当に嬉しかった。
やがて、布地を選び終わると、私とメリッサで歓談する時間が設けられた。その最中、メリッサが差し出した一通の手紙に、私は息を呑む。
差出人に予想通りの名前が記されているのを見た瞬間、急いで封を切り、私は手紙に目を走らせた。
そこには、変わらない丁寧な筆致で、ヴィオラの近況が綴られていた。
私がフィオルテ家の屋敷を出てから、しばらくはぽっかりと胸に穴が空いたような気がしていたこと。それでも、時間が経つにつれて少しずつ落ち着きを取り戻し、最近ようやく新しい側付きのメイドが決まったこと。
(……よかった)
突然の別れで寂しく思わせたことを心配していたのだけど、ちゃんと前に進んでいることが分かって、ほっと胸をなで下ろす。
「返事、今書いてもいいかしら」
そう断りを入れると、私はその場で急いでペンを走らせた。
元気に過ごしていること。周囲の人たちに恵まれていること。そして、もうすぐ学院に入学すること。
最後に、新しい側付きが決まったことへの祝福を書き添えて、ペンを置いた。
その後、会話の流れで、メリッサからも近況を聞くことになった。
そこで告げられたのは、かねてより婚約していたガスパロ卿と一年の婚約期間を経て、この春に結婚することが決まったという報せだった。
「おめでとう、メリッサ」
心からの喜び。けれど同時に、ほんの少しだけ寂しさが胸をよぎる。
できることなら結婚式に参列したいけれど、今の立場と状況を考えれば、それは難しい。
(キアーラに相談して、せめてお祝いの品を贈らせてもらおうかな)
そんなことを考えながら、私はメリッサの幸せそうな表情を見つめていた。
「失礼いたします」
制服に袖を通し終えた私の背後で、キアーラがそっと動く。軽く肩に触れる気配のあと、左肩にふわりと掛けられたのは、濃紺のハーフマントだった。漆黒の制服に、深い紺が静かに映える。
「とてもよくお似合いです」
鏡越しに、誇らしげに微笑むキアーラと目が合う。「ありがとう」と微笑み返し、私は鏡に映る自分の姿を一瞥した。
(うん、確かに悪くはないね)
見慣れないはずの制服姿が、不思議と違和感なく馴染んでいた。
これから、これが私の日常になると思うと、楽しみとほんの少しの不安が入り混じって、胸が高鳴る。
支度を終えた私は、食堂へと向かう。そこには、すでにイグナツィオ様が席についていた。
「おはようございます」
「おはよう、アリーチェ」
穏やかな声に迎えられ、私は席に着く。
「いよいよ今日からだな」
「はい」
「気をつけて行ってきなさい。そして、思う存分、学んできなさい」
「ありがとうございます」
イグナツィオ様の言葉に、自然と背筋が伸びるのを感じる。
軽く頭を下げると、同席していたルキスが軽い調子で口を開いた。
「一心不乱に頑張るのもいいが、気を抜くのも忘れずにな」
「分かってるわ」
少しだけ意地の悪い言い方に、思わず小さく笑みがこぼれる。
「ルキスがこの時間にいるということは、もしかして今日の付き添いはルキスなの?」
「ああ、今日は私が学院までついていく。入学初日だからね」
何気ない口調だけれど、その気遣いが嬉しかった。
「それと、その制服、よく似合ってる」
「……ありがとう」
心からの言葉だというのが分かって、くすぐったい気持ちになった。
朝食を終えると、私は屋敷の者に見送られながら、キアーラとルキスとともに屋敷を出た。
屋敷から学院までは、それなりに距離がある。直線で見ればそう遠くはないのだけれど、イグナツィオ様の離宮から馬車止めまでがとにかく遠い。
イグナツィオ様の屋敷は、州城の中でもずいぶん奥まった場所にある。静かで落ち着いてはいるけれど、こうして歩く距離を考えると、やはり少々不便だった。
(……毎日これを通うのね)
歩きながら、私は小さく息を吐いた。
「在学中、私もイグナツィオ様とともにここを毎日歩いていたな」
隣を歩くルキスが、懐かしむように言う。当時、ルキスは今の私と同じように、イグナツィオ様の屋敷でお世話になっていたらしい。
イグナツィオ様とともに学院に通いながら、その頃から護衛も兼ねていたとのことだった。
ルキスもキアーラも州都に住んでいたから利用していないけれど、学院には遠方の学生用に寮も完備されているらしい。
(私も屋敷から通うから寮を利用することはないけれど、こうして毎日付き添ってもらうのは少し申し訳ないね……)
ちらりと二人を見る。
どちらも気にした様子はないけれど、それでもやはり、甘えすぎている気がしてしまう。
私に護衛が必要だとしても、慣れたらせめてキアーラの付き添いはなしにしてもらえるように相談しよう――そう心に決めた。
やがて馬車止めに着き、学院へと向かう馬車に乗り込む。揺られることしばし、窓の外に見えてきたのは、石造りの大きな門だった。
学院はカーザエルラの街の西北西――神殿よりもさらに西に位置している。
馬車がゆっくりと止まり、扉が開かれる。先に降りたルキスに手を支えられながら地面へと足を下ろす。それに続いてキアーラも馬車を降りた。
とはいえ、二人が学院の敷地へ入ることはない。あくまで見送りだ。試験のときとは違い、関係者以外は中へ入れないらしい。
「どうしようもなく困った時は、すぐ空書を飛ばして。セヴィーロなら、すぐに来るはずだから」
ルキスが真剣な表情で言う。普段、学院の研究棟にいるセヴィーロは、州城にいるルキスたちよりも確かに距離的にはずっと近い。
「そういう事態には、そうそうならないと思うけれど……万が一の時は、空書を飛ばすわね」
そう答えると、ルキスはじっとこちらを見つめたまま、「約束だよ」と念を押すように言った。
「ええ、約束するわ」
小さく頷いてみせると、彼はようやく表情を緩めた。
二人に見送られながら私は門の前に立つ。そして、一度だけ振り返った後、小さく息を整えて学院の門をくぐった。
門を越えた先で、同じように親や使用人に見送られる新入生たちの流れへと、身を混じらせる。
真新しい制服に身を包んだ彼らは、どこか落ち着かない様子で、それでも胸を弾ませているのが伝わってきた。
「新入生の方は、講堂へ進んでください」
通りの途中で、職員が声を張り上げている。その案内に従い、私は人の流れに混じって一般棟の方へと進んだ。
やがて一般棟内にある最も大きな講堂へとたどり着くと、入口では係の人が学科ごとに席へと案内していた。
私は少し離れたところで立ち止まり、その様子を眺める。
(さて……私はどこに行けばいいのかな)
新入生ではあるけれど、一年生ではない。このまま魔術科の一年生の席に混ざってしまっていいものか迷っていると、そんな私のもとへ一人の女性が近づいてきた。
「アリーチェさん、入学おめでとうございます」
柔らかな声に顔を上げる。
(この人は……)
「入学試験の時に受付をしておりました、テレーザです。本日は、私がアリーチェさんのご案内を担当いたします」
ああ、と記憶が繋がる。あのとき、一番最初に応対してくれた女性だ。どうやら、編入生である私に配慮してくれるようだ。
「ありがとうございます。今日はよろしくお願いします」
丁寧に頭を下げると、テレーザは一瞬だけ目を瞬かせ、それからすぐに優しく微笑んだ。
「こちらへどうぞ」
そう言って、講堂の中へと案内してくれる。導かれるままに進んだ先は、各学科のまとまりから少し離れた席だった。
一人ぽつんと離れた席に隔絶を感じるけれど、目立つ位置に座るよりはマシだと思った。
目立つ位置ではないことに、私はそっと胸を撫で下ろす。
静かに腰を下ろしながら、私は改めて周囲へと視線を巡らせる。
講堂に集められたとはいえ、大々的な入学式という雰囲気ではなさそうだ。賓客の姿も在校生もなく、ここにいるのは新入生と教師だけ。
(思っていたより、ずっと簡素なのね)
新入生たちが落ち着きなくざわめいているのを眺めながら、私は周囲へと目を配っていた。
同じ制服でも、学科ごとに少しずつ意匠が違っているのが興味深い。騎士科は斜めがけの剣帯を模したベルト、経済科は腕章、家令科は首元に結ばれたスカーフ。そして魔術科は、私も身につけている肩がけのマント。
(……こうして並ぶと、学科ごとに雰囲気も違うね)
中でも一番ざわめいているのは騎士科で、魔術科はどこか誇りのようなものも感じられる。
ふと、イグナツィオ様から聞いた話を思い出す。
今年は魔術科の入学希望者が多いと聞いていたけれど、実際に蓋を開けてみると、入学者数は例年並みに落ち着いたらしい。
理由は単純で、入学直前になって、病気や怪我を理由に延期を申し入れた貴族が複数いたからだという。
おそらく、私が一年生として入学しないと知って、無理に時期を早めていた子たちの親が調整をかけたのだろう。
まだ幼い子が無理をして入学するよりも、きちんと準備を整えてからの方がいいに決まっているものね。
しばらく待つと、講堂の扉が静かに閉められた。
同時に、壇上へと一人の老人が上がる。その人は小さな円柱状の帽子を被り、胸元まで届く白い髭を蓄えていた。おそらくこの学院の学長だろう。
「水の州の未来を担う子らよ、入学おめでとう」
よく通る声が、講堂の中に響く。
「この学院に入学した君たちは、いずれこの水の州を支え、導く存在となる。その誇りを忘れず、より良き将来をつかむため、学院で多くを学び、日々の努力と研鑽を重ねてほしい」
その後も、祝辞はしばらく続いた。
やがて挨拶が終わると、一年生と関わる教師たちの簡単な紹介が行われ、講堂での行事はあっさりと締めくくられた。
「新入生は、講堂の外に掲示してあるクラス分けを確認し、各教室へ向かうように」
そんな指示が出されると、周囲の生徒たちが一斉に立ち上がる。
その流れをぼんやりと眺めていると、タイミングを見計らったように、テレーザが近づいてきた。
「では、私たちは参りましょうか」
「これからどこへ行くのですか?」
「学院の規則と施設についてご説明した後、魔術科の二年生の担任のところへご案内します」
どうやら、新入生たちはこの後、混合クラスに分かれ、学院の規則や教科課程についての説明を受けるらしい。
けれど私は編入のため、その流れには加わらずに、テレーザが案内役を務めてくれるとのことだった。
講堂を出ると、そのまま一般棟の案内が始まる。
広い廊下に並ぶ教室や掲示板を一通り見て回り、次に騎士棟へと向かった。そこでは訓練用の設備や装備が整然と並んでいた。
その後は綺麗に整えられた中庭を抜け、食堂へと足を運ぶ。
「学生の昼食は無料で提供されています」
テレーザが食堂前に設置されているボードを示しながら、穏やかに説明する。
「ただし、日替わりなど数に限りのあるものと、常に用意されているものがございます」
「自由に選べるのですか?」
「はい。ただ――」
そこでほんのわずかに言葉を区切ると、彼女は話を続けた。
「限定のメニューに関しては、貴族の方が優先される傾向がございます」
授業料とは別に、貴族が学院へ寄付している資金の一部が、この食堂の運営にも充てられているということを、テレーザが説明してくれた。
(なるほど……)
寄付している者が優先されるのは当然という、暗黙の了解なのだろう。
「とはいえ、あまり気にせずお選びいただいて問題ありませんよ」
そう微笑まれて、私は小さく頷いた。
テレーザの言葉が本音か建前なのかは分からないけれど、一応心に留めておこう。
その後は図書館を見学し、競技場、訓練場、研究棟の外観を見て回ってから、最後に向かったのは魔術棟だった。
ちょうど上の学年の生徒たちが登校する時間帯らしく、魔術棟へと入っていく生徒たちの姿が目に入る。
その流れに倣うように、凝った装飾の扉を通って建物の中へ入ると、そのままテレーザとともに階段で三階へ上がる。
魔術棟は五階建てで、一階と二階がそれぞれ第二学年と第三学年の使用区画で、三階から上は教師陣の研究室が並んでいるらしい。
廊下を進み、階段からほど近い扉の前でテレーザが足を止める。
そこに掛けられているプレートには、名前が記されていた。
(――ナーディア・ストルキオ)
テレーザがノックをし、コンコンと軽やかな音が響く。
すると一拍の間を置いて、バサリ、と何かが崩れるような音とともに、ゴトン、と落ちる音が中から聞こえてきた。
「わあっ……!」
若い女性の、明らかに慌てた声が聞こえてきた。
一瞬、テレーザと私が顔を見合わせ、再び扉へと視線を向ける。
「ど、どうぞ!」
少しの間を置いて、上ずった声で入室の返事があった。
テレーザが扉を開けた瞬間、目に飛び込んできたのは床に散乱した書類と本の山だった。
机の上に積み上げられていたであろうそれらは、今では見事に崩れ落ち、見る影もなかった。




