134. 星空の瞳と占星術師
「大丈夫ですか、ナーディア先生」
テレーザがすぐにそう声をかけながら部屋の中へ入り、床に散らばった書類を手際よく拾い始めた。私もそれに倣い、近くに落ちていた本を一冊、二冊と拾い上げる。
「すみません、ありがとうございます……」
やや慌てた様子の声の主に、集めた本を差し出そうと顔を上げた瞬間、視界の端でぬっとした影が大きく動いた。
(……え?)
私は思わず一歩、後ずさる。
屈んでいたせいで分からなかったけれど、立ち上がったその人は、想像していたよりもずっと背が高かった。
私の反応に気づいたのか、彼女ははっとしたように少し背を縮めて、遠慮がちに本を受け取る。
その仕草がどこか可愛らしくて、さっきの驚きが少しだけ和らいだ。
「この子が二年生に編入するアリーチェさんです。よろしくお願いしますね」
テレーザがそう紹介すると、彼女は私の方へ視線を向けた。
「では、私はここで。アリーチェさん、よい学院生活を」
「はい、ありがとうございました」
軽く頭を下げると、テレーザはにこりと微笑んで、そのまま静かに部屋を後にした。
ぱたり、と扉が閉まる。残されたのは、私と――目の前の背の高い女性。
「あ、えっと……魔術科の二年のクラスを担任するナーディア・ストルキオです。アリーチェさん、よろしくね」
少しあたふたとした様子で名乗る彼女は、先ほどの印象そのままに、どこか落ち着かない雰囲気をまとっていた。
夜のように深い紺色の髪。長い前髪の奥からのぞく瞳は、濃い青色をしている。
女性の割に背が高くて驚いたけれど、背を丸めて少しでも小さく見せようとしている様子が、どこか親しみやすい印象を与えた。
「アリーチェ・グロッソです。一年間、よろしくお願いします」
そう言って頭を下げて顔を上げた瞬間、ナーディアと目が合った。
(……いや、合ったというより、じっと食い入るように見つめられている?)
しかも、ナーディアとの距離はじりじりと近くなっている。
思わず体を反らして距離を取ると、ナーディアははっと我に返って目を見開いた。
「あっ、ご、ごめんなさい! 不躾に見てしまって……」
慌てて一歩引きながら、彼女はどこか興奮気味に言葉を続ける。
「あの、アリーチェさんのその瞳は、神紋者になってそうなったの? まるで、星の浮かぶ夜空みたいで……とても綺麗ね」
「瞳……ですか?」
私は思わず何度か瞬きをする。
「これは生まれつきで、もともとこうなんです」
「へぇ……そうなのね」
私の瞳を覗き込みながら、感心したようにナーディアが頷く。
時折、人に指摘されることはあるけれど、普段は特に意識していない。
「ねえ、アリーチェさん」
ふいに、ナーディアの声音が変わった。
真剣な――というより、どこか熱を帯びたような瞳で、じっとこちらを見つめてくる。
(……なんだろう?)
そう思った次の瞬間、思ったよりも強い力でがしりと手を掴まれ、思わず肩がびくりと跳ねた。
「アリーチェさんは占星術に興味はないかしら?」
「えっ?」
勢いに押されて、驚きの声が口から漏れる。
「占星術は闇属性と相性がいいの。しかも、まるで星空を映したような素敵な瞳を持っているなんて、これはもう運命よ。ぜひ占星術を学ばないかしら?」
さっきまでの遠慮がちな様子はどこへやら、別人のようにぐいぐいと距離を詰めてくる。
「あ、あの……」
言葉に詰まった私を見て、ナーディアははっと目を瞬かせ、慌てて手を離す。
「ご、ごめんなさい! 占星術が絡むと、つい周りが見えなくなってしまって……」
さっきまでの勢いが嘘のように、ナーディアの声がみるみるうちにしぼんでいく。
「いえ、大丈夫ですよ」
苦笑しながら答えると、ナーディアは申し訳なさそうに肩をすくめて小さくなった。
「先生が占星術に情熱を傾けていることは、ちゃんと伝わってきましたから」
「本当にごめんなさいね……」
しょんぼりとした様子に、少しだけ申し訳ない気持ちになる。
「その上で言わせてもらうと……占星術は、今のところ選択肢としては考えていないんです。ごめんなさい」
そう正直に伝えると、「ああぁ……」と言いながらナーディアががくりと肩を落とした。
分かりやすいほどの落ち込みように、思わず苦笑いがこぼれる。
「そ、そうよね……。占星術は属性の相性も偏っているし、地味だし、曖昧だし……好んで選んでくれる人なんて……」
目に見えてしょんぼりと落ち込むナーディアは、そのまま小さく俯く。
「前任者は比較的名が通っている人だったから、それなりに受講者がいたわ。でも、私に代わってからは減る一方で……このまま今年も減ったらどうすればいいのかしら……。やっぱり私が人に教えるなんて、まだ早かったのよ……」
誰に言うでもなく、ぶつぶつと止めどなく独り言が溢れ出す。
(うん、完全に落ち込ませてしまったね……)
このままでは延々と続きそうな気配を感じ、私はさりげなく質問を投げかけた。
「ナーディア先生の専攻は、占星術なんですか?」
「あっ……ええ、そうよ」
私の声に、はっと顔を上げる。
どうやら意識をこちらに引き戻すことには成功したみたい。
「占星術って、ご年配の方がされている印象がありました」
「やっぱり、若輩の私なんて重みが感じられないわよね……」
思ったままを口にすると、間髪入れずに再び落ち込む。
私は慌てて、「いえ、そうではなくて……」と言葉を続ける。
「若いのに占星術の講師をされているなんて、すごいなと思いまして。それに、二年生の担任も任されているなんて、先生への期待の表れですよね」
そう言った瞬間、ぴしりと空気が固まり、まるで時が止まったかのようにナーディアが動きを止めた。
(あれ……これは、何か余計なことを言ってしまったかも)
嫌な予感がした次の瞬間、ナーディアはぎぎぎとぎこちない動きで視線をあからさまに逸らした。
「あ……その……」
ナーディアの視線があちこちへ泳ぐ。
「普段、担任はもう少し経験のある先生が担当するのだけど……今年は、その……他の先生方が忙しくて、私にお鉢が回ってきたというか……」
(ああ……なるほど)
しどろもどろに言葉を選びながら説明するその様子に、私は内心で静かに納得した。
担任という立場上、クラスで問題が起これば真っ先に対応するのは担任だろうし、大きなトラブルになれば責任も問われる。
忙しいという言葉で濁していたけれど、おそらく押し付け合いの結果、ナーディアに白羽の矢が立ったのだろう。
(心当たりがあるとすれば、私だよね……)
前例のない編入生で、普通ではない事情を抱えている私。面倒ごとを避けたいと思われても、不思議ではない。
「……先生も、いろいろと大変なのですね」
思わず、そんな言葉が私の口をついて出ていた。
「ええ……」
先ほどまでの勢いはどこへやら、どこか遠い目をしたナーディアがずしりと重みのある声で頷いた。
ほんの少しだけ同情と申し訳なさを覚えながら、私は目の前のナーディアを見つめた。
――ジリリリリ……
廊下のどこからか、澄んだ音が響いた。試験の時にも聞いた時刻を知らせる学院のベルだ。
「あっ、もうこんな時間」
ナーディアがびくりと肩を揺らし、慌てたように周囲を見回す。
「アリーチェさん、二年生のクラスへ向かうわよ」
「はい」
急いで机の上を整え、書類を抱えたナーディアの背を追う。
部屋を出ると、ナーディアは慣れた手つきで扉に鍵をかけ、そのまま足早に階段へ向かった。
コツコツと靴音を響かせながら階段を下りて一階に着くと、そのまま廊下を少し進み、ひとつの扉の前で足を止めた。
ナーディアが軽く息を整え、扉を開ける。その瞬間、ざわざわとした空気が、一気に静まり返った。
先ほどまで話していたらしい生徒たちが、ぴたりと動きを止め、立ち上がっていた者も、慌てて席へと戻っていく。
試験で使った教室よりも、ずっと広い空間。長机が整然と並び、後方に向かってわずかに段差がついているのが見えた。
「アリーチェさんも、空いている席に座ってちょうだい」
「はい」
軽く頷いて、教室内へと足を踏み入れる。視線を巡らせて空席を探そうとした、そのとき――
「あっ」
ナーディアが何かを思い出したように声を上げ、小声で私に話しかけてきた。
「席は特に決まっていないのだけど、暗黙の決まりがあって……」
「聞いていますので、大丈夫ですよ」
そう答えると、ナーディアはほっとしたように小さく頷いた。
私はもう一度、教室を見渡す。
(さて……)
前方から中ほどまでは、比較的質素な制服。後方に行くほど、装飾が増え、生地も明らかに上質になっていく。
この学院における暗黙の決まり――家格が高いほど、後ろの席に座るというものだ。
私は少し考えてから、中央付近にある空席へと向かった。
「ここ、空いているかしら?」
「え、ええ……大丈夫よ」
隣の女子生徒が少し驚いたように頷くのを確認してから、静かに席へ腰を下ろす。
近くで見ると、彼女の制服は質は良いけれど、過度な装飾はない。
おそらく、裕福な平民か、あるいは下位の貴族。
(このあたりが無難ね)
私の立場なら、どこに座っても問題はないだろうけれど、余計な波風は立てないに越したことはない。
席に着いた途端、周囲から値踏みと興味、そしてわずかな警戒の混じった視線を感じた。
(……まあ、そうよね)
見たこともない生徒が突然やってきて席に座ったら、目立たないはずがない。
いずれ紹介される機会があるだろうと、ひとまず気にしないことにした。
やがて、教壇に立ったナーディアが、こほんと小さく咳払いをする。
「こ、今年の二年生を担当する、ナーディア・ストルキオです。専攻は占星術。初めて見かける人もいると思いますが、一年間よろしくお願いします」
先ほどの部屋での様子とは打って変わって、きちんと背筋を伸ばして教師らしい口調で挨拶をする。
(かなり頑張っている感じはするけれど、さっきのあの落ち込んだ様子からは、ちょっと想像できないね……)
そんなことを思いながら見ていると、ナーディアは配布用の紙を取り出し、前の席から順に回していくよう指示を出した。
「こちらが今年の授業予定になります。各自確認してくださいね」
手元に回ってきた紙にざっと目を通すと、基礎から応用まで、いくつもの科目が並んでいた。
(占星術は……後期か)
ほんの少しだけ、さっきのやり取りを思い出す。
特に興味はなかったけれど、後期で授業に余裕があれば少しくらい考えてもいいだろうか……。
(というか、自己紹介の時間はないのかな?)
少し不思議に思ったけれど、すぐに理由に思い至る。
一年次は他学科と混合クラスだったとはいえ、魔術科の授業自体は一年時点で始まっていた。つまり、この場にいるほとんどが顔見知りだ。
ナーディアは初担任のようだから、私の紹介をするというところまで気が回らないのだろう。
すでに出来上がっている関係の中に入る形になるのかと思うと、上手く馴染めるだろうかと、ほんの少しだけ不安を覚える。
(まあ、なんとかなるでしょう)
そう心の中で呟きながら、私は静かに配布された紙へと視線を落とした。




