130. 編入試験、後半
控室に着くと、落ち着かない様子で椅子に座っていたキアーラが、ぱっと顔を上げた。
「アリーチェ様、お疲れ様です。どうでしたか?」
「無事に終わったわ。たぶん……大丈夫だと思う」
私がそう答えると、キアーラはほっとしたように胸に手を当てた。その仕草を見て、私の肩の力も少しだけ抜ける。
案内してくれたセヴィーロと別れ、私は控室に用意されていた席へと腰を下ろす。キアーラが屋敷から持参してきた包みを広げ、昼食の用意を始めた。
昼食と言っても、屋敷で用意してもらった軽食――食べやすいように具材を挟んだパンと、少しの果物だ。
午後に騎士科の実技試験があるため、学院の食堂は開放されているけれど、私たちはわざわざ昼食を持参していた。
万が一食事に何か仕込まれる可能性があるため、用心した形だ。
考えすぎかもしれないけれど、ここまで露骨な妨害をしてきたところを見る限り、その可能性は十分にあり得る。
「午後は実技ですね」
「ええ……」
向かいで昼食を食べるキアーラがぽつりとこぼし、私はごくりと口の中のものを飲み込む。
(午後の最初の試験は音楽……)
思い浮かべただけで胸の奥が重く、指先が冷たくなる。ある意味、今日一番の難所だろう。
試験前日まで何度も練習したけれど、私の演奏に情緒が乗ることはなく、当日を迎えてしまった。
さすがに、選択科目が理由で不合格になることはないと思いたいけれど、暖房を切るという嫌がらせのような妨害もあるくらいだからね……。
重たい気持ちを抱えたまま昼食を終えた私は、午後の試験開始が近づくと、キアーラとともに音楽の試験が行われる一般棟へと向かった。
音楽室の扉を開けると、柔らかな雰囲気の女性教師が私たちを出迎えてくれた。
「こんにちは、あなたがアリーチェさんね」
「はい、今日はよろしくお願いします」
軽い挨拶の後、私は部屋の中央に置かれていたチェンバルムの椅子に腰掛け、そっと鍵盤に指を置く。
一拍だけ息を止めると、私は深く息を吐いて演奏を始めた。
音はきちんと鳴っている。難しい指の動きも問題ない。練習してきた通りに曲は進んでいくけれど……練習のときとまったく同じ響きだった。
緊張による失敗がないことを喜べばいいのか、不安や緊張という情緒が表れないことを残念に思えばいいのか、ある意味では皮肉である。
最後の音を鳴らし終えると、わずかな間を置いて、教師が穏やかに口を開いた。
「及第点はこなせているでしょう」
その一言に、胸の奥で張り詰めていた緊張が、ふっと緩んだ。
(……よかった)
「緊張していたからか、演奏が固かったですね。ですが、指運びはとても丁寧でした。次に演奏を聞く機会があれば、もっと美しい調べを楽しみにしています」
「……ありがとうございます」
音楽教師に頭を下げながらも、内心では苦笑いが浮かぶ。
期待してもらえるのはありがたいけれど、練習を重ねた結果がこれなのだ。
正直なところ、これ以上上達する見込みはないと思う。
(……一応頑張ってはみるけれど、あまり期待しないでもらえると助かります)
そんな本音を心の内にしまいながら、私は静かに席を立った。
もう一つの選択教科――刺繍も、問題なく合格をもらうことができた。
刺繍は限られた時間では完成まで至らないため、刺繍の試験内容は事前に自分で仕上げた作品を持参し、それを評価する形式となっていた。
私が用意したのは、百合や月下草などの花をあしらった、小さなカフス飾り。
最初は、ハンカチに花模様の刺繍を刺すつもりだったのだけれど、ハンカチとなると一つ一つの刺繍の出来だけでなく、全体の配置や調和まで見られることになる。
粗が目立ちやすいし、構図の良し悪しが評価に直結するため、芸術的な出来栄えよりも技術を評価してもらえるよう、小さなカフスを選択したのだ。
結果は上々。作品が小さい分、数を多くし、様々な花の種類を刺し上げたことで、並べたときにぱっと目を引くものになった。
(数で見せる、というのも一つの戦略よね)
「どれも丁寧に仕上がっていますね。針運びも安定していますし、糸処理も綺麗です」
そう評価を受け、無事に合格を告げられると、ひと山越えたような安堵が全身を包んだ。
(――これで、残る実技試験はあと一つ)
家政の教室を出ると、廊下で待っていたセヴィーロが軽く手を挙げた。
「お疲れ様、終わったみたいだね。その顔を見るに、無事合格したのかな?」
「ええ。これで、残りは一つだけよ」
セヴィーロと合流し、最後の試験が行われる競技場へと向かって三人で並んで歩き出す。
残り一つと思うと、心なしか石畳を踏む足音が軽く感じる。
「そういえば」
隣を歩くセヴィーロが何気なく口を開いた。
「学科試験の結果だけど、無事合格だったよ」
「えっ……本当?」
一瞬、言葉の意味が頭の中に遅れて響く。
「本当本当。全科目、九割以上で正解。さすがにラニエロも文句のつけようがなかったみたいだね」
「……よかった」
思わず、そんな言葉とともにほっと息を吐く。
この三か月、できる限りの時間を費やし、その積み重ねがきちんと形になったのだと思うと、感無量で胸がいっぱいになる。
「おめでとうございます、アリーチェ様」
「ありがとう、キアーラ」
隣でキアーラが嬉しそうに微笑み、つられるように私の口元にも自然と笑みが浮かぶ。
「ただね……」
そんな喜びの中、声音を落としたセヴィーロの声が小さく響く。
「最後の魔術試験なんだけど……監督がちょっと厄介な人になったみたいなんだ」
「厄介な人?」
私は思わずセヴィーロに問い返す。少なくとも、ラニエロではないのだろうけれど、それなら一体誰……?
「強硬な保守派で、後天的神紋者に対してあまりいい感情を持っていない人物なんだ」
「……なるほど」
短く相槌を打ちながら、胸の奥が少しだけ重くなるのを感じた。
(そういう人がいてもおかしくはないと思っていたけれど、強硬保守派か……。単純に妨害を依頼されたのとは別に、動機があるということね)
「おそらく、試験課題で難問を出してくる可能性が高いだろう」
「それは……困ったわね」
ただでさえ最後の試験だというのに、さらに条件が厳しくなると、気が抜けないどころの話ではない。しかも科目は魔術師にとって最も重要な魔術の実技試験だ。
「まあ、大丈夫だよ」
私の不安を吹き飛ばすように、セヴィーロが明るい声で肩をすくめた。
「アリーチェは優秀な生徒だったからね。多少難しい課題をふっかけられたとしても、十分乗り切れるだけの力はついたと思うよ」
その言葉に、少しだけ背中を押された気がした。
「ありがとう……。その期待に応えられるように、頑張るわ」
(今日のために、できる限りの準備はしてきたもの。ならば、あとはそれを出し切るだけ!)
私は大きく息を吸い込むと、覚悟を固めながら競技場へと続く道を力強い足取りで進んでいった。
競技場は魔術棟のさらに奥にあった。
セヴィーロに先導されて中へ入ると、奥へと続く通路を進む。途中でキアーラと分かれ、さらに進んだ先で視界が一気に開けた。
中央には一段低い対戦場。その周囲を取り囲む観覧席には、ぽつぽつと人影があった。どうやら、私の試験を見に来ている人もいるらしい。
どういう類の視線かはわからなかったけれど、きっと興味本位だけではないのだろう……。
気にしても仕方がないと意識を切り替えると、私は前方へと目を向けた。
そこには、二人の人物が私を待っていた。ひとりは学科試験のときにも見た、白髭を結わえた老人――オノフリオ。そしてもうひとりは、初めて見る男性だった。
灰緑色の髪に、細い目。神経質そうな顔立ちに浮かぶのは感情を感じさせない無表情。
(この人が……)
この場にいる以上、魔術試験の監督に違いない。
セヴィーロとともに歩み寄ると、オノフリオがにこやかに口を開いた。
「よく来た。セヴィーロ先生から聞いておるじゃろうが、学科試験は見事合格じゃった。引き続き、実技試験も頑張りなさい」
「はい、頑張ります」
明るく返事をすると、オノフリオは満足そうに頷く。
オノフリオと会話をしている最中も、その隣の灰緑の男は無言でただじっとこちらを見ていた。
感情の読めない視線が、静かに突き刺さる。
(……これは、少しやりにくいわね)
露骨な敵意なら分かりやすいけれど、これだと底が読みにくい。
「さて、魔術の実技試験じゃが、こちらのエルドリック先生が担当する」
紹介に合わせて、私は軽く頭を下げる。
「よろしくお願いします」
返答は、ない。
エルドリックは無表情のまま、わずかに視線を落とす。競技場の空気がわずかに冷えたような気がした。
「試験の前に、軽く説明をしておこう」
場を和らげるように、オノフリオが説明を始めた。
「魔術試験では、初級魔術を四つ、中級魔術を二つ以上見せてもらいたい。もしエルドリック先生の課題中に数をこなせなかった場合は、後で実演する機会を設けるから安心してよい。あとは――必ず核言は口に出し、すべて応用魔術とすること」
「分かりました」
頷きながら、私はセヴィーロに習ったことを頭の中で確認する。
魔術は、発動させるための鍵となる核言と、補助的な詠唱の詠句によって成り立つ。
たとえば、最初に習った影人形の術なら――「影よ、形を成せ」が詠句、「影人形」が核言だ。
そして、応用魔術は、教本通りの詠句ではなく、自分で言葉を組み替え、さらなる意味を持たせて発動させる術。
影人形であれば、形状を意のままに変えることも、影を巨大化させることも、あるいは――存在をより実体に近づけることも可能だ。
(つまり、“どれだけ魔術を理解しているか”を見られるということね……)
核言は必ず口に出すということは、詠句も含めてすべて声に出すか、詠句は内に留めて核言のみ発声するかのいずれか。
おそらく、発動する魔術が外から判別できる形にしろ、ということだろう。
無言で発動しては、何の魔術かの識別ができないものね。
「試験内容の詳細については、エルドリックから説明してもらおう」
オノフリオがそう言って一歩下がると、代わりにエルドリックが前へと出た。
無言のまま、すっと手を差し出す。その掌の上には、私の手の半分ほどの大きさのクリスタルが三つ。
水晶のようなそれは、光を受けて淡く輝く。
「……これを、魔術で破壊しろ」
低く、感情の薄い声が響く。
「こちらから攻撃することはない。ただし、防御は行う」
(防御……)
単なる的当てではない、ということか。
どう防いでくるのかは分からないけれど、簡単に壊させてはくれないのは確かだろう。
「……質問は?」
「ありません」
私は短く答えた。これ以上聞くべきことは、なにもない。
「では、始める」
それだけ告げると、エルドリックは踵を返し、競技場の中央へと歩き出した。
「アリーチェ」
背後から声がかかり、振り返ると、セヴィーロが軽く手を振っていた。
「僕は観覧席から見てるから。頑張ってね」
「ええ、頑張るわ」
小さく頷き返し、前へと向き直る。
(――これが、最後)
胸の奥で、静かに火が灯る。
私は握った手に力を込めると、エルドリックの後を追い、競技場の中心へと歩みを進めた。




