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【第三部】黒瞳少女は帰りたい 〜独りぼっちになった私は、故郷を目指して奮闘します〜  作者: 笛乃 まつみ
第八章 闇の神紋者

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129. 公正なる立会

 教室に入ってきた二人を前に、ラニエロが眉をひそめて顎を引いた。


「オノフリオ先生、セヴィーロ先生、何故ここに? 学科試験は、私に一任されておりますが」


 低く抑えられたラニエロの声には、明らかな不快感が滲んでいた。


「ほっほっ、邪魔をしにきたわけではない。ただ……立ち会いを頼まれましてな」


 白髭を丁寧に結わえた老人――オノフリオが、穏やかな口調でそう答えた。ぴりぴりとした場の空気とは対照的に、どこか飄々とした様子を見せていた。


「立ち会い……? 私は何も聞いていませんが」


 ラニエロの声が、さらに険を帯びる。

 セヴィーロが一歩前に出て「こちらが委任状になります」と言いながら、懐から取り出した紙を差し出した。ラニエロはそれをほとんどひったくるようにして受け取ると、紙に目を走らせる。

 そして次の瞬間、書き殴るように指先で空をなぞると、どこかへ空書を飛ばした。


(おそらく……情報の確認をしているのだろう)


 一連の動きを眺めながら、私が内心で小さく息をついていると、セヴィーロがちらりとこちらに顔を向けて、ぱちりと片目をつぶった。

 その軽薄な仕草に、張り詰めていた肩の力が、わずかに緩む。


(イグナツィオ様、間に合わせてくださったのね……)


 ベルナデッタ様の警告を受けて、イグナツィオ様が公正な立会人を配置できるように動いてくれていたのだけれど、どうやら申請が無事通ったようだ。


 私がほっとしたのも束の間、返事の空書が戻ってきた。それを受け取ったラニエロは、内容を確認した途端、露骨に顔をしかめる。

 苦虫を噛み潰したような表情を見る限り、彼にとって都合の悪い話だったらしい。


「……どうやら話は本当のようですね。立ち会うのは構いませんが、決して試験の邪魔だけはしないようにお願いします。――セヴィーロ先生は、特に」


 最後の一言に棘を含ませながら、ラニエロはじろりとセヴィーロに視線を向けた。


「嫌だなぁ。立会人として、ちゃんと試験が公平に行われているかを見届けるだけですよ。不正なんてセコい真似はしませんから、安心してください」


 相手を食ったような調子でへらへらと笑い、セヴィーロは手を振って答える。その言葉には、どこかラニエロの神経を逆撫でするような響きがあった。


(これは……絶対にわざとやっているわね)


 案の定、ラニエロの顔がみるみるうちに赤く染まっていく。怒りを押し殺しているのか、こめかみがぴくりと引きつっていた。

 本来、静寂に包まれるはずの試験前の時間に、火種が燻るような不穏な空気が広がるのを感じた。


「……それにしても、この部屋はずいぶんと冷えるのう」


 オノフリオの穏やかな声が、張り詰めていた教室に静かに落ちる。

 その一言に、ラニエロの表情がぴくりと強張って視線をそらした。つい先ほどまで赤くなっていた顔が、今度はすっかり色を失っていた。


(分かりやすい人だ……)


 私が内心そう思っていると、セヴィーロがさりげない様子で窓際へと歩み寄った。


「確かにそうですね。弁が開いていないのかな?」


 壁際に露出している金属管に手をかざし、何かを確かめるように軽く触れる。そして、ほんの一瞬の確認のあと、彼は肩をすくめた。


「やっぱり、制御弁が開いていなかったみたいです。どうやら、この教室の準備をした者が入れ忘れていたみたいですね」


 軽い口調でセヴィーロが言うと、言葉に詰まったように、ごほんとラニエロが咳払いをした。


「……そうだったんですね。まったく気づいていませんでした」


 取り繕うように頷くものの、その声にはわずかな焦りが混じっていた。


(やはり、何らかの細工をしていたのね)


 さっきまでの態度を思い返せば、決して偶然などではないだろう。とはいえ、追及したとしても意味はない。私としては、試験を受ける環境が整っただけでも良しとしておこう。

 私がそう考えていると、セヴィーロが何かを呟きながら、片腕を軽く持ち上げた。

 次の瞬間、教室の空気がふわりと揺らぎ、わずかに温もりを帯びた風が吹き抜ける。


「暖かくなるまでに時間がかかるから、今、教室の空気を少し温めました」


 確かに、先ほどまで肌を刺すようだった冷気が、ゆっくりとほどけていくように感じた。

 私は指先の感覚を確かめた後、「ありがとうございます」とセヴィーロにお礼を返した。


(これで、寒さも問題なく乗り越えられそうだね)



 少しして、試験の開始を知らせる三の鐘が鳴り響いた。

 最初の科目は数学。私は配られた用紙に視線を落とし、すぐに問題に取り掛かった。


(……やっぱり難しい)


 問題を一通り確認した結果、私が最初に抱いた感想はそれだった。

 単純な計算問題も混ざってはいるけれど、全体としては応用が中心で、考えさせる問題が多い。

 まだ最初なのに、時間配分を考えないと時間を取られてしまいそうだ。

 迷っている暇はない。私は一度だけ浅く息を整えると、ペン先を紙に滑らせた。


(解けるところから、着実に解いていく)



「これは、またずいぶんと難しい問題じゃのう」


 ペンを走らせ始めて、どれくらい経っただろうか。ふいに聞こえた声に顔を上げると、いつの間にかオノフリオが机のすぐそばに立っていて、私の答案用紙を覗き込んでいた。


「オノフリオ先生、私語はご遠慮ください!」


 すぐさま、ラニエロの鋭い声が飛ぶ。


「ちょっとした独り言じゃよ。助言したわけでもあるまいに、そうかっかせずともよかろう」


 オノフリオは、どこ吹く風といった様子で肩をすくめる。私はそのやり取りを横目で確認すると、再び視線を問題へと戻す。

 オノフリオの言葉の意味は気になるけれど、ただでさえ時間は限られているから、他に気を取られている暇はない。

 私はペン先を止めることなく、次の式へと思考を巡らせる。

 そんな私の集中を試すように、オノフリオが再び感想をぽつりと落とした。


「それにしても、編入試験は一年生の学習範囲から出題と言われていたが、一年生というにはずいぶん高度な問題が出ているようじゃな」


(……やっぱり、そうよね)


 これが学院の“普通”なのかと思ったけれど、どうやら教師の目から見ても、これは難しいらしい。


「さあ、私は数学の問題を作ったわけではないですから分かりかねます。ですが、一年生で学んだことを応用すれば解ける問題なのでしょう」


 ラニエロが、どこか気を取り直したように、ふんと鼻を鳴らして言った。


「そもそも、編入試験などまったく前例のないことなんです。難易度が多少高くなったとしても仕方のないことではないでしょうか」


(多少、ね)


 ずいぶんと飛躍した建前だけれど、どうやらそれで押し通すつもりらしい。まあ、“多少”の範囲は人それぞれと言われたら、それまでだものね。


「確かに理屈だけ見ればそうじゃな。ただ、狙い通りにいっているかは分からんが……」


 オノフリオがそこで言葉を切り、視線がこちらに向けられたような気配を感じる。

 けれど、私は顔を上げることなく、ただペン先を走らせる。 


「っ……」


 小さく息を呑むような気配がしたけれど、誰のものかわざわざ確認する必要もなかった。


 確かに、問題は難しい。単純に解けるものは少なく、式を組み立てながら、慎重に解き進めていく必要があるものばかり。

 けれど、それは想定内。

 難問が出る可能性は、最初から考えていた。だからこそ、応用問題も重点的に詰め込んできたし、最悪の場合を想定して、二年生の範囲にも手を出していた。

 幸い、二年生からの出題はなかったけれど、最初の方しか予習できていなかったから、そちらを多く出されていたら、さすがに私も解けなかっただろう。

 逆を言えば、今の問題内容であれば、多少時間はかかろうとも、解けないものはないということ。

 私は意識からラニエロたちを締め出すと、ただひたすらに問題を解き、答えを書き込んでいった。


 ひと通り解き終えたあと、軽く全体を見直す。計算間違いや条件の取り違えがないかを確認すると、私は手を挙げた。


「終わりました」


 静かに告げると、ラニエロは難しい表情のまま歩み寄ってくる。そして、私から答案用紙を受け取ると、無言で次の用紙を取り出した。


「……次は語学だ」


 差し出された紙を受け取りながら、私は小さく息を整える。


(あと、残り八科目)


 視線を落とし、新たな問題へと意識を切り替えた。




 ――コトリ


 私は静かにペンを机の上に置いた。


「終わりました」


 最後の詩学の解答を書き終えた私は、背筋を伸ばし、手をまっすぐに上げる。最後の科目だけあって、解放された清々しさが私の表情にも表れているのを感じた。


「……時間はまだあるが、終わりでいいだろうか」


 ラニエロが、どこか信じがたいものを見るような目でこちらを見る。


「確認も終えましたし、終わりで問題ありません」


 はっきり答えると、彼は一瞬言葉を失ったように口を閉ざし、それから「分かった……」と小さく呟いた。

 その声音は、試験開始までの威圧的なものとは打って変わり、どこか憔悴しているようで、最後の答案用紙を封筒にしまう手つきも、どこか重たげだった。


 こうして、四の鐘が鳴り終わるのを待つこともなく、私の学科試験は終了した。


(……終わった)


 張り詰めていた糸が切れるように、全身から力が抜ける。

 最初の数学は確かに難しかったけれど、その後の語学は少し難しい程度で、教科ごとに難易度にばらつきがあった。

 神学のように、一年生の範囲をきちんと理解していれば問題なく解けるものもあったし、逆に数学と同じくらい、あるいはそれ以上に骨の折れるものもあった。

 ラニエロの担当らしい地理は、その後者だったけれど……。


 とはいえ、地理は暗記がものを言う分野。私にとっては大得意といえる科目だ。

 ふと、難問ともいえる問題を、淡々と書き進めていく私を、ラニエロがぎりぎりと歯を食いしばるような表情で見ていたのを思い出す。


(問題よりも、あの恨みがましい視線の方が気が散ったのだよね……)


 そんなことを思い出していると、オノフリオがのんびりとした口調でラニエロに声をかけた。


「さて、ラニエロ先生、行こうかの」

「え……どこへ行くのですか?」


 答案の入った封筒を胸に抱えたラニエロが、戸惑いを隠せない様子で問い返す。


「今から採点するのじゃろう? わしも付き合おう」

「いえ、採点は私一人で問題ありませんよ」


 即座にその申し出を断ったラニエロに対し、オノフリオはゆったりと首を振った。


「立会人としてはそうはいくまい。ちゃんと最後まで見届けねばな。まあ、結果は既に分かっているような気もするが……」


 どこか含みを持たせる言い方をしたオノフリオが、白髭の下でにやりと笑う。


「……っ」


 言葉を詰まらせたラニエロの腕をオノフリオが掴み、そのまま半ば引きずるように教室の入り口へと向かう。わずかに踏みとどまろうとする気配もあったけれど、結局は引きずられていく。

 その細腕のどこにそんな力があるのか不思議だったけれど、見た目に反して、オノフリオは意外と力持ちのようだ。

 扉が閉まる音が、やけに大きく響いた。


(……もしかして、答案の入れ替えでもするつもりだったのかな)


 あの様子を見る限り、何かしらの“手”を考えていた可能性はあるけれど、今となっては確かめようもない。


「アリーチェ、お疲れ様」


 教室に残ったセヴィーロが、いつもの調子で声をかけてきた。


「セヴィーロも、立会人お疲れさま。教室に現れたときは驚いたけれど、お陰で色々と助かったわ」

「まぁ、イグナツィオ様に頼まれたからね。それに、僕はただ教室を温めただけで、頑張ったのはアリーチェさ」


 軽く肩をすくめながら、セヴィーロはへらりと笑みを浮かべる。

 今でこそ室内は暖かく、それに伴ってコートも脱いでいるけれど、もしあのまま冷えた状態が続いていたら、指の動きにも影響が出ていただろう。

 それを考えると、セヴィーロには十分助けられたと思う。


 ふと、試験中のラニエロの様子が頭をよぎる。

 寒さ対策で重ね着をしていたラニエロは、教室が温まるにつれて暑くなったのか、額の汗を拭きながら荒く息を吐いていた。


(……自業自得とは、まさにあのことね)


 そんなことを思っていると、四の鐘が澄んだ音を立てて響き渡る。

 試験終了の合図。一般棟の方でも、入学試験が無事終わったところだろう。


「そういえば、セヴィーロは採点についていかなくてもいいの?」

「オノフリオ先生がついているから大丈夫だよ。さすがにあの人を買収するような真似はしないだろうからね」


 軽い口調だったけれど、その言葉には妙な説得力があった。今日の立会人に選ばれるくらいだから、少なくとも簡単に揺らぐような人ではないのだろう。

 それに、下手をすれば、その買収行為自体が妨害の証拠となりかねない。普通なら、そんな危険な真似はしないはずだ。


(……もっとも)


 ふと、汗を拭いながら取り繕っていたラニエロの姿が頭に浮かぶ。


(あの人なら、うっかりやりかねない気もするけれど)


 少しだけ失礼な考えを振り払いながら、私は小さく笑みを浮かべた。


「では、そろそろ控室に向かうわ。キアーラがやきもきしながら待っているでしょうし」

「ああ、よかったら控室まで送ろう」

「ありがとう」


 私はお礼を言いながら、椅子から立ち上がる。


(学科は終わった。あとは実技試験ね……)


 緩んだ気持ちを引き締め直しながら、私はセヴィーロとともに試験会場を後にした。


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