126. 鳥籠の誘い
それからというもの、私は文字通り勉強漬けの毎日を送ることになった。
魔術の講義がない日は、基本的に朝から夕方まで座学の勉強にあてられる。
これまで学んでいた歴史、数学、語学、神学、詩学に加えて、経済、地理、魔術学、自然学といった教科が増えた。
「アリーチェなら問題ありません」とアルフィオは涼しい顔で言っていたけれど、今後学ぶべき内容の一覧を見せられたときは、さすがの私も目眩がしそうになったものだ。
とはいえ、座学は覚えるべきことを積み上げていけばいい。量は多いけれど、私にとっては日々の積み重ねで何とかなる分野だ。
問題があったのは――実技の方だった。
礼儀作法に加えて、刺繍と音楽と美術とダンス。
刺繍は……苦手ながらも、回数を重ねればそれなりに整った模様を刺せるようになっていたから、まあなんとか。
問題は音楽だ。
学院では教養として、一つの楽器を選んで学ぶことになる。弦楽器のコルダーラ、鍵盤楽器のチェンバルム、他にも横笛などがあった。
私はその中でも、一番習得難易度が低いとされるチェンバルムを選ぶことにした。
フィオルテ家でお嬢様が学んでいたことで見慣れていたのと、楽譜を覚えていたこともある。
城の専任音楽家が講師として付き、最初の授業を受け始めた時までは良かった。
基礎は既に知識として身についていたため、早速弾き始める。押せば音が鳴るので、音はすぐに旋律になった。
お嬢様も上手に弾いていたし、私もすぐに弾けるようになると思っていた。実際その通りで、指使いも楽譜の覚えも早く、講師は感嘆の声を上げる。
「素晴らしい飲み込みです。初めてでここまでとは」
けれど、何度か練習を繰り返していくうちに、講師の声にどこか困惑が混じっていることに、私は気づいた。
「その……もう一度、弾いてみましょうか」
鍵盤を叩く。音は正確で、リズムも乱れない。けれど、講師は言葉を探すように視線を泳がせていた。
「……正確です。とても正確なのですが……」
「どこか問題がありましたか?」
戸惑う講師に問いかけると、講師は私の様子を窺うようにぽつりぽつりと言葉を選びながら答える。
「その……少し情緒が……足りないと申しますか」
「情緒?」
その言葉に、私は小首をかしげる。
(情緒ということは、芸術性や表現力といったものだよね? 別にどこもおかしくないと思うのだけど……)
講師が手本として演奏してくれた通りに、強弱や指の動きをそっくりそのまま模倣してみる。
けれど、講師の戸惑いは消えず、私もだんだんとその意味を理解していった。
私の奏でる音は、どこまでも無機質だった。楽譜をなぞっただけの、四面四角の音楽。
上手に鍵盤をなぞれているからこそ、音の色づきのなさがいっそう際立つ。
数度目の練習の際、講師がぽつりと漏らした。
「技術は申し分ありませんので、あとは……感じるままにお弾きになればよろしいと思います。本当に技術の上達は素晴らしく……」
感じるままに弾いた結果がこれなのだから、これ以上どうしろと……。
そして、私はようやく理解した。
――私、芸術性が壊滅的なのでは?
あまり衝撃に、鍵盤の上の指が止まった。
どれだけ頑張っても、どうにもならない分野があるということを、初めて思い知らされる。
思い返せば、刺繍もそうだった。練習の甲斐あって、教科書通りの図案と縫い方は問題ない。けれど、自分で自由に刺そうとした途端、模様が崩れる。
見られないほどの酷さではないのに、何故かまとまりがなくなるのだ。
単に技術不足だと思っていたけれど、どうやら芸術性が決定的に欠けていたらしい。
確かに、今までの生活で芸術性が必要な事柄は一つもなかったから、まさかこんな落とし穴があるなんて……。
その事実に打ちのめされ、私はしばらく鍵盤の前で動けなかった。
「アリーチェ様の指使いは本当に見事です。この短期間でこれほど弾ける方は滅多におりませんので、自信をお持ちください。これだけ弾ければ十分です」
講師が優しく声をかける。それが慰めだと分かるからこそ、余計に泣きたくなった。
別に音楽家になるわけではないし、指使いは問題ないのだから、求められる課題はこなせている……と自分を慰めつつも、なぜか胸の奥には負けたような敗北感だけが残った。
ちなみに、教養には美術もあったけれど、結果は……言わずもがな。初回の授業で己の限界を悟り、早々に封印を決めた。
デッサンまでは、いい。問題はその後だ。
講師に言われるまま絵の具で色を重ねていくと、さっきまでそれなりに見えていた静物画が、みるみる奇妙な配色へと変貌していく。
完成した絵を前に、私は思わず首をかしげる。
(……どうしてこうなった?)
何かの呪いではないかとすら思う私を前に、講師の「デッサンはよい出来でしたよ」というどこか引きつった顔を見て、心が折れた。
その結果、教養の選択科目は刺繍と音楽に決定した。美術よりはまだまし、という消去法である。
必須のダンスに関しては、まったく問題なかった。
もともと運動系は得意だったのもあるけれど、護身術の訓練で日常的に身体を動かしていたことも功を奏したらしい。
「姿勢がとても美しいですね」
そう言われたときは、素直に嬉しかった。
芸術性のなさで落ち込んでいたこともあり、努力と鍛錬で何とかなることにほっと胸をなで下ろす。
(音楽も、今後の努力次第でそうなるといいな……)
こうして、怒涛の日々はあっという間に過ぎていった。
朝から夕方まで勉強漬け。アルフィオやセヴィーロの講義、実技の講義の時以外は、自室でひたすら机にかじりつき、寝る前には、魔法陣を確認しながら一人魔術の練習。
そんな生活が三ヵ月続き、気づけば窓の外は、秋から冬へと静かに移り変わっていた。
冬の初月の終わり。入学試験の申請時期がやってきた。
ひと季節分、毎日みっちりと勉強した私は、イグナツィオ様に出された条件をすべて達成していた。
アルフィオからの報告を聞いたイグナツィオ様に呼び出され、編入試験を希望する旨を伝えた時と同じように、イグナツィオ様の執務室で向かい合う。
「逐次報告は受けていたが、本当にやり遂げるとは。この三ヵ月、よく頑張った」
飾らないイグナツィオ様の言葉に、達成感で胸の奥がじわりと熱くなる。
「編入の件は、数日中に父上に願い出よう」
「ありがとうございます」
算段では期限に間に合うつもりでいたけれど、この言葉をもらえてこの三ヵ月の努力がようやく報われた気がした。
その後、イグナツィオ様が公爵様へ取り次いでくださり、私は正式に編入試験を受けることが決まった。
編入試験を受けることが決まったあとも、以前ほどではないものの、勉強中心の生活は続いていた。
翌月の試験に向けてそんな生活を送っていたある日の午後、キアーラが一通の手紙を運んできた。
「アリーチェ様にお手紙が来ています」
差出人の名を見て、私はぴくりと少し眉を上げる。
ベルナデッタ様――イグナツィオ様の妹君だ。
実を言うと、ベルナデッタ様から誘いを受けるのは、これが初めてではない。むしろ、月に一度は丁寧な文面のお茶会への招待状が届いていた。
けれどそのすべてに同じ返事――勉学が忙しいという理由でお断りの返事を書いてきた。これはベルナデッタ様に限らず、他の差出人も同様だ。
何度も断るのは、社交としてはあまり褒められたことではないけれど、今は何よりも試験が優先だった。
ここ一ヵ月は招待状が届いていなかったから、試験が近いことへの配慮だろうと思っていたのだけれど、まさか直前にお誘いが来るとは……。
ペーパーナイフで封を切り、便箋を広げる。
そこには、流れるような美しい筆跡で、私の勉強の忙しさを気遣う言葉とともに、編入試験が近いのだから、無理はしないようにという言葉が綴られていた。
編入試験とわざわざ書いているところを見ると、私が入学試験ではなく、編入試験を受けるということを知って送ってきたのだろう。
そして、その後はいつものようにお茶会の誘いの言葉が続き、最後の一文に私の目が止まる。
――勉学に根を詰めている頃でしょうけれど、たまには鳥籠から出て、気分転換をなさってはいかがですか。
(……鳥籠、ね)
私は無意識に便箋のその一行を指でなぞる。
もちろん、文字通りの意味もあるだろう。ずっとお茶会の誘いを断っている私に対しての、少しだけ皮肉の混じった冗談。
けれど、貴族の会話では鳥籠にはもう一つ別の意味がある。
鳥籠は“秘密”を指す隠語だ。
つまりこの手紙は、何かの秘密――おそらく私に関する秘密を仄めかしている可能性がある。
静かに便箋を折りたたみながら、私は小さく息を吐いた。
ただの嫌がらせだと一蹴できればよかったのだけれど、そう切り捨てられないのが、貴族言葉の厄介なところだ。
忙しいと分かっているこの時期に、わざわざ手紙を送ってきたこと。そして、経験の浅い私にも分かりやすい、鳥籠という言葉を使ったこと。そのどちらもが引っかかる。
私はそのまま手紙をキアーラに渡すと、手紙の内容を軽く伝え、イグナツィオ様が戻られたら早いうちに手紙について相談したいことを伝えた。
その日の夜、私はイグナツィオ様の執務室を訪ねていた。執務机の上には、今日届いたベルナデッタ様の手紙が置かれている。
手紙に目を通したイグナツィオ様は、ふむと小さく頷いた。
「ベルナデッタらしい書き方だな」
「やはり、何か意図があるのでしょうか?」
私がそう尋ねると、イグナツィオ様は苦笑する。
「少なくとも、ただの冗談ではないだろうな」
やはりそうなのか……と内心で思う。
イグナツィオ様が言い切るところを見ると、意味のない言葉遊びをする人ではないのだろう。
こうして送ってくる以上、秘密があるのは事実。ただし、戸惑っているであろう私たちを想像して、微笑んでいるくらいはありそうだ。
「忙しいのは確かですが、もし何かあるのであれば、無視するのは得策ではない気がします……」
「ふむ」
イグナツィオ様は腕を組み、しばらく考え込んだあと、穏やかな声で言った。
「アリーチェが嫌でなければ、行っておいたほうがいいだろう」
手紙の内容をはっきりさせるにはそれしかないか……と心の中でため息をつく。
「それに、息抜きも必要だ。ここしばらく屋敷に籠りきりだろう」
そう言われてしまうと、確かに反論できない。必要な時以外は本と向き合ってばかりで、ほとんど部屋から出ていないからね……。
「分かりました。では……お受けしたいと思います」
迷ったけれど、私はお茶会に参加することを決めた。
イグナツィオ様に言われたというのもあるけれど、この招待状を無視する方が、後々面倒になる気がしたのが一番の理由だった。
ベルナデッタ様のお茶会。ただの社交で終われば良いけれど、花に風はつきものだからなあ……と、ひとり心の中で呟いた。




