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【第三部】黒瞳少女は帰りたい 〜独りぼっちになった私は、故郷を目指して奮闘します〜  作者: 笛乃 まつみ
第八章 闇の神紋者

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124. 主の帰還

 その後の留守番生活は、騒ぎらしい騒ぎもなく穏やかに続いた。

 ディーヴォの件については、「イグナツィオ様がお戻り次第、きちんとご報告いたします」とキアーラは言っていた。去り際のディーヴォの背中を思い出し、穏便に済むようにと一応口添えもお願いしておいた。

 わざわざ時期を選んで訪ねて来たということは、後ろ暗いことは自覚しているのだろうし、ひとまずは様子を見守りたいと思う。

 下手に刺激して、余計に敵意が深くなるのは避けたいからね。


 

 そして今日、私はセヴィーロから伝言の魔術を教わっていた。


「それじゃ、さっき教えた通りにやってみて」


 窓際に立つセヴィーロに言われ、私は深呼吸をして、指先をそっと持ち上げた。


「文字よ形を得て伝われ――空書レトスクリム


 呪文を唱えると、指先が仄かに光る。温もりとも違う、不思議な感覚。そのままゆっくりと指を宙に滑らせると、光が筋となって残り、文字が描かれていく。

 最後に、文字の周囲を四角く囲んで閉じると、光が中央へと吸い寄せられて凝縮し、黒い蝶の姿に変わった。


 ひらり。


 羽ばたいた蝶は、窓辺のセヴィーロのもとへと飛んでいく。

 蝶は彼の指先にとまると、弾けて光になって宙に文字を描いた。


「うん、ちゃんと問題なく届いたね。多少文字が乱れているけど、繰り返すうちに慣れるだろう」

「本当? ちゃんと読めた?」

「“何の食べ物が好き?”だろう? ちゃんと読めたよ」


 その言葉を聞いた瞬間、胸の奥がぱっと明るくなる。ちゃんと届くか不安だったけれど、本当に文字が届いたようだ。

 今度はセヴィーロが呪文を唱え、宙に文字を書く。短い文を囲んで閉じると、何か小さなものがこちらへ飛んできた。

 蝶ではない、角のある小さな昆虫の姿。私が蝶で送ったから、真似して昆虫で返してきたのだろう。

 赤い昆虫は私の手のひらにちょこんと着地し、弾けて光になる。

 浮かび上がった文字は、たった一語。――『トリニク』

 返事が届いたことを喜ぶ半面、想定していなかった短文に一瞬思考が停止する。


「返答が“トリニク”の一文なんて、流石に横着しすぎでは?」

「分かりやすくていいじゃないか。鶏肉料理なら大体好きだから、あながち間違いじゃないよ」

「具体性がないわね」

(なんだか、はぐらかされたような気もする……)


 この伝言の魔術――空書レトスクリムは、数少ない無属性魔術のひとつらしい。どの属性でも扱える代わりに、神樹と繋がり、魔法陣が身に刻まれた者にしか送れないという制限があり、さらに距離の制限もある。

 とはいえ、こうして手軽に言葉が伝えられるのだから、とても便利な魔術だ。

 形については術者の想像次第で、蝶でも、鳥でも、あるいは無生物でもいいみたい。

 ちなみに、声をそのまま届ける魔術もあるらしいけれど、それは風属性の魔術とのことだった。


(言葉を“風”に乗せるなんて、なんだか詩的だね)


 そんなことを考えていると、不意に水色の鳥が窓から舞い込んできた。


(……あれは、空書?)


 鳥は部屋の隅に控えていたキアーラのもとへ一直線に向かう。

 彼女が鳥に触れると、鳥は弾け、光の文字を浮かび上がらせた。

 キアーラが目を通すと、すぐに私に視線を向ける。


「アリーチェ様。イグナツィオ様がお戻りになられたそうです。城の発着場に着いたとの知らせがありました」

「……もう?」


 王都までは長旅だ。空を駆ける騎獣で向かうと聞いていたけれど、滞在と移動を合わせて四週間の予定だったはず。


「予定よりも早く戻られたのね」

「はい。四日ほど早いご帰還ですね」


 留守中の屋敷の生活に不便はなかった。けれど、やはり主のいない屋敷は空気が軽く、使用人たちも火が消えたように静かだった。

 だからこそ、帰ってきたと聞いて素直に嬉しいし、胸の奥がほっと温かくなる。


「では、出迎えにいきましょうか」


 私はそう言うと、元気よく椅子から立ち上がった。



 一度部屋に戻り、簡単に身支度を整えてからキアーラと共に玄関へ向かう。

 玄関には、ランツァとファビアンに屋敷の使用人たち、そしてセヴィーロの姿もあった。どうやら、セヴィーロも一緒に出迎えるみたい。

 程なくして、門の向こうに侍従を伴ったイグナツィオ様が、屋敷へと戻ってくる姿が見えた。私は一歩前に出て、頭を下げる。


「おかえりなさい、イグナツィオ様」

「……今戻った」


 低く、落ち着いた声。

 ずっと空を駆けてきたのだろうに、その歩みは乱れず、衣服にもほとんど乱れがない。相変わらず涼しい顔に、少しだけ安心する。 

 ふと周囲を見回して、私は首を傾げた。


「そういえば、ルキスたちは一緒ではないのですね」


 同行していたはずのルキスやアルフィオたちの姿が見えない。


「ああ、あの者たちは自宅へ帰した。今日はもう護衛も必要ないからな」


 そう言ってから、イグナツィオ様は玄関前に控えていた二人へ視線を向ける。


「ランツァ、ファビアン。其方らの護衛の任も解く。今日は自宅に戻り、しっかり休息するように」

「分かりました」


 二人は軽く頭を下げ、静かにその場を辞した。


「セヴィーロも来ていたのだな」

「いつもの魔術の講義の日だったんだよ」

「そうか、セヴィーロにも留守中世話をかけたな」

「これくらい、どうってことはないさ。さて、イグナツィオ様にも挨拶したことだし、僕はそろそろ帰るよ」


 そう言って帰路につくセヴィーロを見送ると、私たちは屋敷へ足を踏み入れる。

 静かだった屋敷にようやく灯が戻り、使用人たちの顔も心なしか明るくなった気がした。


「留守中、問題はなかったか?」

「そうですね、特に問題はなかったですよ」


 隣を歩くイグナツィオ様に問われ、私はそう返事した。

 ディーヴォの件はキアーラから報告がいくだろうけれど、言うなれば、あれは些細な出来事だ。

 それよりも、王都での出来事のほうが気になった。


「イグナツィオ様の方は、大丈夫でしたか? 王家からの招待を断った件は、問題なかったですか?」


 王家からの招待を断るなんて、普通なら波紋が広がりそうなものだ。イグナツィオ様が問題ないと言っていたけれど、内実はそうでない場合もあるため、少しだけ心配していた。


「ああ、問題はなかったが――」


 そこで一度言葉を切ると、イグナツィオ様はわずかな間を置いて続けた。


「後日、王家からの使いがカーザエルラを訪問することになった。もちろん、アリーチェに会いにだ。会合の場を用意するので、問題ないか?」

「わざわざ王都から会いに来てくださるとなれば、流石に会います」


 一瞬、足が止まりそうになりながら、私はそう答える。平静を装ったものの、内心ではため息をついていた。

 王都から来た相手を門前払いしては、イグナツィオ様の顔を潰してしまう。さすがの私も、これを断る気はなかった。

 とはいえ、王家の使いとなれば、それなりの高い地位にある人間ということだ。言葉ひとつにも気を配らないといけないと思うと、余計に気が重かった。


「分かった、ではそのように進めよう」


 隣を歩くイグナツィオ様の横顔を、私はそっと見上げる。いつも通りの、揺るぎない横顔。

 その落ち着きに少しだけ勇気をもらいながら、会合は簡単に済みますように――そんなささやかな願いを胸の奥に抱いた。



 翌日、その日は久しぶりのアルフィオの講義があった。

 イグナツィオ様たちが王都へ行っている間も課題は出されており、その進捗確認を兼ねたテストを私は受けていた。

 最後の一問を書き終えて、羽根ペンを置く。答案をアルフィオに渡すと、静まり返った室内に紙をめくる音とペンの走る音だけが響いた。

 少しして、答案から顔を上げたアルフィオが、ふっと目を細める。


「留守の間、かなり勉強されていたのですね。全問正解です」

「本当?」


 思わず身を乗り出して答案を確認する。全問正解のつもりではあったけれど、こうしてはっきり言葉で聞くと、やっぱり嬉しい。自然と頬もゆるむ。


「ええ。解答も的確です。基礎は完全に身につきましたね」

「やった……!」


 思わず小さく拳を握る。そんな私の様子を見ながら、アルフィオは穏やかに頷いた。


「これで、学院の入学試験の範囲は全て終わりました。最初は試験までに勉強が間に合うか心配していましたが、まったくの杞憂でしたね」

「最初の時は、アルフィオはビシバシと厳しく指導すると言わんばかりだったけど、結局そこまで厳しくはなかったわよね」


 私がからかうように言うと、アルフィオはわずかに肩をすくめる。


「それは、厳しく指導する必要がないほどアリーチェが優秀だったからですよ。今の成績なら、首席合格も夢ではないでしょう」

「それは買いかぶりすぎよ」


 アルフィオの言葉を私は笑い飛ばす。

 首席合格――以前であれば、それを目指すのもいいかなと思っただろうけれど、今の私は違う。

 私はゆっくりと笑みを引き締めてアルフィオを見つめる。


「それで、当初予定していた範囲が終わったということで、ひとつアルフィオに相談があるのだけれど、話を聞いてもらえるかしら?」


 何か私に考えがあることを察したのか、アルフィオが軽く姿勢を正す。


「私でよければ、なんなりと」

「ありがとう。……実は――」


  ◇◇◇


「アルフィオから話は聞いた。学院の、第二学年への編入を希望するそうだな」


 その日の夜。

 私は屋敷の執務室に呼ばれ、イグナツィオ様と向かい合って座っていた。

 昼間、アルフィオに提案した時とは違い、手のひらにじんわりと汗がにじむ。


「はい、そうです。当初は普通に入学することを考えていましたが、今から急いで勉強すれば、二年生への編入試験を受けられるのではないかと考えています」


 故郷へ早く帰りたい気持ち。そして、もっと多くを学びたい気持ち。

 どちらも諦めたくない――その思いから、私が選んだ選択はそれだった。


 学院には魔術科、騎士科、経済科、家令科といった科がある。単位制で、授業の選択次第では三年、四年と在学年数も変わるけれど、騎士科を除けば最短在学期間は二年間だ。

 もし二年次へ編入できれば、それを一年に短縮できる。

 私にとってその一年は、大きな意味を持つ。


「なるほど。二、三年かかる在学期間を一年に縮めるつもりなのだな。だが、留学で他州の学生が編入することはあっても、最初から二年生への編入は前例がないな」


 イグナツィオ様の静かな声が部屋に響く。


「駄目、でしょうか……?」


 突きつけられた現実に、反射的に問い返す。駄目なのだろうか、とほんの少しだけ不安が胸をよぎる。


「前例はないが、アリーチェが望むなら父に進言してみよう。州立学院は当家が運営に関わっているから、おそらく叶うはずだ」

「ありがとうございます!」


 思わず椅子から立ち上がりそうになるのをなんとか堪え、机の下でぐっと手を握りしめる。


「ただし、条件がある」


 不意の言葉に、私は顔を上げてイグナツィオ様を見つめた。


「それはなんでしょうか?」

「入学申込までに一年生の学習内容を全て学び終える算段をつけること。それができれば、編入試験の実施を願い出よう。間に合わなければ、通常の入学試験を受けるように」

「分かりました。それであれば問題ありません」


 私は迷わず即答する。実力をつけたうえで受験するのは、当然のことだ。


「アルフィオの見立てでは、今までの学習速度から考えて、ぎりぎり間に合うのではないかと言っていたが、本当に間に合うのか? 今から学ぶとなれば、季節ひとつ分しかないが……」

「大丈夫です! 私、勉強は得意なので」


 にっこりと言い切ると、イグナツィオ様は一瞬、目を見開いた。


「……確かに、今から一年分の学習をするのだから、それくらいの自信がなければそもそも無理な話だな」


 イグナツィオ様の心配そうな眼差しが消え、ふっと口元がわずかに緩む。


「根を詰めすぎないように頑張りなさい」

「はい、頑張ります」


 身体の前で強く握りこぶしを作ると、私は明るく返事をした。

 少しばかり大変になるだろうけれど、やると決めた以上、努力は惜しまないし、おそらくそこまで分の悪い賭けでもないはず。

 季節ひとつが過ぎる前に必ずやり遂げてみせると、私はそう心に強く誓った。


今話のアップに伴い、エピソード122の呪文にもカタカナ表記を追加しました。

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