123. 留守番と、もう一つの望み
「来週からしばらく屋敷を空けることになる」
セヴィーロから神紋者の真実を聞かされてから三日後の朝、磨き上げられた長卓を囲む静かな朝食の時間を破ったのは、イグナツィオ様のそんな一言だった。
私は手にしていたフォークをそっと下ろすと、イグナツィオ様に視線を向ける。
「遠征にでも行かれるのですか?」
「いや、向かうのは王都だ」
「王都……ですか?」
予想していなかった単語に、私は思わずオウムのように問い返す。
イグナツィオ様の話によると、来月には王都で建国祭が開催されるらしい。州都の社交の最盛期は春だったけれど、どうやら王都の最盛期は秋だという。
イグナツィオ様はその催しに出席するため、しばらくカーザエルラを離れるとのことだった。
(イグナツィオ様が王都へ行くなら、当然ルキスたちも同行することになるよね)
私の胸の奥に、小さな安堵が生まれた。
セヴィーロに学院入学の必要性について問われてから、私はずっと迷っていた。
故郷へ帰ることを第一に考えるなら、彼の提案は理にかなっている。けれど、その決断を言葉にする勇気が出ないまま、時間だけが過ぎていた。
表情には出していないつもりでも、考えが定まらないまま感情を読めるルキスと顔を合わせるのは、正直なところ気まずかったのだ。
だから、少しだけほっとしていた。
ちょうどいい機会だから、ルキスが留守の間に、これからの方針をはっきりとさせよう。
そんなことを考えていると、イグナツィオ様がじっとこちらを見つめた。
「アリーチェには、王家から招待状が届いている。一緒に王都へ行くか?」
食事を再開していた私の手がピクリと揺れ、フォークの先が皿を小さく鳴らす。私はそっとフォークを置くと、ゆっくりと時間をかけてナフキンで口元を拭いたあと、イグナツィオ様に問い返した。
「それは……私の意思で断ってもいいものですか?」
「ああ、アリーチェが王都へ行くことを望まないなら、断ってもかまわない」
「では、せっかくのお誘いですが、お断りさせていただきます」
心中で安堵しながら、私はきっぱりと辞退の意を口にした。
面倒ごとの匂いしかしない場所にわざわざ乗り込むほど、今の私に余裕はない。
私が断ることを予想していたのか、イグナツィオ様は特に驚く様子もなく、静かに頷いた。
「後で招待状を渡すから、私が王都へ立つまでに断りの返事を書いておいてくれ。書き方はキアーラに聞けば教えてくれる」
「分かりました」
王家からの招待。断るにしても、直筆の返書が必要になるということだろう。
(手紙一通で、王家の誘いを辞退する。神紋者の立場には、いまだ慣れないね……)
この感覚に慣れすぎるのも怖いなと思いながら、デザートに出された瑞々しい果実にフォークを刺した。
翌週、秋の初月の第一週。暦の上では秋とはいえ、残暑はまだしぶとく残っている。朝の空気にもわずかな熱が混じっている中、私は屋敷の玄関前に立ち、王都へ発つイグナツィオ様たちを見送っていた。
周囲にはイグナツィオ様に同行する部下たちや、持っていく荷物を運ぶ使用人の姿があった。ルキスやアルフィオなど、普段屋敷内で顔を合わせる者の大半が、今日からしばらく不在になる。
「では、いってくる」
「お気をつけて」
短いやり取りのあと、イグナツィオ様たちは荷物を運ぶ使用人とともにゆっくりと門をくぐっていった。
主不在の屋敷に、思った以上に深い静けさが戻る。
イグナツィオ様が留守の間、私は屋敷で過ごすことになるけれど、まったくの一人というわけではない。
私の侍女のカミーラや侍女頭のパメラ、執事のウルバーノは残っているし、私の護衛として騎士のランツァとファビアンも残っていた。
イグナツィオ様の不在中、騎士二人は屋敷に常駐するらしい。
私が「外出しないのだから、護衛は一人で十分では?」と提案したけれど、交代することを考えると護衛は最低二人は必要なのだと説明された。
他の公爵家の面々も同様に王都へ向かうというのに、この警戒ぶりだ。政務卿のメルクリオ伯爵が州都に残る話を聞けば、なるほどと思わなくもない。
公爵閣下は州都に残るのかと思っていたけれど、悪い体調を押して閣下も王都での式典に参加するらしい。
神紋者である私がひとりここに残る以上、用心に越したことはないのだろう。
こうして、私の留守番生活が始まった。
籠もるといっても、屋敷は十分な広さがある上、離宮内の園庭には出てよいと許可ももらっているから、窮屈さはほとんど感じない。
もともと屋敷の外へ出ることは少ないこともあって、イグナツィオ様たちの姿がない以外は、ほとんど普段通りと言っても差し支えなかった。
午前中はアルフィオから出された宿題をこなし、時折セヴィーロが訪れては魔術の講義をしてくれる。
そして、留守の間に新しく始めたのが――護身術の訓練だった。
魔術師といえど、研究室に籠もって研究ばかりしているわけではない。魔獣の討伐に同行することもあるし、学院の授業にも戦闘訓練は含まれているという。
「いざというとき、動けない魔術師は足手まといになる」というランツァの言葉を受けて、訓練を受けることにしたのだ。
魔術以外にも、身を守るすべは多い方に越したことはないものね。
今日も午後から、軽い走り込みを終えたあと、園庭の一角で短杖の指導を受ける。今日の護衛兼講師はファビアンだ。
メイドとして働いていた頃の名残で、体力にはそれなりに自信がある。森で獣に遭遇したときの対処法も、故郷で教えられたけれど、短杖を手にするのは初めてだった。
短杖は初心者にも扱いやすいし、腕力が強くない私に向いているということで、ランツァが選んでくれた武器だった。
突きや払いの型を、ファビアンの指導のもと何度も繰り返す。
木製の短杖は軽いけれど、繰り返していると、慣れないせいか腕がじわじわと重くなっていく。
私の足運びに合わせて、地面がジャリと音を立てた。
「払いが遅い」
「はいっ」
振り抜きが甘くなってくると、ファビアンから鋭い指摘が飛ぶ。頭では理解できても、慣れていないと身体が思うように動かない。
ある程度続けたところで、ファビアンが手を上げた。
「休憩にしようか」
私は息を整えながら椅子に腰を下ろし、キアーラが淹れてくれた果実水を受け取る。一口含むと、冷たい液体が火照った身体に染み渡る。
少し休憩し、そろそろ再開しようかと立ち上がりかけたその時、「あれは……」とファビアンの呟きが耳に届いた。
声につられて顔を上げると、園庭の入り口の方から一人の少年がこちらへ歩いてきているのが見えた。
見覚えはないけれど、ファビアンやキアーラに警戒の色がないところを見るに、知り合いなのだろうか。
「ディーヴォ。お前がここに顔を出すなんて珍しいな」
ファビアンが一歩前に出て声をかける。
ディーヴォと呼ばれた少年は、数歩離れたところで足を止めると、ちらりと私に視線を向けた。
「闇の神紋者を見に来たんだ」
どうやら、目的は私らしい。
その割に、向けられた眼差しには好奇よりもむしろ警戒のような棘を含んでいた。
「俺の名前はディーヴォ。ルキスの屋敷に世話になっている」
「はじめまして、私はアリーチェ・グロッソよ」
ルキスの知り合いかと理解したところで、横からファビアンが補足した。
「ルキスが後見人をしていて、ディーヴォは今、学院の魔術科に通っている」
「そうだったのね」
そういえば、ずっと前にルキスから平民の子供の後ろ盾をしていると軽く話していたことがあった。きっと彼がその子供なのだろう。
「通っていると言っても、次の春には卒業して、ルキスと一緒にイグナツィオ様に仕える予定だ」
私と同じくらいの年頃かと思ったけれど、次の春に卒業ということは、私より少し年上らしい。
先ほどもそうだったけれど、ルキスの名をことさらに強調する人だな……。
「あんたの話はルキスから聞いている。ルキスと文通したりデートしてたりしていた奴だろ」
「え?」
突然の物言いに、私は小首をかしげる。
(文通をしていたのは確かだけど……デート?)
もしかして、ケーキを食べに行った時のこと?
使用人仲間からは確かにデートだと誤解されていたけれど、内実は尋問やただのお詫びで、デートなんて色気のあるものではなかったのだけど……。
「もっと大人びているのかと思ってたけど、想像してたよりも子供だな」
「――!」
(それをあなたが言うのか……!)
年頃の男の子の繊細さを思って声には出さなかったけれど、心の中で盛大に突っ込む。
確かに私は同年代と比べて背が低い。でも、それはディーヴォも大差ない。今年卒業だという彼は私より少し高いものの、キアーラよりは低いし、騎士のファビアンと並べば、その差は歴然としている。
「おい、ディーヴォ。失礼だぞ。それに言葉遣いも、もう少しちゃんとしろよな」
「ちゃんとするべき時はしている」
ファビアンが低く嗜めると、ディーヴォが即座に言い返した。
(つまり、今は“ちゃんとするべき時”ではないと判断して、この態度ということね)
内心ため息をつきながらディーヴォを観察すると、彼の瞳には強い感情が宿っていた。
さっきは警戒しているのかと思ったけれど、どうやら違う。これは――嫉妬による敵愾心、というやつだろう。そして、その根底にあるのは、おそらくルキス。
反応を伺うように、ファビアンが私を見る。ディーヴォの態度を、私がどう受け取るのかを確かめているのだろう。
この程度で目くじらを立てるつもりはないから、私はその視線を静かに受け流す。
一方キアーラは、そんなことは関係ないと言わんばかりに、冷たい眼差しをディーヴォに向けていた。
「まだ子供なのは事実だから、そこは否定しないけれど……そもそも、話があったからルキスと出かけただけで、デートではないわ」
「ふーん」
明らかに信じていない声音。あからさまな相槌に、ファビアンが慌てて取りなす。
「アリーチェ、すまない。注意はしているんだけど、ディーヴォはルキスに懐いていて……ルキスとイグナツィオ様以外の相手には、いつもこんな感じなんだ」
「ファビアンが謝る必要はないわよ」
私は首を横に振った。
平民がこういう態度をしていて許されるということは、半ば部下として扱われているのか、何か事情があるのだろう。
そして、こういう思い込みの強い人間は、まともに相手にするだけ無駄だ。何を言っても聞く耳を持たないだろうし、下手に反論すれば火に油を注ぐだけ。
こういう態度は、逆にルキスの名を汚すだけだと早いうちに気づいてくれればいいのだけれど。
それにしても、“懐いている”というより――傾倒しているほうが正しい気がする。
先日、セヴィーロが言っていた「神紋者は強い感情を向けられやすい」というのは、きっとこれがそうなのだろう。
赤銅色の髪に、赤茶色の瞳――色味から判断すれば、おそらく火属性。直情的な性格も相まって、感情がそのまま表に出ているように見える。
そんなふうに冷静に分析していると、ディーヴォが一歩こちらに踏み出した。
キアーラがピクリと反応し、庭園の空気がピリッと張り詰る。
「あんた、故郷に帰るために働いて金を貯めてたんだろ。金が貯まったのに、なんでさっさと故郷に帰らねえの?」
予想外の問いに、息が詰まる。
内容こそ違うけれど――先日、セヴィーロから向けられた帰郷の話と重なって胸に刺さった。
私が答えられずにいると、すぐさまファビアンが口を挟んだ。
「ディーヴォ、流石に失礼が過ぎるぞ」
「だって、神紋者になった途端、帰郷を取りやめるなんておかしいだろ。別の目的があるに決まってる」
二人のやり取りを聞きながら、私はディーヴォの言葉のどこかに引っかかりを覚えた。
「あんた、ルキスに惚れてるんだろ。立場が同じになったから、急に帰るのやめたんだろ」
(――は?)
あまりに突拍子もない話に、思考が一瞬白くなる。
「……は、はい?」
かろうじて聞き返したけれど、間抜けな声が裏返る。
「その反応、やっぱり図星か」
ディーヴォの睨むような視線が突き刺さる。
ファビアンとキアーラは、揃って「えっ」と言いたげな顔で私を見た。
「い、いえいえ、誤解よ。確かにルキスは親切な人だと思うけど、恋愛対象として見たことはないわ」
私は慌てて否定する。年も離れているし、そもそも私はこれまで誰かを恋愛対象として見たこと自体がない。今のところ、恋愛とは無縁の身の上だ。
「はぁ? 絶対ウソだろ。じゃあ、なんでわざわざここに留まってるんだよ」
「アリーチェ様は、身の回りの危険からご自身を守るために魔術を学んでおられます」
ついに我慢ならなかったのか、キアーラが割って入る。
「別に、自分が強くならなくても、神紋者なんだから誰かに警護を頼めばいいだろ」
「神紋者であっても、物事はそんな簡単には運びません」
「だとしても、本当に帰りたいなら、いくらでも手はあるだろ。他に帰れない理由があるならともかく、ただ帰りたくないだけだろ」
「……それ以上の失礼は見過ごせません」
言い合う二人を、私はどこか遠くから眺めるような気持ちで見ていた。
(……別の目的)
ディーヴォのその言葉が、ずっと喉にひっかかって離れない。
私は故郷に帰ることを目的にしてきた。川に流された時からの目標だ。
けれどこの前、セヴィーロにもっと早く帰る方法を提案されたとき、すぐに頷けなかった。
今は、力を持たないただの平民ではない。望めば行動できる立場なのに、すんなりと選べない自分が不思議だった。
でも、今ようやくわかった。
故郷に帰る以外に、私はもう一つ別の望みを持っている。
この屋敷での生活は、戸惑いもあったけれど、それ以上に充実していた。講師がつき、本を読むだけでは得られない知識を吸収する日々。新しい世界が、次々に広がっていく。
故郷も、神紋者も、全部取っ払って残る素直な気持ちを言えば、本当に、楽しかったのだ。
時間を気にせず、明かりも気にせず読書に没頭できる環境。自由に質問できて、丁寧に返答してくれるアルフィオの講義。そのすべてが、かけがえのないものだった。
(……恥ずかしいな)
帰るのが一番だと言いながら、帰りたい気持ちと、ここにいたい気持ちが同時に存在していた。
もっと知りたい。もっと学びたい。知識欲が強いのは自覚していたけれど、その欲がこんなにも大きく膨らんでいたなんて。
ディーヴォの指摘は見当違いだったけれど、ああして言われるまで自分の本音に気づけなかったことが、少し情けない。
(でも……その欲を自覚した私は、このままここにいていいのだろうか)
幼い頃から、何よりも強く持っていた家族への執着。それは知識欲よりも優先させるほどで、神官の後ろ盾で上級学級に行くのを断念するほど強かった。
今、はっきりと自覚した上で知識欲を優先させるのは、故郷の家族を後回しにしているような、後ろめたさを私に抱かせる。
(いや。そう思うのは私の問題なんだよね……)
家族は、私が生きていることすら知らない。帰りたいのは、あくまで私自身の願いだ。
それに、もし知っていたとしても、家族は私を責めるようなことはしないだろう。
それなら、自分の密かな望みを自覚した上で、どうするかを考えればいい――。
「本当ね……言われて気がついたわ。私、別の理由があったみたい」
「今さら開き直るのか!」
私のぽつりとした呟きに、ディーヴォが激しく反応する。
誤解させる言い方だったことに気づいて、私は慌てて訂正する。
「あっ、いや、惚れてるとかじゃなくて――」
「ルキスを選ばなかったんだから、今さらルキスにすり寄るなよ! あんたの後見人はイグナツィオ様なんだから、ルキスじゃなくてイグナツィオ様を頼れよ!」
拳を強く握りながら言い捨てると、ディーヴォは踵を返し、小走りに去っていった。
「なんて態度でしょう」
ディーヴォのあんまりな態度に憤慨するキアーラを余所に、私は呆然とその背中を見送る。
(あれは……自分の居場所を取られることを不安に思っている子供の反応だ)
嵐のように来て、私の心に気付きと不安を残して去っていくディーヴォは、そのまま一度も振り返ることはなかった。




