120. 初めての魔術
「ひとまず、魔術を使うのに魔法陣が必要だということは理解したけれど、杖は何のために使うの?」
ここで生活するようになってからというもの、魔術を使う際に杖を使っている場面を何度も見かけている。あれは何のためかと、ふと思って質問すると、セヴィーロは楽しげに口元を緩めた。
「いいところに目をつけたね。魔術師が持つ杖は、神樹から落ちた枝を使って作られた魔術具だ。学院では、卒業資格として神樹の枝を手に入れて、それを加工し、自分の杖を完成させる。つまり、杖を持つこと自体が、魔術科を修めた証でもあるわけだ」
「あの杖は、神樹の枝なのね……」
そんな大層なものだったとは、正直予想外だった。
神樹と繋がることで魔法陣を得るのだから、神樹の枝が魔術の補助として使えるのは確かに理にかなっている。
そう考えていると、ふいに、セヴィーロが何気ない仕草で指にはめていた指輪に手を滑らせた。すると次の瞬間、彼の手の中に一本の杖が現れた。
「この杖は、魔術を発動する際に高い補助力を発揮する。魔術具を作るときにも使うから、魔術師にとっては必須の道具だよ。僕の杖は普段は指輪の形をしているけれど、どんな形にするかは人それぞれでね。ルキスは腕輪にしている」
その言葉に応えるように、ルキスが自分の腕にはめていた細身の腕輪を、私にも見えるように示した。次の瞬間、その手に現れたのは、すらりとした一本の杖だった。
セヴィーロの杖は黒みを帯びた落ち着いた色合いで、対するルキスの杖は金色がかった輝きを放っている。同じ魔術具でも、持ち主によってこんなにも印象が違うのかと、思わず見比べた。
ルキスの魔術具が腕輪なのは、もしかして指輪だと剣を握るときに邪魔になるからだろうか。ふと、そんな考えが頭に浮かんだ。
「その杖が、水の神樹の枝を材料に作られたものなのね」
「いや、僕のは闇の神樹の枝になる」
「私のは光の神樹の枝だね」
確認するように問いかけると、セヴィーロとルキスがほとんど同時に答えた。
当然のように、水の神樹の枝で作られたものだと思っていたけれど、どうやらそうではないらしい。
「もしかして、属性に応じた神樹の枝を使う決まりなのかしら?」
「いや、一部例外はあるけれど、基本的には、入学した学院の土地にある神樹の枝を使うものだよ。それに、念のため言っておくと、僕の属性は火だ」
(火……?)
黒髪と赤い瞳の外見から、火と闇のどちらかだと思っていたけれど、どうやらセヴィーロは火属性だったらしい。何となく、私と同じ闇属性のような気がしていたのだけれど、どうやら私の勘違いだったみたい。
それにしても、入学した学院の土地にある神樹の枝を使うという話を聞いて、引っかかりを覚えた。
「ということは、二人とも中央の学院に入学していた、ということ? ルキスはカーザエルラの出身だと思っていたのだけれど、違ったの?」
そう口にしながら、私は首を傾げた。
以前、ガスパロと学友だったと聞いていたから、当然、水の州立学院の出身なのだと疑いもしなかった。
私の疑問に答えてくれたのは、ルキスだった。
「正式な王立学院の出身は、セヴィーロだけだよ。私は、留学という形で王立学院に通っていた時期があるんだ」
「留学……?」
耳慣れない言葉に、私は思わず聞き返した。
ルキスの説明によると、ルキスはもともと水の州立学院に入学していて、イグナツィオ様と共に、二年ほど中央へ留学していたらしい。
州に属する貴族であっても、州内で特に地位の高い家の子供は、将来、国の行く末を担う者同士として交流を深める必要があるため、数年間は中央に留学するのが慣例になっているのだという。
ルキス達とセヴィーロに付き合いがあったのは、その留学時代のことだった。
セヴィーロは今でこそ水の州立学院の特別講師だけれど、どういう経緯で中央から水の州へ移ってきたのだろう……?
そんな疑問が、ふと頭をよぎった。
「交流を深めるために上位貴族が留学するのは、よくあることだよ。極たまにだけれど、自分の属性と同じ神樹の枝を得るために別の州へ留学するという者もいる。ここ、水の州立学院にも、水の神樹の枝を得るために、別の州から留学してきている者がいるはずだ」
「なるほど……。ルキスの光の神樹の枝は、王立学院に留学していたときに手に入れたものだったのね」
「ああ、そういうことだ」
ルキスはあっさりと頷いたあと、何気ない調子で続ける。
「もしアリーチェが望むなら、私と同じように途中で留学して、闇の神樹の枝を手に入れることもできるぞ」
「え……?」
思いがけない提案に、私は目を瞬かせた。
「わざわざ聞くということは、同属性の神樹の枝と、そうでない神樹の枝だと……効果が大きく違ったりするの?」
確認するように尋ねると、今度はセヴィーロが答えた。
「神樹から得られる魔法陣の補助力そのものは、どの神樹でも基本的に同じで大きな差はない。ただ、同属性の枝のほうが魔力の馴染みがいいのか、魔術の発動速度や威力にわずかな差が生まれる。実力が拮抗している者同士の戦いだと、そのわずかな差が勝敗を分けることもあるというわけだ」
そこで一拍置いて、彼は肩をすくめた。
「もっとも、留学には時間もかかるし、何より費用がかさむ。余ほど“強さ”を求める家門でなければ、属性に合った神樹の枝を目当てに留学することは少ないね」
「なるほど……」
他州への留学ともなれば、軽く想像するだけでも衣食住やら何やらの手配が必要になるのは確かだ。貴族といえども簡単なことではないのだろう。
(いずれにせよ……今の私には不要なものだ)
私はそう考えながら、小さく首を振った。
「話は分かったけれど、私は水の神樹の枝で十分よ。そこまでの強さを求めているわけではないもの……」
自分の身と、自分の大切な人たちを守れるようになれば、それで十分だ。
それに、時間も費用もかけてまで、僅かな差を求めて留学する選択は――今の私には、現実的ではなかった。
「まぁ、留学についてはこの先もゆっくり考える機会はあるさ。では、そろそろ実際に魔術を試してみよう」
少しの沈黙の後、セヴィーロがそう切り出して、机の上の魔法陣を私の方に差し出した。
簡単な説明があった後、私は机の上に置かれた魔法陣へ手を乗せ、意識を向けてゆっくりと魔力を流し込む。
ほんの僅か、指先がひんやりと冷たくなった気がした。
その感覚を追い越すように、魔法陣の真上に、ふわりと小さな光の玉が浮かび上がる。
「うん、ちゃんと発動できたね」
小さな光の玉を確認しながら、セヴィーロは満足そうに頷く。
「これは……光属性の魔術、よね? 闇属性の私でも、発動できるの?」
「ああ。魔法陣はね、自身の属性に関係なく発動できるものなんだ」
セヴィーロによると、魔法陣は作る段階でその属性の魔力を込めて作られる。というか、魔力を帯びていなければ、正確には魔法陣とは言えないらしい。
魔法陣は、いわば鍵が刺さった扉のようなものだ。魔力を流せば扉は開く。
魔法陣の属性と、流す魔力の属性が異なっていても扉は開くけれど、少しだけ扉が重い――そんな感覚らしい。
「自身の属性――僕の場合は火属性の魔法陣であれば、自分の魔力を使って魔法陣を描くことができる。別属性の魔法陣の場合は、魔力を帯びた素材を使って描く。この魔法陣は、僕が光属性の素材を使って描いたものだ」
そう言いながら、セヴィーロは机の上の魔法陣をとんとんと指先で叩いた。
「そして、呪文で魔術を発動させる場合は、自身の属性の魔術しか発動できない」
「仮に、他の属性の魔術を使おうとした場合は?」
「他属性の魔術を発動させようとするのは、鍵のかかった扉を力ずくでこじ開けようとするようなものだ。どうなるかは、推して知るべし、だろう」
そう言いながら、セヴィーロは先ほど使用した魔法陣を片付け、新しい紙を一枚机の上に置いた。
「今度は、実際に魔術を使ってみよう。これは初級の闇魔術で、失敗しても危険はないから、安心して」
魔法陣に視線を落とすと、先ほどとは異なる模様の魔法陣の横に、短い文が書かれていた。おそらく、この文が呪文の言葉なのだろう。
「その紙の紋様を意識して、そこに書かれた呪文をゆっくり唱えて」
私は魔法陣に向けて両手をかざすと、深く息を吸い込んで言葉を紡ぐ。
「影よ、形を成せ。――影人形」
(……あれ?)
胸の奥が、ひやりとする。
机の上には何の変化もなく、自分自身にも特に変化はなかった。失敗かとそう思った瞬間、背後に微かな気配を感じた。
後ろを振り返った先――そこには、小さな子どもほどの大きさをした、真っ黒な影が立っていた。
「……これが、影人形……?」
思わず息を呑む。
セヴィーロが立ち上がり、私の生み出した影人形の周囲をぐるりとまわって観察する。
「うん、成功だね。霧散せずにちゃんと人の形を成しているし、気配もある。まさか一回で成功させるとは思わなかった。さすがは神紋者、と言うべきかな」
ゆらゆらと揺れる影の輪郭。不思議な光景を私はぼうっと見つめる。
「おめでとう、アリーチェ。初めての魔術だね」
ルキスにそう声をかけられて、はたと気づく。
言われてみれば、自分の意思で魔術を発動させたのは、これが初めてだ。
あまりにも自然にできてしまったから、実感が追いついていなかった。
目の前の影が、自分の魔力によって生み出されたものなのだと思うと、胸の奥に小さな熱が灯り、じわじわと嬉しさが湧き上がってくる。
(まず一歩……)
これは、今後私が力を付け、自分の望む道を選ぶための、大切な一歩。
その確かな手応えを噛みしめながら、私はルキスに向かって明るく笑顔を返した。




