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【第三部】黒瞳少女は帰りたい 〜独りぼっちになった私は、故郷を目指して奮闘します〜  作者: 笛乃 まつみ
第八章 闇の神紋者

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117. 静かな熱

 ふと目を覚ますと、竈の中で静かに薪が燃えていた。

 部屋の中はぽかぽかと温かく、身じろぎすると布を張った木の長椅子に横になっていた身体が、ぎしぎし軋むように鈍く痛んだ。

 重たい身体をかばうようにゆっくりと頭を起こして周囲を見回すと、竈の明かりを頼りに母が針仕事をしている。その隣では、姉のルフィナが同じように布に針を落としていた。

 少し離れたところでは、父と兄のサントが、葡萄の蔓を使って籠を編む。弟のフィンは蔓の表皮を軽く削いて、父たちの籠作りの手伝いをしていた。

 ぱちぱちと薪が爆ぜる音、それぞれの作業の小さな物音と気配、言葉を交わさなくても通じるような穏やかな沈黙が部屋に満ちていた。


(ああ……これは、夢だ)


 私は頭ではっきりとそう理解した。

 家族が揃っていた頃の、冬の光景。外は凍えるほど寒いため、皆が同じ場所に集まり竈の火で暖を取る。そんな日々も今ではもう、遠くなってしまった懐かしい光景だ。

 姉は駆け落ちして家を出て、私も奉公に行くために家を出た。こうして家族団らんに集まることは、もう二度とない。

 私は長椅子に横になったまま、眩しい光を見つめるように、温かな記憶に身を委ねた。



「……リーチェさ…………アリーチェ様……」


 遠くから呼ばれる声に、意識が引き戻される。重たい瞼を開けると、滲むような視界いっぱいにキアーラの顔があった。

 私と目が合った瞬間、彼女の表情がふっと緩む。


「申し訳ありません。お目覚めの時間になっても反応がなかったので、返事を待たずに部屋に入らせていただきました」

「ああ……ごめんなさい。少し寝坊したみたい……」


 声を出そうとして、喉がかすれていることに気づく。

 いつもよりも身体が重く、起き上がろうとしたその瞬間、慌てたようにキアーラが私を制止した。


「無理に起き上がらないでください。今、アリーチェ様はどうやら熱があるご様子です」

「え……熱……?」


 そう言われて、私は額に手を当てる。指先にははっきりとした熱の感触があり、頬もじんわりと熱い。


(……本当に、熱が出たみたい)


 夢の温もりが、現実の熱にすり替わっていたことにようやく気付いた。

 身体が熱いだけでなく、ぞくぞくと背筋が冷えるような感覚もある。だから、冬の温もりの夢を見ていたのだろうか……?


「医師の手配をしてまいります。食欲は、いかがですか?」


 そう尋ねられて、私は改めてお腹に意識を向ける。

 空腹感はないけれど、喉の内側がひりつくように乾いている感覚があった。


「……食欲は、あまりないけれど、喉は渇いているわ」

「分かりました」


 短くそう答えると、キアーラはすぐに踵を返し、静かに扉が閉まる音がした。

 部屋の中は私ひとりとなり、ゆっくりと目を閉じる。

 熱のせいか、頭の奥がぼんやりとして思考がうまくまとまらない。それでも浮かんでは消える考えを、ひとつずつ拾い上げていく。


(……熱を出すなんて、いつぶりだろう)


 記憶を辿ってみても、思い当たるのは幼い頃に数度きりだ。

 小さい頃から、丈夫な子だと言われてきた。多少の無理をしても、寝込むことはなかったし、熱を出すこともほとんどない。

 崖から落ちて川に流された時も、魔狼に襲われた時でさえ、体調は変わらず平時のままだった。

 この屋敷に来た時も無理が重なっていたはずなのに、熱を出すことはなかった。


(それなのに、そんな私が今になって熱を出すなんて……)


 何か外的要因があったのか、それとも――。

 思考がそこでふっと途切れ、熱に浮かされた意識が、再び深く沈んでいった。


 浅い眠りと覚醒を行き来しているうちに、微かな物音で意識が浮かび上がる。


「アリーチェ様……」


 控えめに名前を呼ばれて、薄く目を開ける。キアーラが盆を手に、そっとベッドの脇に立っていた。


「果実水をお持ちしました。それと、少しだけですが……」


 盆の上には、淡く色づいた果実水と、温かそうな器。中には、柔らかく煮たオートミールが入っていた。


「無理のない範囲でお召し上がりください」

「……ありがとう」


 上体を起こすのを手伝ってもらい、果実水で喉を潤したあと、オートミールを口に運ぶ。味はあまり感じなかったけれど、空っぽだった身体に、少しずつ力が戻ってくるのを感じた。

 用意されたオートミールをすべて食べ終わる頃には、瞼が重くなる。


「では、少しお休みください」


 キアーラの声を聞きながら、私は再び眠りに落ち、次に目を覚ました時には、部屋の中に見知らぬ年配の男性がいた。

 柔らかな目元をした、背の低い白髪の男性は、公爵家の専属医だと紹介される。


「ふむ……」


 脈を取り、額や喉に手を当てて一通り診察を終えると、医師は小さく頷いた。


「身体に、これといった異常はありませんな」

「……そうですか」

「おそらく、疲れが出たのでしょう。しっかり食べて、ゆっくり寝る。それが一番です」


 そう言ってから、念のためにと体力を回復させるための薬を処方してくれた。

 その薬はとてつもなく苦かったけれど、これも元気になるためと割り切って一気に飲み干す。顔をしかめた私を見て、キアーラが慌てて果実水を差し出してくれた。


「……苦い……」


 舌に残る苦味に、私は顔を曇らせる。


「良薬口に苦し、ですな」


 笑いながら医師はそう言うと、ほどなく部屋を後にした。

 その後は、そのまま再び眠りにつく。薬の効果もあるのか、今度は夢も見ない深い眠りに落ちた。



「…………アリーチェ様……」


 再び呼ばれて目を開けると、窓の外が橙色に染まっていた。どうやら、もう夕暮れ時のようだ。


「イグナツィオ様が、様子を見に来てくださっています。お通ししても、よろしいですか?」

「……ええ、通してちょうだい」


 手伝ってもらいながら体を起こし、キアーラが肩に薄いショールを掛ける。

 少しして、イグナツィオ様が部屋へ入ってきた。


「体調はどうだ?」

「薬を飲んで少し寝たら……だいぶ楽になりました」


 私がそう答えると、イグナツィオ様はほっとしたように息を吐いた。


「突然熱を出したから、驚いた。病気ではなくて、本当に良かった」

「……ご心配を、おかけしました」


 しばし沈黙が落ちたあと、イグナツィオ様は思案するように表情を曇らせる。


「アリーチェは知識の吸収がとても早いから、思わずつい興が乗って、勉強を詰め込みすぎたとアルフィオが反省していた」

「……」

「昨日、ベルナデッタにも言われたが、確かに勉強の時間が少し過剰だったかもしれない」


 私の顔を見ながら、彼が静かに続ける。


「アリーチェが学ぶことを望んでいたから、こちらもそれに応えてきたが、大人として止めるべきだった。少し、時間を減らしてはどうだろうか?」


 その問いかけに、私は慌てて首を横に振った。


「私には、時間が限られていますから……、このままの勉強時間を維持したいです。今回、たまたま体調を崩しましたが、できるだけ早くいろいろなことを覚えたい気持ちに変わりありません」

「……」


 一瞬、イグナツィオ様は何か言いかけて、口を閉ざす。


「分かった。では、今まで通りでいい」

「ありがとうございます!」


 私がぱっと顔を明るくすると、「けれど」と前置きしてイグナツィオ様が言葉を続ける。


「ここへ来てからずっと根を詰めていたのは事実だし、昨日は謁見も神殿への訪問もあった。本当に疲れが溜まっていたのだろう」

「……はい」

「少なくとも、二日はしっかり休むこと。それは約束してくれ」


 その声音には、命令ではなく、純粋な気遣いが滲んでいた。


「……分かりました」


 私は頷いて、素直にその提案を受け入れた。イグナツィオ様は満足そうに微笑むと、最後にもう一度私の様子を確かめるように視線を向けてから、静かに部屋を出て行った。


 扉が閉まると、部屋には私とキアーラだけが残る。私は背中に置かれたクッションにもたれかかりながら、イグナツィオ様が出ていった扉をぼんやりと眺めていた。


 確かに、昨日は初めて顔を合わせる人ばかりで、緊張もしたし、気を張り続けて、知らず知らずのうちに疲れも溜まっていたのだと思う。

 城は想像していた通り、腹の探り合いが当たり前の場所で、神殿は敬虔であるがゆえに、また別の息苦しさがあった。

 神殿も派閥争いはあると思っていたけれど、私が見た限りでは、権力に溺れているような感じはなかった。


(神殿長に至っては、喜び方が過剰すぎて思わず引くほどだったけど……)


 神殿への熱烈な勧誘も受けたけれど、その誘いも丁寧で、無理に引き留められることはなかったし、城よりは神殿の方が好印象だったと言える。


 けれど、何より心に強く残ったのは、選定の儀式だ。

 手に残るひやりとした感触、水晶が黒く染まっていったあの光景。あの瞬間、私は不意に思ってしまった。


(もし、洗礼式の時に、私に魔力があることが分かっていたら……私は今ここに――水の州にはいなかった)


 それは、疑いようのない事実。ほんの少し、ただそれだけが違っていれば――。


(……意味のないことだ)


 「もしも」を考えたところで、現実は変わらない。それは十分に理解しているのに、どうしても考えてしまう。


(決定的に、私の歩む道を変えた、その事実……)


 その心の隙が、ずっと張り詰めていた糸をぷつりと切り、体調を崩すことのなかった私に熱を出させたのかもしれない……。



「アリーチェ様」


 静かな声で呼ばれて、はっとする。視線を向けると、キアーラが心配そうにこちらを見ていた。


「アリーチェ様は、十分すぎるほど頑張っていらっしゃいます」

「……」

「生活が一変して、戸惑うことばかりの中でも、ずっと前を向いてこられました。それは、私も母も……見ております」


 柔らかいけれど、まっすぐな眼差しと言葉だった。


「まだ短いお付き合いですが……アリーチェ様がご自分を律し、努力を重ねてこられた方だということは、よく分かっております」


 胸の奥が、少しだけ温かくなる。


「焦るお気持ちも、分かります。ですが……無理はなさらないでください」


 その一言に、私は息を呑んだ。


(……ああ、そうか)


 言葉にされて、改めて気がついた。気づかないふりをしていたけれど、私は確かに焦っていた。時間が限られているからこそ、何かをせずに立ち止まることが怖かった。


「身体だけでなく……心の休息も、必要ですよ」


 キアーラの言葉に、私は小さく息を吐く。


「……ありがとう、キアーラ。あなたの言う通りね」


 焦燥に駆られることは、きっとこれからも止められない。

 それでも――「もしも」は「もしも」として胸の奥にしまい、その上で、きちんと改めて前を向く。


「今は、心と体を休ませる」

「はい」

「それで元気になったら、また新たに頑張るわ」


 そう言うと、キアーラは、ほっとしたように微笑んだ。


「では、その時は、私も最大限お手伝いいたします」


 キアーラの言葉にゆっくりと頷くと、私は再び布団の中へと身を沈める。外は暗さを増し、部屋の中に灯された穏やかな明かりの中、私は静かに目を閉じた。

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