第5話 兄、土下座する
父が魔物を素手で殴り倒してから、私は水汲みに対する態度を少し変えた。
従順になったわけではない。
納得したわけでもない。
幼児に桶を持たせるのは、今でもおかしいと思っている。
だが、否定しきれなくなった。
魔法を使わない。
道具に頼らない。
ただ体を作る。
それが本当に、あの父のような肉体へ繋がるのなら。
寝ていても魔物の牙を通さない体。
毒を盛られても、動けなくなる前に相手を叩き潰せる体。
魔力を乱されても、奪われない体。
そう考えると、桶の重さにも意味があるように思えてしまう。
それがまた腹立たしかった。
「剛理、今日はこっちまでね」
雷華が、昨日より少し遠い場所を指差した。
私は桶を見下ろす。
水の量も少し増えている。
昨日できたから、今日は増やす。
実に単純だ。
そして、鍛錬としてはたぶん正しい。
私は桶を持ち上げた。
重い。
だが、持てないほどではない。
それもまた腹立たしい。
少し前なら、この重さではすぐ腕が震えていた。
今は持てる。
つまり、私はこの野蛮な鍛錬で確かに強くなっている。
一歩。
二歩。
三歩。
水が揺れる。
腕が痛い。
だが、倒れない。
途中、足元の石に気づいた。
避ける。
水が大きく揺れる。
腰を落とす。
腕だけで止めようとしない。
体全体で受ける。
雷華が教えた言葉が、頭へ浮かぶ。
いや、違う。
体が先に動いたのだ。
私は指定された場所までたどり着き、桶を置いた。
水は少しこぼれた。
だが、半分以上は残っている。
「いいわね。昨日よりずっと安定していたわ」
「……うん」
素直に喜びたくないので、短く返した。
雷華はなぜか楽しそうに笑っている。
この母親は、私が不本意ながら成長していることを察して楽しんでいる節がある。
厄介だ。
鍛錬が終わると、私は家の前に座らされた。
雷華が私の腕や足を触り、痛みや腫れを確認する。
「ここは?」
「痛い」
「これは疲れね。明日は少し楽になるわ」
「毎日痛い」
「毎日強くなっている証拠よ」
便利な言葉だ。
痛みを全部、成長で片づけている。
反論しようとしたが、実際に少しずつ強くなっているので何も言えない。
雷華は確認を終えると、少しだけ声を低くした。
「剛理。今日は午後に少し話があるわ」
「話?」
「剛武のこと」
その名前を聞いた瞬間、私は表情を消した。
剛武。
私の兄。
そして、赤子だった私を抱き潰しかけた相手。
悪意がなかったことは、今ならある程度わかる。
だが、悪意がなければ安全というわけではない。
現に私は死にかけた。
あの時、肋骨にかかった圧力と、肺が潰れる感覚はまだ体が覚えている。
「嫌」
私は即答した。
雷華は困った顔をしなかった。
予想していた反応なのだろう。
「怖い?」
「危ない」
「剛武は、あれから力加減の練習をずっとしているわ」
「前も、わかってるって言った」
雷華が少し黙った。
事実だ。
剛武はあの時、わかっていると言った。
その直後に、私を潰しかけた。
信用できるはずがない。
「そうね。剛理から見たら、信用できないわよね」
「うん」
「でも、ずっと避け続けるのは難しいわ」
それも事実だった。
剛武はこの家の長男だ。
村長の子。
いずれこの村で何らかの立場を持つ人間。
私が剛力王国で地位を得ようとするなら、家族内の不和は早めに処理しておく必要がある。
前世でもそうだった。
身内の敵は外の敵より面倒だ。
外の敵は防げる。
だが身内の敵は、周囲が油断を要求してくる。
兄弟なんだから。
家族なんだから。
そんな言葉で警戒を緩めさせようとする。
私はそれで何度も損をした。
だから、今回は警戒する。
だが、警戒したままでも会うことはできる。
雷華がいる場なら、剛武が何かしても止められる。
父も近くにいるなら、なおさらだ。
「母様、いる?」
「いるわ」
「父様は?」
「庭にいるわ」
「蓮華は?」
「外で待ってもらうわ。剛武が余計に緊張するから」
剛武が緊張。
その言葉に、少し違和感を覚えた。
なぜ加害側が緊張する。
いや、演技の可能性はある。
前世の兄もそうだった。
人前では申し訳なさそうな顔がうまかった。
母の前で謝るのもうまかった。
そして裏では、より陰湿になった。
今回も同じかもしれない。
ただ、剛力王国の人間は、今のところ陰で回すより正面からやる傾向が強い。
父は魔物に噛ませて殴る。
母は便利な道具を褒めてから撤去する。
蓮華は私をかわいいと言いながら、すぐ距離を詰めようとする。
剛武も、もし悪意があるなら、もっとわかりやすく出るかもしれない。
「わかった」
私は頷いた。
雷華は私の頭をそっと撫でた。
「無理に許さなくていいわ。ただ、話を聞いてあげて」
「……うん」
午後。
家の奥の部屋に、私は雷華と並んで座っていた。
入口は開いている。
閉め切らない。
逃げ道はある。
庭には剛力羅の気配がある。
蓮華は外に出されているらしい。
何度かこちらを覗こうとして、そのたびに父に止められていた。
しばらくして、剛武が入ってきた。
以前より背が伸びている。
まだ少年だが、体つきはすでに大人の帝国兵に近い。
前世なら、この年齢でここまでの体は作れない。
剛力王国の血と食事と鍛錬。
その結果なのだろう。
剛武は私を見た。
その瞬間、顔が強張った。
敵意ではない。
恐怖。
いや、罪悪感か。
彼の肩がわずかに震えている。
演技にしては下手だ。
下手すぎる。
剛武は部屋の中央まで進んだ。
そして、いきなり床に額をつけた。
「ごめん!」
土下座だった。
私は固まった。
予想していなかった。
謝るにしても、もっと言い訳から入ると思っていた。
あるいは、雷華に促されて渋々頭を下げる程度だと。
だが、剛武は自分から土下座した。
額が床につく音がした。
「剛理、本当にごめん!」
声が震えている。
雷華は何も言わない。
私に判断させるつもりらしい。
私は剛武を見た。
床に伏せた背中が、小刻みに震えている。
この国で土下座がどういう意味を持つのかはまだ知らない。
だが少なくとも、剛武は屈辱を感じているようには見えない。
ただ必死に謝っている。
「……何が?」
私は聞いた。
剛武が顔を上げる。
目が赤い。
「赤ん坊だった剛理を、抱き潰しかけたこと」
「わざと?」
剛武の顔が歪んだ。
「違う! 違うんだ。本当に、そんなつもりじゃなかった」
その言葉は聞いたことがある。
そんなつもりじゃなかった。
前世の兄も、よく言った。
書類を隠した時も。
連絡を遅らせた時も。
母の前で私を心配するふりをした時も。
だが、被害はいつも私に来た。
「剛理が、可愛くて」
剛武は拳を握った。
「初めて抱いた時、小さくて、柔らかくて……嬉しくて、力が入った。母様に言われてたのに、ちゃんと加減できなかった」
「殺そうとした?」
「違う!」
剛武が即座に首を振る。
その反応は早かった。
怒りではない。
泣きそうな顔だった。
「殺したいわけない! 弟だぞ! ずっと抱きたかったんだ。生まれる前から、父様にも母様にも、赤子は弱いから気をつけろって言われてた。だから練習もした。でも、本物の剛理を抱いたら、頭が真っ白になって……」
頭が真っ白。
それで赤子を潰しかけるな。
私は冷たく思った。
しかし同時に、少しだけ理解もした。
剛力王国の子供にとって、力加減は本当に難しいのかもしれない。
剛武の腕力なら、普通に抱きしめただけで赤子には危険だ。
悪意がなくても死ぬ。
それはそれで最悪だ。
「その後、ずっと近づけなかった」
剛武は言った。
「近づくと剛理が泣くから。俺のこと、怖いんだってわかったから。謝りたかった。でも、近づいたらまた怖がらせると思って……」
「力加減は?」
「覚えた」
剛武は真剣な顔で言った。
「母様に何度も叩かれた。父様にも投げられた。卵を割らずに持つ練習もした。蓮華にも試された。もう、同じことはしない」
母に叩かれ、父に投げられ、姉に試された兄。
この家の教育は、やはりどこかおかしい。
だが、少し笑いそうになった。
笑わなかったが。
「信じてほしいなんて、すぐには言えない」
剛武はもう一度頭を下げた。
「でも、謝りたかった。怖がらせてごめん。痛い思いをさせてごめん。剛理に嫌われても仕方ないけど……それでも、ごめん」
私は黙った。
部屋が静かになる。
雷華は口を挟まない。
庭にいる父の気配も動かない。
私が決めろということだ。
前世の私は、こういう場面で何度か失敗した。
謝罪を受け入れた。
相手を信じた。
そして、裏切られた。
謝罪は、相手に罪悪感があることの証明にはならない。
ただ、その場を切り抜ける手段にもなる。
だから今回も警戒すべきだ。
剛武が本当に反省しているかどうかなど、今は判断できない。
だが、利用価値はある。
兄と表面上だけでも和解すれば、家の中で動きやすくなる。
長男である剛武と敵対し続けるより、関係を修復した方が得だ。
仮に裏で何か企んでいたとしても、雷華と父の目がある今、すぐには動けない。
だから、受け入れる。
これは合理的な判断だ。
そうだ。
合理的な判断。
「……わかった」
私が言うと、剛武が顔を上げた。
「本当か?」
「許す、かは、まだわからない」
剛武の顔が一瞬だけ曇る。
だが私は続けた。
「でも、話は聞いた」
「うん」
「近づく時は、先に言って」
「言う」
「勝手に抱かない」
「絶対にしない」
「痛かったら、すぐ離す」
「離す」
私は剛武をじっと見た。
剛武も真剣に頷いた。
その目には、前世の兄にあったような薄い笑みはない。
裏で何かを計算しているような濁りもない。
不器用で、まっすぐで、申し訳なさそうで。
腹が立つほど、わかりやすい。
「なら、いい」
私がそう言うと、剛武の目から涙が落ちた。
「ありがとう、剛理」
泣くほどか。
少し引いた。
だが、その反応に悪意は感じなかった。
剛武は袖で目を拭い、深く頭を下げた。
雷華がようやく口を開く。
「よかったわね、剛武」
「はい……」
「でも、剛理が言ったことは守りなさい。次に怖がらせたら、母様が怒るわ」
雷華は笑顔だった。
剛武の背筋が伸びた。
「絶対に守ります」
母の怒りは、父の拳より怖いのかもしれない。
剛武が部屋を出る前に、私は呼び止めた。
「剛武」
「な、なに?」
「卵、割らずに持てる?」
剛武は少し戸惑ってから、頷いた。
「持てる」
「今度、見せて」
力加減の訓練。
興味はあった。
剛力王国の人間が、強すぎる力をどう制御しているのか。
知っておいて損はない。
剛武の顔がぱっと明るくなった。
「見るか?」
「見るだけ」
「もちろん! 近づく時は言う!」
「うん」
剛武は何度も頷いてから、部屋を出ていった。
その背中は、来た時より少し軽そうだった。
雷華が私を見る。
「どうだった?」
「わからない」
「そう」
「でも、前の兄とは違う」
言ってから、しまったと思った。
前の兄。
雷華の目がわずかに細くなる。
「前の兄?」
私は黙った。
迂闊だった。
前世の話をするわけにはいかない。
理知帝国の情報を持っている理由も説明できない。
少し考えてから、答えをずらした。
「夢で見た」
「怖い夢?」
「うん」
雷華はそれ以上、深く聞かなかった。
ただ、私の頭をそっと撫でた。
「剛理は、いろいろ考えているのね」
「……うん」
「考えるのは悪いことじゃないわ。でも、全部一人で抱えなくていいのよ」
私は返事をしなかった。
抱えなくていい。
そんな言葉を信じられるほど、私はまだこの世界に馴染んではいない。
だが、雷華の手は温かかった。
それは事実だった。
夕食の時間。
剛武は少し離れた席に座っていた。
いつもなら姿を見せなかった兄が、今日は食卓にいる。
蓮華がにやにやしていた。
「剛武、よかったね」
「うるさい」
「泣いた?」
「泣いてない」
「目、赤い」
「うるさい」
姉弟のやり取りを聞きながら、私は食事を口に運んだ。
相変わらずまずい。
鉄臭い。
苦い。
あの乳と同じような、舌の奥に残る嫌な味がある。
この家の食事は、どうしてこうもまずいのか。
だが、今日は少しだけ食卓が騒がしかった。
剛武がこちらを見た。
何か言いたそうにして、やめた。
先に言う約束を思い出したのだろう。
私は小さく息を吐いた。
警戒は解かない。
完全に信用もしない。
だが、剛武は前世の兄とは違うかもしれない。
少なくとも、陰で笑うタイプではなさそうだ。
この国の人間は、やはり単純だ。
気に食わなければ殴る。
悪ければ謝る。
強ければ誇る。
弱ければ鍛える。
帝国のような陰湿さは薄い。
それが良いことなのかは、まだわからない。
だが、少しだけ息がしやすい。
そう思ってしまった自分に、私は内心で顔をしかめた。
馴染むな。
油断するな。
私はまだ、この国で何も成していない。
理知帝国は遠くにある。
魔法銃の開発がどうなっているかもわからない。
力も地位も、まだ何一つ足りない。
だから、明日も鍛える。
水を運ぶ。
体を作る。
そして、いつか発言権を得る。
そう考えていた時、剛力羅が肉を噛みながら言った。
「兄弟仲が良いのは、筋肉にいい」
何を言っているのかはわからない。
だが、誰も突っ込まなかった。
この家では、そういうものなのだろう。
私はまずい食事を飲み込みながら、ふと思った。
前世の食卓では、こんなふうに誰かが笑っていただろうか。
思い出そうとして、やめた。
比べても意味はない。
私は今、剛理だ。
剛力王国の村長の子で、弱くて、鍛えられていて、兄に土下座されて、まずい飯を食べている。
ひどい状況だ。
だが、前世より悪いかと聞かれると、すぐには頷けなかった。
それが少しだけ、悔しかった。




