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第4話 これが筋肉だ

 魔法は禁止された。


 文明の利器も、鍛錬中は使用禁止。


 つまり私は、小さな桶を抱えて、水場と家の間を往復するしかなかった。


 朝、運ぶ。


 昼、運ぶ。


 夕方、運ぶ。


 もちろん、家中の水を私一人で賄うわけではない。


 私が運ぶのは、あくまで幼児用の小さな量だ。


 だが、それでもきつい。


 桶は重い。


 水は揺れる。


 足元は不安定。


 腕は痛い。


 肩は震える。


 こんなものは非効率だ。


 そう思っていた。


 今も思っている。


 ただ、以前と違うのは、完全には否定しきれなくなっていることだった。


 最初は数歩で崩れていた。


 今は、家の前まで運べることが増えた。


 まだこぼす。


 まだ転ぶ。


 まだ雷華に助けられる。


 それでも、昨日より少しだけ進む。


 昨日より、少しだけ踏ん張れる。


 体が覚えている。


 それが腹立たしかった。


 理知帝国で学んだ知識は、間違っていない。


 反復による身体学習。


 負荷への適応。


 筋肉と神経の連動。


 言葉にすれば説明できる。


 だが、説明できることと、納得できることは別だ。


 私は、あれほど馬鹿にしていた剛力王国式の鍛錬で、確かに成長していた。


 それが気に食わない。


「剛理、今日は足がいいわね」


 雷華が言った。


「足?」


「水が揺れた時、足で受けていたでしょう。腕だけで止めようとしていなかったわ」


 そんなことをしていただろうか。


 意識はしていない。


 ただ、転ばないようにしただけだ。


 だが、雷華は満足そうに頷いている。


「体が覚えてきたのね」


「……」


 私は何も言わなかった。


 褒められている。


 それはわかる。


 だが、このやり方を認めたような気がして、素直に喜びたくなかった。


 雷華はそんな私の顔を見て、楽しそうに笑う。


「悔しそうね」


「悔しくない」


「そう?」


「……少しだけ」


「素直で偉いわ」


「偉くない」


 赤子の時ほどではないが、まだ私は幼い。


 否定しても、雷華にはだいたい見抜かれる。


 厄介な母親だ。


 水汲みを終えたあと、私は家の前に座って腕を揉んでいた。


 痛い。


 ただし、壊れている痛みではない。


 使った痛みだ。


 それも、少しずつわかるようになってきた。


 雷華は無茶をさせる。


 剛力王国基準で。


 だが、壊れる手前で止める。


 そこはかなり正確だった。


 私はその見極めを、まだ完全には信用していない。


 だが、少なくとも前世の上司たちよりはましだ。


 前世の上司は、使える間は使う。


 壊れたら捨てる。


 それだけだった。


「剛理」


 庭の向こうから、剛力羅が声をかけてきた。


 父は片手に大きな水桶を持っている。


 水が入っているはずなのに、揺れない。


 何度見てもおかしい。


「今日は外へ行くぞ」


「外?」


「ああ。そろそろ見ておいた方がいい」


 嫌な予感がした。


 この家で「見ておいた方がいい」と言われるものは、だいたい私の常識を壊してくる。


 私は雷華を見た。


 雷華は平然としている。


「危険地帯の手前までね」


「危険地帯」


 その言葉は、家族の会話の中で何度も聞いている。


 村の近くにある、魔物が多く出る領域。


 理知帝国では、剛力王国がその危険地帯の壁として機能していると説明されていた。


 獣と魔物の巣。


 帝国の技術者が入りにくい未開領域。


 剛力王国の蛮族どもが力任せに押し返している場所。


 前世の私は、そんなふうに理解していた。


 資料では知っている。


 被害記録も読んだ。


 魔物の絵も見た。


 だが、実物を見たことはない。


「行く必要ある?」


「あるわ」


 雷華が答えた。


「剛理は魔法を禁止された理由に納得していないでしょう?」


「……」


「見た方が早いわ」


 出た。


 剛力王国式の説明。


 見た方が早い。


 言葉で説明する前に、現物を叩きつける。


 私はこの言い方が嫌いだ。


 だが、大抵の場合、確かに早い。


「危ない」


「危ないわよ」


「じゃあ行かない方がいい」


「危ないから、見ておくの」


 この国の人間は、危険と教育の距離が近すぎる。


 私は顔をしかめた。


 雷華はそんな私を抱き上げる。


 まだ長距離を歩くには幼いからだ。


 抱かれるのは屈辱だが、危険地帯へ向かうなら安全性を優先するべきだ。


 合理的判断である。


 決して甘えているわけではない。


 村を出ると、空気が変わった。


 村の中には、生活の音がある。


 子供の声。


 鍛錬の掛け声。


 肉を叩く音。


 木を割る音。


 誰かの笑い声。


 荒っぽいが、そこには人間の気配があった。


 だが、村の外へ進むほど、その気配が薄れる。


 風の音。


 草の擦れる音。


 遠くで何かが鳴く声。


 そして、薄い獣臭。


 私は雷華の腕の中で、周囲を観察した。


 地面には大きな爪痕のようなものが残っている。


 木の幹が折れている。


 草が不自然に倒れている。


 資料で見た魔物被害の痕跡に似ている。


 だが、紙の上の情報とは違う。


 湿った土の匂い。


 獣の体臭。


 古い血の残り香。


 それらが混ざって、皮膚の内側に入り込んでくる。


 怖い。


 そう思った。


 前世の私は、実験室と会議室で戦っていた。


 敵は人間だった。


 陰口。


 派閥。


 予算。


 毒。


 裏切り。


 それらへの警戒はしていた。


 だが、巨大な魔物に噛み殺される恐怖は知らなかった。


「剛理」


 雷華が静かに言う。


「怖い?」


「……怖くない」


「嘘ね」


「少し」


「怖いのは悪いことじゃないわ。怖いものを見て、体が覚えることもあるから」


 また体だ。


 この国では恐怖まで筋肉の教材になるらしい。


 頭の中まで筋繊維でできているのか。


 そう毒づこうとして、やめた。


 自分の鼓動が速い。


 喉が乾く。


 手のひらが湿る。


 恐怖を情報として処理しようとしている。


 それは悪いことではない。


 たぶん。


 前を歩く剛力羅は、手ぶらだった。


 武器はない。


 鎧もない。


 普段着だ。


「父様、武器は?」


 私は聞いた。


 雷華が静かに答えた。


「戦士に武器はいらないのよ」


「いらない?」


「ええ。すぐわかるわ」


 何を言っている。


 武器がいらない戦士などいるものか。


 武器は力の延長だ。


 拳より槍。


 腕より剣。


 素手より術具。


 それが普通だ。


 少なくとも、理知帝国ではそうだった。


 武器を持たない戦士など、準備を怠った愚か者に過ぎない。


 そう思っていた。


 その時、剛力羅が足を止めた。


「来るぞ」


 軽い声だった。


 まるで客でも来るような言い方だった。


 私は前方を見る。


 木々の間で、何かが動いた。


 低い唸り。


 地面がわずかに震える。


 次の瞬間、それは姿を現した。


 大きい。


 最初に浮かんだ感想は、それだけだった。


 四足。


 分厚い胴体。


 岩のような皮膚。


 口元には曲がった牙。


 背中には骨のような突起が並んでいる。


 猪に似ている。


 だが、猪というには大きすぎる。


 牛よりも大きい。


 小さな家畜小屋ほどの質量が、唸りながらこちらを見ていた。


 魔物。


 資料で見た絵とは違う。


 実物には圧がある。


 息がある。


 殺意がある。


 私は雷華の服を掴んでいた。


 無意識だった。


「逃げ――」


 そう言いかけた。


 雷華は落ち着いていた。


 剛力羅も笑っていた。


「剛理」


 雷華が言う。


「父様を見ていなさい。私は周りを見ておくから」


「いや、あれ」


「たいした魔物じゃないわ。一瞬で終わっちゃうから、よく見ておくのよ」


 たいした魔物ではない。


 正気か。


 あれが。


 あの質量が。


 あの牙が。


 人間を容易く潰せる化け物が。


 剛力羅は前へ出た。


 魔物が地面を蹴る。


 突進。


 速い。


 大きいくせに速い。


 私は息を止めた。


 避けろ。


 そう思った。


 しかし剛力羅は避けなかった。


 魔物の牙が父へ迫る。


 次の瞬間、魔物の口が父の肩口に食らいついた。


 終わった。


 そう思った。


 噛まれた。


 あの牙で。


 人間の肩など砕ける。


 腕が飛ぶ。


 血が噴き出す。


 私は雷華の腕の中で硬直した。


 だが、剛力羅は立っていた。


 魔物が噛みついたまま、動きが止まっている。


 いや、違う。


 魔物の方が困惑している。


 牙が通っていない。


 父の肩に食らいついているのに、肉が裂けていない。


 服は破れている。


 だが、血が見えない。


 剛力羅が笑った。


「剛理」


 噛まれたまま、こちらを見た。


「これが筋肉だ」


 何を言っている。


 その状況で何を言っている。


 父の右腕が下がった。


 軽く。


 まるで水桶を持ち直すような動きだった。


 次の瞬間、音が消えた。


 いや、私の目が追えなかっただけだ。


 父の拳が、魔物の下顎を打ち上げていた。


 轟音。


 魔物の巨体が宙に浮いた。


 あり得ない角度で首が跳ね上がり、骨の砕ける音が遅れて響く。


 そのまま魔物は地面に落ちた。


 一度、足が痙攣した。


 それきり動かなかった。


 終わった。


 本当に一瞬だった。


 剛力羅は肩を回した。


 服には牙の跡がある。


 だが、血は見えない。


 彼は倒れた魔物を足で軽く押し、こちらへ振り返った。


「見たか」


 私は何も言えなかった。


 見た。


 見てしまった。


 魔法ではない。


 武器でもない。


 防具でもない。


 筋肉。


 鍛えた肉体だけで、魔物の牙を止め、拳一つで倒した。


 理知帝国の兵士なら、部隊で囲む。


 魔術師なら距離を取る。


 罠を使い、槍を使い、盾を並べる。


 それが普通だ。


 だが、この男は違う。


 噛ませて、殴った。


 馬鹿げている。


 完全に馬鹿げている。


 そして、強い。


「最低でも」


 剛力羅が近づいてきた。


「これくらいできるまでは、魔法は禁止だ」


 私は父を見上げた。


 これくらい。


 今、これくらいと言ったのか。


 巨大な魔物に噛まれて無傷で、そのまま殴り倒すことを、これくらいと。


 雷華が私を抱き直す。


「わかった?」


 わかるわけがない。


 だが、理解はした。


 この国の基準が、私の想像より遥かに狂っていることを。


 そして、その狂った基準が、現実の強さに裏打ちされていることを。


 私は小さく頷いた。


 頷くしかなかった。


 魔法はズル。


 そう言われた時、私は侮辱だと思った。


 だが、今の父を見た後では、少し意味が変わる。


 魔法を使うなというのは、魔法を軽んじているからではない。


 魔法に逃げるなという意味だ。


 体がここまで行けるのに、その前に魔法で誤魔化すな。


 この国は、そう言っている。


 野蛮だ。


 乱暴だ。


 頭がおかしい。


 だが、弱くはない。


 それだけは、認めざるを得なかった。


 帰り道、私はほとんど話さなかった。


 剛力羅は上機嫌だった。


 雷華はいつも通りだった。


 私は母の腕の中で、何度もあの光景を思い出していた。


 牙が通らない肩。


 宙に浮く巨体。


 砕ける首。


 あれが筋肉。


 あれが剛力王国。


 あれが、私がこれから身につけなければならない力。


 理知帝国は、あの国を侮っていた。


 私も侮っていた。


 だが、帝国が魔法銃を完成させた時、この筋肉だけで本当に勝てるのか。


 それはまだわからない。


 わからないからこそ、私は強くならなければならない。


 この国のやり方で。


 今はまだ、腹立たしいほどに。


 村へ戻る頃、剛力羅が言った。


「剛理、明日からも水汲みだ」


 私は少しだけ父を睨んだ。


 剛力羅は笑った。


「いい目だ。悔しいなら鍛えろ」


 またそれか。


 だが、私はもう反論しなかった。


 反論できなかった。


 翌朝。


 私は桶を持った。


 魔法は使わない。


 道具も使わない。


 腕が痛い。


 足が震える。


 水が揺れる。


 それでも歩く。


 父の肩に牙が通らなかった光景が、頭から離れない。


 あそこまで行けるのなら。


 人間の体が、あそこまで鍛えられるのなら。


 やるしかない。


 私は息を吐き、桶を抱え直した。


 野蛮人どもめ。


 そう思った。


 だが、その言葉は以前よりもずっと弱かった。


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