表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/31

第3話 文明の利器、筋肉に撤去される

 水汲み。


 言葉だけなら、単純な仕事だ。


 水場へ行く。


 桶に水を入れる。


 家まで運ぶ。


 以上。


 理知帝国なら、こんな作業は幼児の仕事ではない。


 そもそも帝国の上層区では、家の中まで水路が引かれている。下層区でも共同の水栓くらいはある。手で水を運ぶ必要があるのは、整備が遅れた辺境か、帝国の管理外にある土地くらいだ。


 つまり、今の私がいる場所は、そのどちらかに近い。


 だが、この村は完全な未開ではなかった。


 家の造りは粗いが頑丈だ。食器もある。哺乳瓶もあった。納屋には、理知帝国から渡されたと思われる道具も置かれている。


 文明を知らないわけではない。


 知ったうえで、使い方がおかしいのだ。


「ほら、剛理。今日はここまで運べたら十分よ」


 母――雷華が、少し先の地面を指差した。


 近い。


 大人の足なら十歩もない。


 だが、今の私には遠い。


 小さな桶に入った水は、幼児の腕には十分すぎる重さだった。両手で持つと、足元がふらつく。水が揺れるたびに体も持っていかれる。


 馬鹿げている。


 こんなものは鍛錬ではない。


 発育途中の体に負荷をかける危険行為だ。


 そう言いたかった。


 だが、私はまだ幼児であり、言葉も体も十分ではない。


 しかも、この国の人間に理知帝国式の発育理論を語ったところで、どこまで通じるか怪しい。


 私は黙って桶を持ち上げた。


 一歩。


 水が揺れる。


 二歩。


 腕が痛い。


 三歩。


 肩が震える。


 四歩目で、足がもつれた。


「っ」


 転びかけた瞬間、雷華の手が背中に添えられた。


 抱き止めるというより、倒れない位置へ軽く戻された。


「惜しいわね」


 惜しいではない。


 危ない、だ。


 私は雷華を見上げた。


「これ……いる?」


 幼児らしい短い言葉を選ぶ。


 この年齢で流暢すぎる会話をすると、観察力の高い母に不審を持たれる。


 雷華は微笑んだ。


「いるわよ。水は毎日使うでしょう?」


「父様、できる」


「父様もできるわね」


「母様も、できる」


「母様もできるわ」


「じゃあ、俺、いらない」


 完璧な論理だ。


 家には大人がいる。


 水が必要なら大人が運べばいい。


 幼児にさせる必要はない。


 雷華は少し考えるように首を傾げた。


 そして言った。


「今はね」


 今は。


 嫌な言葉だ。


「でも、剛理もいつか自分の水を運ぶでしょう? 自分の水も、家族の水も、誰かの水も。だから今から体に教えるの」


「……道具」


「道具?」


 私は頷いた。


 この家の納屋には、理知帝国から渡されたと思われる道具があった。


 魔導ポンプ。


 水を汲み上げるための小型器具だ。


 最新式ではない。むしろ型落ち品に近い。


 それでも、魔力を流すだけで水を汲み上げられる。設定さえ整えれば、ボタン一つで桶に水を入れられるはずだ。


 子供用の玩具扱いなのか、使われた形跡はほとんどなかったが、構造は理解できる。


「納屋。水、出す道具」


 雷華は「ああ」と納得したように笑った。


「帝国から来たおもちゃね」


 おもちゃではない。


 技術だ。


 私は少し苛立ったが、表には出さなかった。


「使う」


「使ってみたいの?」


「うん」


 雷華はしばらく私を見ていた。


 その目は優しい。


 だが、やはり観察している。


「いいわ。やってみましょうか」


 その日の午後、私は納屋へ連れていかれた。


 納屋の奥には、いくつかの帝国製品が置かれていた。


 魔導ポンプ。


 手回し式の粉砕器。


 組み立て式の運搬台。


 どれも型落ち品だ。


 帝国が同盟国へ贈るにはちょうどいい。


 最新技術は渡さない。


 だが、恩を売れる程度には便利。


 そして壊れれば、修理部品を理由に繋がりを持ち続けられる。


 典型的な侵略の種だ。


 この村の人間はそれを本当におもちゃだと思っているらしい。


 間抜けな話だ。


 いや、間抜けなのは理知帝国の方かもしれない。


 これほど埃を被らせている時点で、依存させるどころではない。


「これ」


 私は魔導ポンプを指差した。


「これを使うのね」


 雷華が軽々と持ち上げる。


 大人でもそれなりに重いはずだが、彼女の腕はまるで買い物籠でも持つように揺れなかった。


 この母親の身体能力も、やはりおかしい。


 水場に魔導ポンプを設置する。


 細かい調整は私が指示した。


 もちろん幼児語で。


「あっち」


「ここ?」


「違う。もっと、下」


「ここね」


「そこ。止める」


「これでいい?」


「うん。押す」


「ここを?」


「うん」


 雷華は文句も言わずに手伝ってくれた。


 母のこういうところは助かる。


 父なら途中で「腕で汲めば早い」と言い出したに違いない。


 魔導ポンプの導線を確認し、内部の簡易術式を起動させる。


 水場に通した管が震えた。


 少し遅れて、吐出口から水が流れ出す。


 成功だ。


 私は思わず息を吐いた。


 桶に直接水が入る。


 いちいち屈んで汲む必要がない。こぼれる量も減る。水場の泥で足を滑らせることも減る。


 合理的だ。


 実に合理的。


「できた」


 私が言うと、雷華は素直に拍手した。


「すごいわね、剛理。よくわかったわね」


 褒められた。


 悪い気はしない。


 前世では成果を出しても、褒め言葉の裏には必ず打算があった。


 雷華の言葉にも何かしらの観察は含まれているだろう。


 だが、少なくとも今は素直な称賛に聞こえた。


「頭がいいのね」


 そう言われ、私は少しだけ胸を張った。


 当然だ。


 私は魔法銃の開発長だった男だ。


 型落ちの魔導ポンプを扱う程度、難しいはずがない。


 これで水汲みは楽になる。


 幼児に過度な負荷をかける必要もなくなる。


 文明とは、こういうものだ。


 無駄を減らし、人間の能力をより重要なことへ振り向ける。


 剛力王国の連中も、少しは効率というものを学ぶべき――。


「じゃあ、片づけましょうか」


 雷華が言った。


 私は固まった。


「……え?」


「片づけるわよ」


「なぜ?」


 思わず、普通に聞いてしまった。


 雷華は魔導ポンプを外しながら、当たり前のように答えた。


「鍛錬にならないでしょう?」


 何を言っている。


 私は口を開けたまま雷華を見た。


 今、目の前で効率化を示した。


 水を汲む手間を減らした。


 幼児でも安全に水を扱えるようにした。


 それをなぜ撤去する。


「これ、便利」


「そうね。便利ね」


「なら、使う」


「便利だから、今は使わないの」


 意味がわからない。


 便利だから使わない。


 その言葉は、理知帝国のどの教育課程にも存在しない理屈だった。


 雷華は私の顔を見て、少し困ったように笑った。


「剛理は頭がいいから、楽な方法を見つけるのが上手なのね」


「楽、悪い?」


「悪くはないわ」


「じゃあ」


「でも、今の剛理には、楽をするより先に体を作る方が大事なの」


 出た。


 また体だ。


「水を汲む。持つ。歩く。こぼさないように踏ん張る。転びそうになったら立て直す。全部、体に必要なことよ」


「道具、ある」


「道具は壊れるわ」


「直せる」


「直せる人がいなかったら?」


 私は言葉に詰まった。


 直せる人。


 帝国なら技師がいる。


 部品もある。


 規格もある。


 だが、この村では違う。


 確かに、この魔導ポンプが壊れた時、直せる人間は限られる。


 私なら直せるかもしれない。


 だが、全員ができるわけではない。


 雷華は続けた。


「道具は便利よ。使う時もあるわ。でも、道具がないと水も汲めない体になるのは困るでしょう?」


「……」


「それに、これは他の人には少し使いにくいの。水場はみんなが使うから、置いたままだと邪魔にもなっちゃうわ」


 使いにくい。


 邪魔。


 魔導ポンプに向ける評価としては、あまりにも雑だ。


 しかし、設置した私だからわかる。


 この水場に常設するには、固定の仕方も位置も中途半端だ。


 大人が大量に水を汲むなら、普通に汲んだ方が早い可能性すらある。


 認めたくはないが、少なくとも今の形では全員に有用とは言い切れない。


 雷華は魔導ポンプを肩に担ぐ。


 私が必死に設置した文明の利器は、母の片手であっさり持ち去られようとしていた。


「筋肉で汲めるなら、その方が早いもの」


 その一言で、私の中の何かが切れた。


 筋肉。


 何でもかんでも筋肉。


 頭の中まで筋肉でできているのか、この国の人間は。


 私は内心で吐き捨てた。


 野蛮人どもめ。


 効率という概念を知らないのか。


 いや、知っていて捨てているのか。


 どちらにしても救いがない。


 雷華はそんな私の内心を知らず、微笑んだ。


「剛理がもう少し大きくなって、鍛錬以外で水をたくさん使う時には、また考えましょうね」


 また考える。


 つまり、今は認めないということだ。


 私は小さな桶を見下ろした。


 そして理解した。


 この家では、理屈だけでは通じない。


 便利であることは、採用理由にならない。


 鍛えられるかどうかが基準なのだ。


 馬鹿げている。


 だが、私は子供だ。


 逆らえない。


 その日から、水汲みは続いた。


 朝。


 昼。


 夕方。


 もちろん家中の水を私一人で賄うわけではない。


 だが、私用の小さな桶を持たされ、一定量を運ばされる。


 初日は数歩で失敗した。


 二日目は少しだけ進んだ。


 三日目には、こぼしながらも指定された場所まで運べた。


 雷華はそのたびに褒めた。


「昨日より進めたわね」


「今の踏ん張りはよかったわ」


「転びそうになった時、足を出せたわね」


 正直、褒められること自体は悪くない。


 だが、屈辱でもあった。


 私は魔法銃の開発長だった。


 帝国の未来を変える兵装を作った男だった。


 それが今、水をこぼさず運べただけで褒められている。


 しかも、少し嬉しいと感じている。


 最悪だ。


 自分の体が幼児であることも、周囲の評価基準が低いことも、何もかも腹立たしい。


 だから私は、別の手段を取ることにした。


 身体強化魔法。


 すでに夜中に少しずつ練習している。


 まだ大きな出力は出せない。


 だが、水桶を運ぶ程度なら、少し補助をかければ十分だ。


 筋肉で運ぶのも、魔法で補助して運ぶのも、結果は同じ。


 むしろ、魔力制御の訓練にもなる。


 合理的だ。


 雷華たちは魔法そのものを否定しているわけではない。


 なら問題ないはずだ。


 私は翌朝、桶を持つ前にこっそり魔力を巡らせた。


 足。


 腰。


 腕。


 出力はごく薄く。


 外から見て不自然にならない程度に。


 桶を持つ。


 軽い。


 昨日まで重かった水が、今日は扱いやすい。


 やはり魔法は有用だ。


 私はゆっくり歩いた。


 一歩。


 二歩。


 三歩。


 水は揺れるが、体は持っていかれない。


 五歩。


 十歩。


 指定された場所を越える。


 雷華が少し目を丸くした。


 私はそのまま、さらに先へ進んだ。


 どうだ。


 見たか。


 これが理知だ。


 筋肉だけに頼るより、魔法を組み合わせた方が効率的に決まっている。


 水桶を置き、私は雷華を見上げた。


 褒めるなら今だ。


 昨日までの何倍も運んだ。


 これは成果だ。


 雷華は静かに近づいてきた。


 そして、私の前でしゃがんだ。


「剛理」


 声が低い。


 褒める声ではない。


「魔法を使ったわね?」


 私は息を止めた。


 ばれている。


 なぜだ。


 出力は抑えた。


 魔力の流れも最低限にした。


 この程度の薄い魔力の流れなら、普通は気づかれないはずだ。


 だが、雷華は見破った。


「……少し」


 黙っても無駄だと判断し、私は認めた。


 雷華は怒鳴らなかった。


 だが、表情は厳しかった。


「使えたのね」


 その声には、驚きが混じっていた。


 当然だろう。


 普通、この年齢で身体強化魔法など使えないはずだ。


 まして、誰かに教わったわけでもない。


 この国が身体強化魔法を得意としていると知られているとはいえ、赤子に毛が生えたような幼児が勝手に使うなど、普通に考えればおかしい。


 私は少し身構えた。


 問い詰められるかもしれない。


 どうやって覚えた。


 誰に教わった。


 なぜ使える。


 そう聞かれれば、答えに困る。


 しかし雷華は、少し考えた後、妙に納得したように息を吐いた。


「剛理は、そういうところも早いのね」


 それで終わりか。


 天才肌ということで納得したらしい。


 助かった。


 助かったが、雑でもある。


「でも、だめよ」


「なぜ」


「今の剛理には、まだ早いから」


「できた」


「できたわね」


「なら、いい」


「よくないわ」


 まただ。


 この国の人間は、結果を見ないのか。


 できた。


 運べた。


 昨日より明確に成果を出した。


 それの何が悪い。


 私は苛立ちを抑えきれず、少し強い声で言った。


「強く、なる」


 雷華は私を見つめた。


 その目に、先ほどとは別の真剣さが浮かんだ。


「強くなりたいのね」


「うん」


「どうして?」


 どうして。


 そんなもの、決まっている。


 奪われないためだ。


 理知帝国に殺されないためだ。


 今度こそ、必要な部分だけ取られて捨てられないためだ。


 だが、それを言うわけにはいかない。


 私は短く答えた。


「負けない」


「誰に?」


「誰にも」


 雷華の表情が、少しだけ変わった。


 優しさではない。


 憐れみでもない。


 真剣なものだった。


「そう」


 雷華は立ち上がった。


「なら、なおさらだめね」


 意味がわからない。


「魔法は便利よ。使えるなら使えばいい場面もあるわ」


 意外だった。


 完全否定ではないらしい。


「でも、今の剛理が魔法で水を運んだら、体は水を運べるようにならない」


「魔法も、力」


「そうね。魔法も力」


「なら」


「でも、寝ている時は?」


 私は黙った。


 雷華は続ける。


「意識を失っている時は? 不意に襲われた時は? 魔力が乱れた時は? 魔法を使う前に噛まれた時は?」


 胸の奥がざわついた。


 毒を盛られた時の感覚が蘇る。


 魔力が乱れ、術式が組めなかった。


 あの時、私は何もできなかった。


 頭も魔法もあった。


 だが、体は動かなかった。


 動かない体では、生き残れなかった。


「ここは危険地帯に近いわ」


 雷華の声は穏やかだった。


「夜に魔物が来ることもある。寝ているから待ってください、なんて言ってくれない。だから、まずは寝ていても剛理を守ってくれる体を作るの」


 私は反論しようとした。


 だが、言葉がすぐに出なかった。


 理屈としては通っている。


 悔しいことに。


「魔法が悪いわけじゃないわ。でも、今の剛理にはズルになる」


「ズル……?」


「そう。体が覚える前に楽をするズル」


 ズル。


 魔法をズルと呼ばれた。


 理知帝国なら、魔法を使える者は評価される。


 使えない者が努力不足と言われる。


 だが、この国では違う。


 魔法に頼ることが、体を育てる邪魔になる。


 少なくとも、雷華は本気でそう考えている。


「だから、しばらく魔法は禁止」


 宣告だった。


 私は雷華を睨んだ。


 幼児の顔では迫力などないだろう。


 それでも睨んだ。


「嫌だ」


「嫌でも」


「強くなる」


「だから、体で強くなりなさい」


「遅い」


「遅くないわ」


「遅い!」


 思ったより大きな声が出た。


 雷華が少し驚く。


 私自身も驚いた。


 焦りがあった。


 理知帝国の魔法銃が進む。


 私の死後も、技術は残る。


 あの男が成果を奪った以上、帝国は必ず先へ進む。


 私はこんなところで水桶を抱えている場合ではない。


 早く強くならなければならない。


 早く地位を得なければならない。


 早く。


 早く。


「剛理」


 雷華が私の頭に手を置いた。


 今度は揺れなかった。


 驚くほど優しい手だった。


「急ぐ理由があるのね」


 私は答えなかった。


「でも、急いで壊れたら意味がないわ」


 その言葉は、なぜか胸に刺さった。


 理知帝国では、壊れた者は捨てられた。


 使い物にならない者は下げられ、忘れられ、消えた。


 この母親は、私が壊れる可能性を考えている。


 そのうえで止めている。


 甘い。


 非効率だ。


 だが、悪意ではない。


 だからこそ、余計にやりづらい。


「今日は終わりにしましょう」


「まだできる」


「魔法を使ったから終わり」


「……」


「明日からは、魔法なし。いいわね」


 よくない。


 まったくよくない。


 だが、私は頷くしかなかった。


 逆らえる力がない。


 それがすべてだ。


 結局、私の水汲みは最初に戻った。


 小さな桶。


 重い水。


 揺れる足元。


 魔法なし。


 文明の利器なし。


 筋肉。


 何もかも筋肉だ。


 私は毎日、水を運んだ。


 こぼした。


 転んだ。


 膝を擦りむいた。


 腕が痛くなった。


 肩が震えた。


 そして少しずつ、昨日より運べるようになった。


 それがまた腹立たしかった。


 結果が出るからだ。


 あれだけ馬鹿にした方法で、実際に体は変わっていく。


 桶を持つ腕が少し安定する。


 足が踏ん張る。


 水の揺れに合わせて腰が動く。


 失敗のたびに、体が勝手に覚える。


 理屈では理解できる。


 反復による身体学習。


 負荷適応。


 平衡感覚の獲得。


 帝国にも似た概念はある。


 だが、それを幼児に水桶でやらせる発想はなかった。


 理解はした。


 納得はしていない。


 いや。


 納得したくない。


 そんなある日、剛力羅が水場に現れた。


 彼は私の水汲みをしばらく見ていた。


 私は桶を運び終え、息を切らしながら父を見上げた。


 褒めるのか。


 笑うのか。


 それとも、もっと重い桶を持たせるのか。


 剛力羅は腕を組み、満足そうに頷いた。


「少し筋肉がついたな」


 それしか言えないのか、この男は。


 私が内心で毒づいた直後、剛力羅は水場の横に置いてあった大人用の桶を片手で持った。


 大きい。


 私の桶とは比べものにならない。


 それを水で満たす。


 当然、重い。


 普通の大人なら両手で持つ。


 だが剛力羅は片手で持った。


 そして、もう片方の手でさらに別の桶を持った。


 二つ。


 それでも足取りは変わらない。


 彼は水場から家の方へ歩いた。


 速い。


 水がほとんど揺れない。


 歩幅も姿勢も乱れない。


 ただ歩いているだけなのに、明らかに鍛錬の完成形がそこにあった。


 家の前まで行くと、剛力羅は桶を置いた。


 そして振り返り、笑った。


「剛理。水汲み一つでも、極めればこうなる」


 水汲みを極めるな。


 そう思った。


 だが、同時に見てしまった。


 道具を使うより、速い。


 少なくともこの男に限れば、魔導ポンプを設置し、起動し、片づけるより、自分で汲んで運んだ方が早い。


 馬鹿げている。


 馬鹿げているが、事実だった。


 文明の利器は、筋肉に敗北した。


 少なくとも、この村の水場では。


 私は拳を握った。


 悔しい。


 理屈ではなく、目の前の現実が悔しい。


 剛力羅はそんな私の顔を見て、なぜか嬉しそうに笑った。


「いい顔だ」


 どこがだ。


「悔しいなら、鍛えろ」


 またそれか。


 だが、今度はすぐに否定できなかった。


 この国では、悔しさの出口が一つしかない。


 鍛える。


 実に単純。


 実に野蛮。


 そして、少しだけわかりやすい。


 その夜、私は布団の中で目を開けていた。


 魔法は禁止された。


 道具も使えない。


 水汲みは続く。


 理知帝国で学んだ合理性は、この家では通用しない。


 いや、違う。


 通用しないのではない。


 別の合理性で上書きされている。


 道具が壊れるなら、体を鍛える。


 魔法が途切れるなら、筋肉を鍛える。


 危険地帯で寝ている時に襲われるなら、寝ていても耐える体を作る。


 理屈としてはわかる。


 わかってしまう。


 だから余計に腹が立つ。


「……野蛮人どもめ」


 小さく呟いた。


 誰にも聞こえない声で。


 その言葉に、以前ほどの確信はなかった。


 それもまた、腹立たしかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ