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第2話 赤子、まずい乳を飲む

 心臓の音が遠ざかっていく。


 悔しさだけが、最後まで胸の奥に残っていた。


 疑うべきだった。


 備えるべきだった。


 頭だけでは足りなかった。


 魔法だけでも足りなかった。


 奪われないための力が必要だった。


 そう思ったところで、私の意識は闇に沈んだ。


 死んだ。


 確かに、そう思った。


 だが、次の瞬間――いや、どれだけ時間が経ったのかはわからない。


 沈んだはずの意識が、ゆっくりと浮かび上がってきた。


 生きている?


 まさか。


 あの状態から助かったなど、都合のいい希望的観測に過ぎない。


 あの男が私を生かす理由があるとすれば、それは慈悲ではなく利用だ。


 魔法銃の成果を奪っただけでは飽き足らず、私の頭の中まで使い潰すつもりか。


 死者の知識を引き出す。


 魂を繋ぎ止める。


 意識だけを保存し、研究に利用する。


 そんな噂話を、私はいくつか聞いたことがある。


 あの男の口からも聞いた。


 まさか。


 まさか本当に。


 体に力が入らない。


 指も動かない。


 魔力を巡らせようとしても、どうにもならない。


 体内の感覚が鈍すぎる。


 まるで自分の体ではない。


 死ぬことすら奪うのか。


 成果を奪われ、名を奪われ、最後には意識まで利用される。


 ふざけるな。


 私は道具ではない。


 駒ではない。


 その怒りだけで、どうにか現状を変えようとした。


 だが、体は動かない。


 視界も閉じている。


 何もできない。


 その時、女の声が聞こえた。


「――あら、起きたのね」


 私は目を開けようとした。


 まぶたが重い。


 それでも、どうにか薄く視界を開く。


 ぼやけた世界の中に、人影があった。


 黒髪の女。


 若い。


 顔立ちは整っている。


 声も穏やかだ。


 だが、私が最初に見たのは顔ではなかった。


 腕だ。


 太い、というだけではない。


 密度がおかしい。


 よく鍛えられた、などという言葉では足りない。


 服の上からでもわかるほど、腕に詰まっているものが違う。


 何だ、これは。


 人体として成立しているのか。


「よく寝てたわねえ。お腹が空いた?」


 女は優しく笑った。


 優しい声。


 穏やかな表情。


 こちらを慈しむような目。


 だが、安心などできなかった。


 私は知っている。


 優しい声で毒を注ぐ人間を。


 穏やかな顔で人を殺す人間を。


 ここはどこだ。


 お前は誰だ。


 そう言おうとした。


 だが、口から出たのは言葉ではなかった。


 短く、弱い、意味のない音。


 赤子の泣き声のような――。


 いや。


 待て。


 私は、自分の体の感覚を確認しようとした。


 首が重い。


 手足が小さい。


 指が思うように動かない。


 体全体が異様に軽く、同時に不自由だ。


 私は、赤子になっていた。


 ありえない。


 人格の継続など、ありえない。


 記憶を保ったまま別の体に移るなど、魔法理論としても無茶がある。


 死んだ人間が赤子として目覚めるなど、神話か夢物語の類だ。


 だが、事実として私はここにいる。


 前世の記憶を持ったまま。


 あの男に殺された記憶を抱いたまま。


 赤子の体で。


 女は「待っててね」と言って、少し離れていった。


 その間に、私は必死に考えた。


 なぜこうなったのか。


 どういう仕組みなのか。


 魂か。


 記憶か。


 魔法か。


 偶然か。


 考えてもわからない。


 今の私に検証する手段はない。


 ならば、いったん捨てる。


 重要なのは、私は生きているということだ。


 私の人生に続きが与えられた。


 なら、今度こそ奪われる側には回らない。


 名を忘れられるような立場には戻らない。


 成果だけを切り取られ、用済みになったら捨てられるような駒にはならない。


 力だ。


 絶対的な力。


 そして地位。


 誰にも奪われないだけの力と、奪わせないだけの地位を手に入れる。


 そう決意した瞬間、口元に何かを押し当てられた。


 固い。


 瓶か。


 哺乳瓶。


 なるほど。


 直接乳を飲ませるのではなく、器具を使っている。


 つまり、ここにはそれなりの文明がある。


 完全な未開ではない。


 ならば情報を集めれば――。


 中身が口に入った瞬間、思考が吹き飛んだ。


 まずい。


 何だこれは。


 鉄臭い。


 苦い。


 舌に妙な刺激が残る。


 喉に薬のような感覚が張りつく。


 乳。


 これが乳なのか。


 まさか毒か。


 本気でそう思った。


 しかし、女は平然としている。


 それどころか、私を愛おしげに見ている。


 毒を飲ませる人間の顔にも見えなくはないが、少なくとも殺意は感じない。


 いや、殺意の有無で判断するのは危険だ。


 前世の私は、それで死んだ。


 だが、体は死なない。


 激痛もない。


 ただひたすらにまずい。


 赤子とは、こんなものを飲んで育つのか。


 それとも、この体の味覚がおかしいのか。


 あるいは、この家がおかしいのか。


 飲みたくない。


 心底飲みたくない。


 だが、赤子の体は空腹に正直だった。


 腹が減っている。


 理性で拒否しても、体が欲しがる。


 力を得るには体が必要だ。


 体を育てるには栄養が必要だ。


 栄養を拒めば、私は何もできずに死ぬ。


 そう考えて、私は飲んだ。


 まずい。


 だが飲む。


 苦い。


 だが飲む。


 鉄臭い。


 だが飲む。


 力を得るため。


 体を成長させるため。


 今度こそ、奪われない側に立つため。


 そう自分に言い聞かせなければ、到底飲み続けられない味だった。


 やがて、哺乳瓶の中身が空になる。


 女は嬉しそうに目を細めた。


「今日もよく飲んだわね。偉いわ、剛理」


 ごうり。


 それが、今の私の名か。


 剛理。


 悪くない。


 合理にも音が近い。


 今の状況に合理性があるかどうかは大いに疑問だが、名だけは覚えやすい。


「雷華、飲んだか?」


 別の声が響いた。


 大きい。


 声も大きいが、気配も大きい。


 視界の端に、男が現れた。


 私は思わず息を止めた。


 筋肉が人の形をしている。


 そう表現するしかなかった。


 背が高い。


 肩が広い。


 腕が丸太のようだ。


 いや、丸太より動きそうな分、なお悪い。


 本当に人間なのか。


「ええ。今日も全部飲んだわ」


 女――雷華が答える。


 どうやら、母親の名は雷華らしい。


「そうか。よく飲むのはいいことだ。筋肉になる」


 何を言っているんだ、この男は。


 乳を飲んだ赤子に対して、最初に出る感想が筋肉なのか。


 脳内の言語処理に問題があるのではないか。


「剛理、よく飲んだな。偉いぞ」


 男の大きな手が、私の頭に触れた。


 いや、触れたというより、揺らされた。


 頭が動く。


 首が危ない。


 赤子だぞ。


 私は赤子だぞ。


 頭蓋骨も首も未完成なのだぞ。


「あなた、もう少し優しく」


 雷華がたしなめる。


 男は真面目な声で答えた。


「これでも抑えている」


「もっと抑えて」


「これ以上か?」


「ええ、これ以上」


「……難しいな」


 難しいで済ませるな。


 こちらの命がかかっている。


 私は声にならない抗議を上げた。


 当然、赤子の声にしかならない。


 雷華は苦笑しながら、私を抱き直した。


 母は雷華。


 父らしき男の名は、まだわからない。


 だが、名より先に理解したことがある。


 この家は危険だ。


 少なくとも、赤子の安全基準が理知帝国と違いすぎる。


 それからの日々、私は赤子として過ごした。


 飲む。


 出す。


 寝る。


 泣く。


 屈辱的なほど、それしかできない。


 前世で魔法銃を設計し、帝国の軍事構造を変えようとしていた男が、今は自分の首すら満足に支えられない。


 だが、無駄な時間ではなかった。


 私は耳を使った。


 言葉は理解できる。


 同じ世界である以上、当然と言えば当然だ。


 ならば情報を集める。


 赤子だからと侮られる今こそ、警戒されずに情報を得られる。


 母は雷華。


 父は剛力羅。


 姉は蓮華。


 兄は剛武。


 そして、この国は剛力王国というらしい。


 その名を聞いた時、私は内心で息を止めた。


 剛力王国。


 理知帝国の同盟国。


 ただし、同盟とは名ばかりだ。


 帝国はこの国へ道具や設備を送り、インフラの一部を握り、少しずつ依存を深めようとしていた。


 剛力王国は武力国家として知られている。


 危険地帯と面し、魔物から他国を守る壁のような国。


 帝国の上層部は、彼らを軽く見ていた。


 脳筋の蛮族。


 便利な壁。


 危険地帯に押しつけられた、扱いやすい盾。


 そういう評価だった。


 私も、正直そう見ていた。


 だが、その蛮族国家に私は生まれた。


 しかも、ただの家ではないらしい。


 剛力羅は村の長だ。


 正確には、この村で最も強い男であり、長として扱われているらしい。


 会話から察するに、ここは危険地帯に近い村だ。


 魔物が多く、戦士が多く、村人の生活は戦いと隣り合わせにある。


 悪くない。


 むしろ、好都合だ。


 理知帝国が魔法銃を完成させれば、この国もいずれ標的になる。


 私が死んだ後、開発がどう進んだかはわからない。


 一年後か。


 十年後か。


 あるいは、すでに誰かが私の成果を奪い、量産化へ進めているかもしれない。


 技術は積み重なる。


 世代で磨く肉体とは違う。


 一度概念が生まれれば、後続はそれを踏み台にする。


 魔法銃は、必ず進む。


 ならば私は、この国で力と地位を得なければならない。


 今度こそ、奪われないために。


 そのためには、早くから差をつける必要がある。


 赤子の時期は無力だ。


 だが、私には前世の記憶がある。


 他の赤子が泣いて寝ている間に、私は考えられる。


 魔力も練れるかもしれない。


 剛力王国は身体強化魔法を得意とする国として知られていた。


 外の国から見れば、そういう認識だ。


 ならば、今のうちに身体強化を極める。


 家族には隠れて。


 赤子の体で不自然な成長を見せすぎれば、警戒される可能性がある。


 私は夜、皆が寝静まった頃に、体内の魔力を動かそうとした。


 まずは呼吸。


 次に血流。


 肉体への微細な魔力浸透。


 理論は知っている。


 前世でも身体強化魔法そのものはあった。


 理知帝国では補助技術の一つに過ぎない。


 肉体を鍛えるより、術式で上乗せする方が効率的だ。


 当然だ。


 人間の肉体には限界がある。


 だが、術式には発展性がある。


 私はそう信じていた。


 小さな体内で、魔力がかすかに震える。


 細い。


 弱い。


 だが、使えないほどではない。


 少しずつでいい。


 まずは体に魔力を馴染ませる。


 他の子供が歩き始める頃には、私は圧倒的な差をつけているはずだ。


 そう考えていた、ある日。


 蓮華とは別の子供が、恐る恐る私を覗き込んできた。


 剛武。


 私の兄らしい。


 まだ幼い。


 だが、体つきはすでに普通の子供とは違っている。


 腕が太い。


 首がしっかりしている。


 この国の子供はどうなっているのだ。


「……抱いてもいい?」


 剛武が言った。


 雷華が少し迷った後、慎重に私を渡した。


「力を入れすぎないのよ」


「うん。わかってる」


 わかっていなかった。


 剛武は私を抱いた。


 目が輝いている。


 嬉しそうだった。


 敵意はない。


 少なくとも、そう見えた。


 次の瞬間、体が締めつけられた。


 肋骨に圧力がかかる。


 肺が潰れる。


 骨が軋む。


 私は声にならない悲鳴を上げた。


 殺される。


 そう思った。


 前世の兄が脳裏をよぎる。


 外面だけはよく、裏では平然と足を引っ張る男。


 私が成果を出せば嫌味を言い、評価されれば母を通じて謝罪し、次にはもっと見えにくい嫌がらせをする。


 兄というものは、そういうものだ。


 長子の地位を脅かす者を許さない。


 この剛武も同じか。


 赤子のうちに潰しに来たのか。


「剛武!」


 雷華の声が飛んだ。


 次の瞬間、体が解放された。


 私は泣いた。


 全力で泣いた。


 痛みもあった。


 恐怖もあった。


 だが、それ以上に必要だった。


 泣けば大人が動く。


 赤子の武器はそれしかない。


「ご、ごめ……そんなつもりじゃ……」


 剛武の声が震えていた。


 そんなつもりではない。


 よくある言葉だ。


 前世でも何度も聞いた。


 失敗した者は、悪意がなかったことを盾にする。


 結果としてこちらが死にかけた事実は変わらない。


 それ以降、私は剛武の姿を見るたびに泣いた。


 泣く。


 泣き続ける。


 近づかせない。


 雷華と蓮華は、すぐに私の反応を覚えた。


「剛理は、まだ剛武が怖いのね」


 私は泣いた。


 答えとしては十分だった。


 雷華は剛武を見た。


「しばらく近づくのは我慢しなさい」


「……うん」


 剛武は肩を落としていた。


 だが、私は同情しなかった。


 今の私は弱い。


 弱者が危険を遠ざけるために使える手段を、躊躇する理由はない。


 ただ、この家の人間は妙だった。


 私が剛武を避けても、誰も私を責めない。


 兄なのだから許しなさい、とも言わない。


 家族なのだから怖がるな、とも言わない。


 剛武にだけ我慢させた。


 それは少し、前世とは違っていた。


 前世なら、被害を受けた側にも態度を整えることを求められた。


 母の顔を立てろ。


 兄の立場も考えろ。


 家の外で変な噂になる。


 そう言われた。


 ここでは違う。


 赤子の私が怖がった。


 だから、剛武は近づかない。


 単純だ。


 単純すぎる。


 だが、悪くはない。


 ある夜。


 私は眠ったふりをしながら、雷華と剛力羅の会話を聞いていた。


「この子、よく飲むけれど、少し慎重すぎるわね」


 雷華の声だった。


 私は意識だけを耳へ向けた。


「慎重なのは悪いことではないだろう」


 剛力羅が答える。


「剛力王国では、少し悪いことよ」


 何だ、その理屈は。


 慎重で何が悪い。


 赤子が無謀に動いてどうする。


 私は内心で顔をしかめた。


 だが、雷華の声は真面目だった。


「転んだり、ぶつけたり、痛がったりしながら覚える時期なのに、この子はあまり失敗しないの。泣く時も、何か理由がある時だけ」


 まずい。


 観察されている。


 かなり細かく。


 やはりこの母親は危険だ。


「頭がいいんだろう」


「そうかもしれないわね」


「いいことだ」


「ええ。けれど、頭のよさだけでは筋肉は育たないわ」


 この国は何なのだ。


 赤子の成長評価に筋肉を絡めるな。


 剛力羅が低く笑った。


「なら、歩けるようになったら鍛えればいい」


「そうね」


 その時、私はまだ知らなかった。


 この会話を、もっと深刻に受け止めるべきだったと。


 私はまだ、この国の「鍛える」という言葉を甘く見ていた。


 帝国式の幼児運動。


 軽い体操。


 発育に合わせた訓練。


 その程度だと思っていた。


 そんな常識は、この国にはなかった。


 数か月後。


 私はようやく自分の足で歩けるようになった。


 転ばないよう、慎重に。


 余計な怪我をしないよう、効率的に。


 それを見た剛力羅は満足そうに頷き、こう言った。


「よし。明日から鍛錬だな」


 私は父を見上げた。


 何を言っている。


 私はまだ幼児だ。


 骨格も筋肉も未発達。


 過度な負荷は成長を歪める。


 理知帝国の研究では、幼少期の訓練には明確な制限が――。


「最初は軽くでいいわね」


 雷華が言った。


 よかった。


 やはり母は常識がある。


「水汲みくらいからかしら」


 ない。


 この家には、常識がない。


 私はその場で固まった。


 剛力羅が笑う。


「いいな。水は命だ。水を運べる筋肉は、どこでも役に立つ」


 筋肉。


 また筋肉。


 この国の人間は、脳の代わりに筋繊維でも詰まっているのか。


 私は内心で吐き捨てた。


 野蛮人どもめ。


 だが、私はまだ子供だった。


 しかも、逆らう力のない子供だ。


 だから翌日、私は小さな桶を持たされ、水場まで歩かされることになった。


 この時の私は、まだ知らなかった。


 この水汲みが、私の前世の常識を最初に叩き壊すことになるとは。


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