第27話 王は虫を潰さない
王は、こちらを見ていなかった。
倒れた私のことなど、最初から視界に入っていない。
ただ、目の前で仕留めた魔物を食っている。
それも、私がやってきた魔物食いとはまるで違う。
私は鍛錬のために、少しずつ、苦しみながら食べていた。
体が拒むものを無理やり飲み込み、痛みに耐え、動けなくなる体を蘭に守ってもらいながら続けてきた。
だが、王は違う。
苦しんでいない。
耐えていない。
ただ食べている。
いや、楽しんでいる。
「キタキタキター! これだよこれ!」
王が、血に濡れた心臓を食いながら声を上げた。
魔物を直接食べたというのに、痛みを感じていないのか。
むしろ、喜んでいるのか。
わからない。
理解できない。
私には、王のことが理解できなかった。
この目で見た瞬間、王が化け物だということはわかった。
剛真が化け物と呼ぶのも納得だ。
立っている次元が違う。
魔物食いの鍛錬で、私は剛真には近づいたと思う。
勝てるかどうかは別だ。
それでも、剛真の強さは理解の範囲に入ってきた。
上にいる。
はるか上にいる。
だが、同じ道の先にいる。
そんな感覚はある。
だが、目の前の王は違う。
同じ道の先ではない。
理解の及ばない場所にいる。
王という立場は、ただ後から貼られた札のようなものではないか。
今代の王は化け物。
そう聞いていた。
だが、その言葉ですら足りない。
王は食べ続けている。
胸を裂き、肉を剥ぎ、血を浴びながら魔物を食っていく。
そこに苦痛はない。
躊躇もない。
ただ、うまいものを食っているような顔だった。
いや、本当にうまいのかもしれない。
私には地獄だった魔物の血肉が、王にとっては食事なのだ。
そう考えるだけで、軽く心が折れそうになる。
身体強化の反動が、少しずつ収まってきた。
全身の痛みは残っている。
だが、呼吸は戻ってきた。
声を出すことも、たぶんできる。
今なら、王に伝えるべきことを話せるだろう。
そう思った。
だが、口は動かなかった。
この王の食事を邪魔していいのか。
話しかけた瞬間、この世から消える。
そんな予感がした。
いや、これは予感ではない。
確信だ。
今、あの食事に割り込むという行為そのものが、生き物として間違っている気がした。
私は黙った。
王の食事が終わるまで、体を休めることに集中する。
今は、それが正しい。
ある意味、よかったのかもしれない。
もし王が魔物を倒してすぐ去っていたら、私はこの状態で置き去りにされていた。
そうなれば、他の魔物に襲われて死んでいた可能性が高い。
王が食事をしている間、周囲は静まり返っている。
魔物の気配はある。
だが、近づいてこない。
逃げているのか。
息を潜めているのか。
どちらにせよ、王がここにいる限り、私を襲うものはいない。
危険領域の奥深くで、王のそばだけが安全地帯だった。
理屈がおかしい。
だが、あの王を見れば納得するしかない。
やがて、王の食事が終わった。
巨大な魔物だったはずのものは、見る影もなくなっている。
王は血を拭うでもなく、満足そうに息を吐いた。
そして、ようやくこちらを見た。
「さてと」
軽い声だった。
先ほどまで化け物の心臓を食っていた男とは思えないほど、軽い。
「ここまで来たということは、何か用でもあったか?」
ありがたい。
心底ありがたかった。
王から声をかけてもらわなければ、私は口を開けなかったかもしれない。
私は痛む体を起こし、どうにか姿勢を整えた。
膝はまだ震える。
だが、伝令として来たのだ。
ここで倒れたまま話すわけにはいかない。
「長会議より、伝令に参りました」
「おう」
王は雑に頷いた。
聞く気があるのかないのか、わかりにくい。
だが、視線はこちらへ向いている。
私は息を整え、話し始めた。
理知帝国が動いたこと。
周辺国へ武による侵略を始めていること。
筒のような兵器、魔法銃が使われていると思われること。
そして、剛力王国側の村が攻撃されたこと。
戦士のほとんどいない村が、宣戦布告もなく焼かれたこと。
逃げられた者もいるが、幼子や抵抗する力のない者が巻き込まれたこと。
話しながら、胸の奥が熱くなった。
怒りだ。
だが、怒りで言葉を乱すわけにはいかない。
王へ伝える。
正確に。
必要な情報を落とさず。
それが今の私の役目だ。
魔法銃についても説明した。
魔法を弾に封じ込め、照準を合わせて引き金を引くだけで撃てる兵器。
兵の熟練度に関係なく、一定の武力を量産できること。
理知帝国がそれを使えば、従来とは違う侵略が可能になること。
そして、今後の方針について、王の判断を仰ぐ必要があること。
私は話し終えた。
王は少しだけ考えるような顔をした。
ほんの少しだった。
そして、聞いてきた。
「相手に強い魔物はいるか?」
私は一瞬、言葉に詰まった。
そこか。
そこなのか。
「いえ。魔法銃による武力で攻めてきているので、強い魔物は特にいないかと思います」
「そうか」
王は頷いた。
そして、あっさり言った。
「それなら俺は別にいいや」
私は固まった。
「……よろしいのですか?」
「虫を潰す趣味は俺にはねぇ」
虫。
理知帝国を。
魔法銃を持ち、村を焼いた相手を。
王は虫と言った。
いや、王からすれば、そうなのかもしれない。
私が全身全霊で挑んでも、まるで届かなかった魔物。
その魔物を、王は一撃で殺した。
そんな王にとって、人間の軍勢など虫なのだろう。
「そっちで好きにやってくれていいよ。結果の報告もいらん」
軽い。
あまりにも軽い。
だが、その軽さは無責任とは違った。
自分が出るまでもない。
そう判断しているだけだ。
王は私を見た。
「なんなら、ここまで来た実力はあるんだ。お前が頭を張れ」
「私が、ですか」
「おう」
簡単に言う。
剛力王国の王は、国の一大事を前に、伝令に来た私へ「お前が頭を張れ」と言った。
冗談なのか。
いや、たぶん本気だ。
この国では、できる者がやる。
強い者が前に出る。
ここまで来たのなら、資格はある。
そういうことなのだろう。
「もし、どうしようもない敵でも現れたら潰してやるから、その時にでも声をかけろ」
王は、近所の畑仕事でも頼むような軽さでそう言った。
「じゃあな」
その言葉を残し、王はその場から消えた。
消えた。
本当に、視界から消えた。
走ったのか。
跳んだのか。
踏み込んだのか。
何もわからない。
速すぎる。
あまりにも早い判断。
あまりにも投げっぱなしの答え。
そして、すぐさま視界から消えた王。
私は、続ける言葉を放つことすらできなかった。
これが、剛力王国の王なのか。
しばらく、私はその場に立ち尽くしていた。
王が消えたことで、圧迫感がなくなった。
それと同時に、周囲の静寂が少しずつ崩れていく。
遠くで何かが動く音。
葉が揺れる音。
小さな魔物の気配。
王がいる間、周囲の生き物たちは息を潜めていたのだろう。
当然だ。
そう思った。
あれが近くにいるなら、息をするだけでも危ない。
見つかりたくない。
近づきたくない。
敵意など向けられるはずもない。
生き物として、あの存在には関わってはいけない。
それが本能なのだろう。
あの王であれば、この森でも何の問題もなく生活できる。
寝ていたとしても、誰も殺しに行こうなど考えられない。
むしろ、寝ている王を見つけた魔物の方が逃げるのではないか。
そんな馬鹿な想像が、冗談にならない。
王は、理知帝国に何の脅威も抱いていなさそうだった。
実際に会ったからわかる。
あれを倒せるものなど、どう考えてもない。
魔法銃が、私の想定の数百倍の強さになっていたとしても、あれは無理だ。
剛力王国の後ろに、あの王が控えている。
それだけで、この国が最終的に終わることはないように思えた。
ただし、それは最終的に、だ。
王が虫を潰す気がない以上、その前に死ぬ者は出る。
村は焼かれた。
幼子も巻き込まれた。
王が負けないことと、民が傷つかないことは別だ。
だからこそ、こちらで動く必要がある。
王への伝令は終えた。
返事も得た。
そっちで好きにやれ。
お前が頭を張れ。
どうしようもない敵が出たら呼べ。
雑すぎる。
だが、剛力王国らしい返答でもあった。
後は生きて帰る。
そこからだ。
私は懐から小さな球を取り出した。
伝令完了を知らせるためのものだ。
それを空中へ投げる。
球は高く上がり、乾いた音を響かせた。
甲高く、よく通る音。
危険領域の奥に、伝令完了の合図が鳴る。
私はすぐにその場を離れた。
長居は危険だ。
王がいなくなった以上、ここはただの危険領域の奥深く。
私にとっては十分すぎるほど死地だ。
帰り道でも、強い魔物は出てきた。
だが、行きとは違う。
進めば進むほど、魔物が弱くなっていく。
王のいる奥から、長会議の場へ戻る。
つまり、人の領域へ近づいている。
もちろん、油断はしない。
油断すれば死ぬ。
ただ、さっき王を見た後では、目の前の魔物が少しだけ現実的に見えた。
倒せる。
避けられる。
進める。
私は走り続けた。
途中で何度か魔物を倒し、何度か身体強化を使った。
体は痛む。
先ほどの戦いの負傷も残っている。
だが、足は動く。
帰る。
長会議の場へ。
剛真へ。
王の返事を持ち帰るために。
ある程度、危険領域から戻ったところで、私は再び音の鳴る球を空中へ投げた。
音が響く。
しばらくして、別の方向から同じ音が返ってきた。
別の誰かが、合図に応じたのだ。
よし。
これで、伝令完了の知らせはつながる。
後は任せて、私は長会議の場へ戻ればいい。
ここまでくれば、大事はない。
そう思った。
安心したからだろうか。
今になって、体が震えてきた。
足が震える。
指先が震える。
背中に冷たい汗が流れる。
さっきまでは動かなければ死ぬと思っていた。
だから、震える暇もなかった。
だが今、ようやく体が理解したのだろう。
私は、あの王の前にいた。
魔物を一撃で殺し、心臓を食い、理知帝国を虫と呼んだ存在の前に。
王は、正真正銘の化け物だ。
剛真がそう呼んだ意味を、私はようやく理解した。
いや、理解したと言っていいのかもわからない。
ただ一つだけ、はっきりしたことがある。
あの王がいる限り、剛力王国は滅びない。
だが、王は動かない。
少なくとも、理知帝国を相手に自ら動くつもりはなかった。
王にとっては虫。
ならば、その虫を相手にするのは、王ではなく私たちだ。
私は震える体を押さえ込み、再び走り出した。
やるべきことは決まった。
長会議へ戻る。
王の返事を伝える。
そして、剛力王国として理知帝国にどう向き合うかを決める。
あまりにも雑な王命。
だが、王命は王命だ。
王は言った。
お前が頭を張れ、と。
理知帝国。
魔法銃。
焼かれた村。
王の伝令兵。
すべてが一つにつながっていく。
私はまだ震えている。
怖い。
恐ろしい。
だが、立ち止まるわけにはいかない。
私は危険領域を抜けるため、さらに足を速めた。




