第26話 危険領域の奥にいるもの
危険領域の奥深くへ入った。
空気が違う。
村の近くにある危険地帯とは、同じ名前で呼んでいいのか疑わしいほど違う。
まず、魔物が違った。
いつもなら見ないような魔物ばかりだ。
大きさも、気配も、動きも違う。
こちらを見つけた瞬間に距離を詰めてくるもの。
木々の陰から音もなく飛びかかってくるもの。
地面の下から突然現れるもの。
いちいち相手をしていたら、体力がいくらあっても足りない。
だから、基本的には走り抜ける。
倒すのではなく、避ける。
戦うのではなく、抜ける。
今の私の役目は、王へ言葉を届けることだ。
魔物を倒して強くなることではない。
そう頭ではわかっている。
だが、いくつかの魔物は避けきれなかった。
相手の方が速い。
撒く前に追いつかれる。
そういう相手は、倒すしかない。
「っ!」
飛びかかってきた魔物の爪を受け流し、足元へ踏み込む。
拳を叩き込み、体勢を崩す。
追撃。
倒す。
息を整える暇もなく、また走る。
敵は強い。
だが、まだ何とかなる。
何とかなる程度ではある。
問題は、ここが王のいる場所の途中でしかないことだ。
こんなところでこれなのか。
いや、王はここよりさらに奥で生活している。
そう聞いている。
今代の王。
剛真ですら化け物と呼ぶ存在。
すでに十分すぎるほど強いはずだ。
なら、なぜこんな場所で生活しているのか。
これ以上強くなる必要があるのか。
いや、剛力王国の人間に「これ以上強くなる必要があるのか」と問うこと自体が間違っているのかもしれない。
父も、剛真も、長たちも。
強い者ほど、さらに強くなろうとする。
それがこの国だ。
だが、それにしても限度がある。
王について、私は何も知らない。
知っているのは、剛真ですら化け物と呼ぶ強さ。
それだけだ。
何を好むのか。
何を嫌うのか。
どういう考え方をするのか。
王として、剛力王国のことをどう見ているのか。
何も知らない。
ただひたすらに、化け物のように強い。
それだけが伝わっている。
会えば、少しはわかるのだろうか。
そう考えながら、私はさらに奥へ向かった。
進むほど、周囲の景色が変わっていく。
木々が大きい。
幹が太い。
枝が高すぎる。
花も妙に大きい。
葉一枚が、私の体を隠せるほどある。
自分が小人にでもなったような気分だった。
危険領域の奥。
人の領域ではない場所。
それを、体で理解させられる。
魔物もさらに厄介になった。
身体強化なしでは押し切れない相手まで出てくる。
私は一瞬だけ迷い、すぐに身体強化を巡らせた。
切り札だ。
常時使うべきものではない。
だが、ここで死んでは意味がない。
足に通す。
腕に通す。
目と呼吸を合わせる。
魔物の動きが見えた瞬間、私は踏み込み、叩き伏せた。
倒した。
だが、息が少し乱れる。
身体強化を使えば進める。
だが、それは消耗するということでもある。
もし私が、身体強化込みで長順十に届いた状態で王の伝令兵になっていたら。
下手をすれば、ここで死んでいたかもしれない。
ぞっとした。
剛真が言っていた意味が、今ならわかる。
王の伝令兵は、ただ言葉を運ぶ役ではない。
王の元へたどり着き、言葉を届け、返事を持ち帰る。
その途中で死なないだけの力が必要なのだ。
そして、ここまで来て、ようやく感じた。
気配。
そう呼ぶしかないもの。
肌の上を、冷たいものが走る。
胸の奥が締めつけられる。
遠くにいるはずなのに、こちらの命を握られているような感覚。
絶対に倒せない。
そう確信できる気配だった。
これが王の気配か。
気配などという曖昧なもので本当にわかるのかと、半信半疑だった。
だが、体験してしまえば納得するしかない。
いや、納得させられた。
もしこれが王ではなかったら、私は死ぬ。
それくらいの気配だ。
だが、これ以上の気配は感じない。
なら、あれが王なのだろう。
私は気配のする方向へ走った。
まだ体力は残っている。
身体強化も問題ない。
このまま王に伝え、返事をもらい、帰る。
十分できる。
そう思っていた。
そして、気配のする方向へ進んだ先で、私は一体の魔物を見つけた。
だが。
それは、私が想像していたものとは違っていた。
人の形をしていなかった。
私は、それを視認した瞬間、近くの大木の陰へ身を隠した。
心臓が跳ねる。
息を殺す。
なんだ、あれは。
王ではない。
少なくとも、人ではない。
巨大な体。
異様な圧。
視界に入れただけで、今の私の力を超えているとわかる。
魔物だ。
化け物だ。
今まで見てきた魔物とは格が違う。
まさか。
さっき感じた気配は、これだったのか。
王の気配だと思って追ってきた先にいたのが、この化け物。
つまり私は、王ではなく、こんな大外れを引いたということか。
笑えない。
まったく笑えない。
あれに見つからないように、気配を抑えて離れるしかない。
ゆっくり。
焦るな。
逃げる。
ここで戦う必要はない。
そう思った瞬間、死の予感がした。
考えるより先に体が動いた。
私は大木の陰から飛び出す。
その直後、隠れていた大木がへし折られた。
轟音。
砕ける幹。
飛び散る破片。
見つかっていた。
最初から。
駄目だ。
まともに戦える相手ではない。
逃げないと死ぬ。
だが、ただ背を向けて逃げれば殺される。
速い。
重い。
距離を取る前に潰される。
まずは隙を作る。
逃げるための隙を。
私は限界まで身体強化を巡らせた。
足。
腰。
背中。
肩。
腕。
全身に魔力を叩き込む。
肉体が軋む。
だが、構っていられない。
目の前の化け物に挑んだ。
倒すためではない。
逃げるため。
生き残るため。
そのために、隙を作る。
倒せるなどという楽観は、欠片も湧かなかった。
化け物の腕が振るわれる。
速い。
大きさに似合わない速度。
私は両腕で受けた。
全身が軋む。
地面に足が沈む。
限界まで身体強化を使って、ようやく防げた。
防げただけだ。
押し返せない。
崩せない。
届かない。
続けて来る攻撃を、避ける。
受ける。
逸らす。
地面を蹴る。
回り込む。
拳を叩き込む。
手応えがない。
皮膚なのか、甲殻なのか、筋肉なのかもわからない。
とにかく硬い。
こちらの攻撃が、相手に届いている気がしない。
化け物の目がこちらを向いた。
背筋が凍る。
次の一撃が来る。
私は体を捻り、ぎりぎりで避けた。
頬を風が裂く。
避けただけで皮膚が切れた。
何だ、これは。
こんなものが、危険領域の奥にはいるのか。
こんなものの近くで、王は生活しているのか。
いや、考えるな。
考えている暇はない。
隙を作る。
逃げる。
生きて王へ伝える。
それだけだ。
だが、身体強化にも限界がある。
無理やり引き上げた力は、長く続かない。
体が熱い。
骨が軋む。
呼吸が乱れる。
視界の端が揺れる。
化け物の攻撃が来た。
受ける。
いや、受けきれない。
腕が弾かれる。
体勢が崩れる。
次の一撃。
避けられなかった。
衝撃。
世界が傾いた。
地面に叩きつけられる。
息が抜ける。
動けない。
全身が痛い。
身体強化がほどけていく。
まずい。
死ぬ。
そう思った。
魔法銃。
理知帝国。
村を焼かれた報告。
王への伝令。
蘭。
蘭のお腹の子。
全部が頭の中をよぎる。
まさか、理知帝国を相手にする前に、魔物にやられることになるとは。
何をしている。
私は何のためにここまで地獄を食ってきた。
蘭。
すまん。
そう、人生の終わりに絶望しかけた時だった。
「やられたなら、俺が貰っていいな!」
声がした。
次の瞬間、今まで私を圧倒していた魔物の頭が吹き飛んだ。
何が起きたのか、理解できなかった。
音。
衝撃。
血。
巨大な体が揺れる。
頭を失った魔物が崩れ落ちる。
そのそばに、一人の男がいた。
いや、男と言っていいのか。
人の形はしている。
だが、放っている気配が人ではない。
剛真よりも、ずっと濃い。
鋼華よりも、剛覇よりも、父よりも。
比較するのが馬鹿らしいほど違う。
その瞬間、私は理解した。
違った。
さっき感じた、絶対に倒せないと確信させられた気配。
あれは、目の前の魔物のものではない。
この男のものだった。
私を襲った魔物も強かった。
今の私では倒せないほどの化け物だった。
だが、格が違う。
魔物を化け物だと思った私の認識ごと、目の前の男は踏み潰していた。
男は、こちらが倒れていることなど気にしていない。
倒れた魔物へ近づき、素手で胸を裂いた。
そして、心臓を取り出す。
まだ脈打っているように見えるそれを、そのまま口へ運んだ。
むしゃぶりつく。
あまりにも突然のことだった。
あまりにも異常な光景だった。
私は、先ほどまで全身を襲っていた痛みすら一瞬忘れていた。
目の前で、化け物を一撃で殺した男が、魔物の心臓を食っている。
血を滴らせながら。
当然のように。
まるで、ただの食事のように。
危険領域の奥深くで生活している今代の王。
剛真が化け物と呼んだ男。
おそらく、いや、間違いなく。
私は、王にたどり着いたのだ。




