第10話 兄は、筋肉だけではなかった
蓮華が泣くほど慌てた魔物騒動の後、鍛錬は少し変わった。
楽になったわけではない。
そこはまったく変わらない。
変わったのは、安全性の部分だ。
蓮華は前より慎重になった。
弱らせた魔物をいきなり私にぶつけるようなことはなくなったし、重りをつける時も、何度も私の顔を見るようになった。
危ないと思えば止める。
それは前から同じだ。
ただ、その「危ない」の基準が、少しだけ私寄りになった。
剛力王国では、それだけでもかなり大きい。
そんな日々が続いた。
鍛錬は一つではなかった。
水を運ぶ。
畑を手で耕す。
重りをつけて走る。
川で泳ぐ。
石を割る。
岩を押す。
弱らせた魔物の攻撃を、逃げずに受ける。
他にも、名前をつけるのも馬鹿らしいような鍛錬が山ほどあった。
どれも、私の年齢の子供にやらせることではない。
少なくとも、理知帝国なら止められる。
いや、止められるどころか、親の資質を疑われるだろう。
だが、剛力王国では違う。
水を運べば足腰が鍛えられる。
土を掘れば指と腕が鍛えられる。
川で泳げば全身が鍛えられる。
石を割れば拳が鍛えられる。
岩を押せば体幹が鍛えられる。
魔物の攻撃を受ければ、恐怖と衝撃に慣れる。
全部、鍛錬になる。
それが、この国の理屈だった。
狂っている。
だが、私は着実に強くなっていた。
水桶を持っても、前ほどふらつかない。
土を削っても、指がすぐには負けない。
走っても、息が切れるまでが少し遠くなった。
転んでも、起き上がるのが早くなった。
魔物の血肉を食べ、体を酷使し、眠り、また動く。
その繰り返しで、私の体は普通の子供ではありえない速度で作り替えられていた。
当然、楽にはならない。
体が慣れれば、鍛錬は少し濃くなる。
鍛錬に慣れれば、飯も少しまずくなる。
飯に慣れれば、また体を追い込まれる。
一向に楽にならない。
むしろ、慣れれば慣れるほど逃げ道がなくなる。
それでも、成果はあった。
今なら、父が身体強化魔法をズルだと言った理由も少しわかる。
身体強化魔法そのものが悪いわけではない。
むしろ、有用だ。
使いこなせば、自分の最大値をさらに押し上げられる。
だが、体が育つ前に魔法で補ってばかりいれば、体そのものは強くならない。
足りない分を魔法で埋める。
そればかりしていれば、足りない部分はいつまでも足りないままだ。
そういう意味では、確かにズルだった。
いや、やはり身体強化魔法自体はズルではない。
使い方の問題だ。
そこは間違えない。
ただ、それでも今の私は、魔法より先に肉体を作らなければならなかった。
体が育つと、ようやく私は戦い方にも目を向けられるようになった。
どれだけ考えても、体が動かなければ意味がない。
だが、体だけ鍛えても、私には足りない。
私は本能で動けない。
相手を見る。
動きを読む。
どうするか判断する。
そして、その間に殴られる。
父が言った通り、考えること自体は悪くない。
問題は、考えている間に体が止まることだった。
そこで、私は戦い方を教わることになった。
最初は蓮華がそのまま相手をしてくれるのだと思った。
だが、違った。
戦い方を教える役は、剛武になった。
「剛武が?」
私は思わず聞き返した。
剛武は私の兄だ。
赤子の頃、私を抱き潰しかけた相手でもある。
今ではその恐怖はだいぶ薄れている。
近づく時は声をかける。
触れる時は確認する。
私が嫌がればすぐ離れる。
剛武は、あの約束をずっと守っていた。
食事の時には、自分の失敗談もよく話した。
卵を何個割ったとか。
蓮華に投げられたとか。
父に「考えすぎだ」と言われたのに、考えなかったらもっと負けたとか。
前世の兄とは、まるで違う。
この兄は、私を落とすために近づいているわけではない。
ただ、不器用に距離を測っているだけだった。
それでも、戦いを教えるとなると少し意外だった。
蓮華の方が強いと思っていたからだ。
すると雷華は、当然のように言った。
「蓮華は力で押せる子なの」
「力で」
「ええ。あの子は体が強いわ。同年代の女の子の中では随一ね。だから、多少雑でも押し切れる」
それはわかる。
蓮華は姉としては優しいが、戦い方はかなり力任せだ。
弱らせた魔物を私にぶつけた時も、彼女の基準では安全だったのだろう。
つまり、蓮華自身ならどうにでもできる相手だった。
だから、私にもぎりぎりいけると判断してしまった。
その基準が、私には合わなかった。
「剛武は違うの?」
「剛武は、押し切れない相手にどう勝つかを考える子よ」
その説明で、少し納得した。
剛武は長男だ。
体も十分に強い。
だが、父や蓮華のように圧倒的な肉体だけで全てを押し潰す側ではないらしい。
この国の基準では、上の中。
強い。
だが、上には上がいる。
だから剛武は、肉体だけでは届かない相手に勝つために、武にも力を入れている。
そこは、私に近い。
近いと言うと、少し失礼かもしれない。
今の私と剛武では、そもそも肉体の水準が違いすぎる。
だが、本能だけで押し切るのではなく、考えて戦う。
その方向性は、私に合っていた。
剛武の鍛錬は、父や蓮華のものとは違っていた。
父は見せる。
蓮華は付き合ってくれる。
剛武は、考え方を教える。
「考えてから動くと遅い。でも、何も考えないで動けって言われても、剛理には難しいだろ」
剛武はそう言った。
その通りだった。
私は相手を見る。
動きを読む。
どうすればいいかを考える。
そして、その頃にはもう殴られている。
「だから、考えなくても動ける形を先に体へ入れる」
剛武は、同じ動きを何度も繰り返させた。
殴り方。
避け方。
足の出し方。
倒れた後の起き上がり方。
内容は単調だった。
だが、私には合っていた。
理屈を理解してから、体へ落とす。
本能だけで戦うより、ずっと納得できる。
この国の人間は、大体が本能で戦っている節がある。
相手になる魔物も、基本的には本能で動く。
強い方が勝つ。
速い方が当てる。
硬い方が耐える。
単純な図式だ。
だが、肉体でも本能でも勝てない場合はどうするのか。
剛武は、そこを考えていた。
「考えないんじゃない。考える場所を先に済ませておくんだ」
その言葉は、かなりしっくり来た。
戦いの最中に考えるから遅い。
なら、戦う前に考えておく。
何度も同じ動きを繰り返し、状況に対する反応を体に入れる。
そうすれば、戦いの最中に考える量を減らせる。
完全に本能で戦えるわけではない。
だが、判断を短縮できる。
私に必要だったのは、それだった。
剛武との稽古で、私は少しずつ戦えるようになった。
少なくとも、弱い魔物相手なら、前のように一撃で吹き飛ばされるだけではなくなった。
考える前に体が動く。
ほんの少しだが、そういう瞬間も出てきた。
ただし、剛武は釘を刺した。
「これは、本当に強い相手には通じないぞ」
「なぜ」
「強い相手は、こっちが体に入れた形ごと潰してくるから」
身も蓋もない。
「なら意味ない?」
「意味はある。弱い相手に確実に勝てる。少し上の相手に食らいつける。格上相手に時間を稼げる。それだけで十分だろ」
確かに、十分だった。
いきなり父や蓮華のような怪物になる必要はない。
まずは、戦えるようになること。
考えている間に倒される状態から抜けること。
そのためには、剛武の教え方はかなり役に立った。
兄を見る目も変わった。
最初は、怖かった。
赤子の私を潰しかけた兄。
前世の兄と重なって見えた相手。
だが、今の剛武に対して、その恐怖はほとんど残っていない。
もちろん、油断はしない。
剛力王国の人間は、善意でも力加減を間違える。
それはもう嫌というほど知っている。
だが、剛武は少なくとも、私を傷つけたくないと思っている。
それはわかる。
彼は、前世の兄とは似ても似つかない。
そして、何より教え方が思ったよりうまかった。
それが少し癪だった。
そんな日々がまた続いた。
魔物の血肉を食べる。
体を鍛える。
剛武に動きを教わる。
蓮華に生活の中で鍛えられる。
雷華に体調を見られる。
父に「いい根性だ」と言われる。
相変わらず飯はまずい。
鍛錬はきつい。
体は痛い。
だが、少しずつ前へ進んでいる感覚はあった。
だから、私は思ってしまった。
今なら、前よりはやれるのではないか。
剛武は毎日付き合えるわけではない。
蓮華は力が強すぎる。
父は論外だ。
なら、まず誰を相手にするべきか。
同年代の子供たち。
そう考えて、すぐに否定した。
私は以前、同年代にまとめて負けた。
そのうえで、年下の女の子にも負けた。
なら、まずはそこからだ。
過去に戦った中で、一番弱いはずの相手。
年下で、小柄で、まだ本来なら混ざる年齢でもなかった女の子。
その子に勝てないようでは、同年代の相手になるわけがない。
そう思って、私は広場へ向かった。
広場では、子供たちがいつものように殴り合って遊んでいた。
走る。
ぶつかる。
転がる。
笑う。
また立ち上がる。
その少し外側に、一人でぽつんと立っている少女がいた。
蘭だった。
以前、私を簡単に転がした年下の女の子。
彼女は混ざらず、ただ見ていた。
細い。
小柄。
無表情。
やはり、ぱっと見ただけなら強そうには見えない。
私は近づいた。
「蘭」
彼女がこちらを見る。
無表情。
何を考えているのか、やはりわからない。
「相手をしてくれ」
蘭は少しだけ首を傾げた。
「いいよ」
そして、私は負けた。
一度ではない。
二度でもない。
何度も転がされた。
以前より、私は強くなっている。
体も動くようになっている。
剛武に教わった形もある。
身体強化魔法は使っていないが、それでも昔の私とは違う。
なのに、届かない。
小柄で、年下で、私が最初に越えるべきだと思った相手は、まだ私よりずっと強かった。
私は成長している。
だが、蘭も同じ場所で止まっていたわけではなかった。
「もう一回」
私が言うと、蘭は頷いた。
「いいよ」
また転がされた。
それで十分だった。
今日勝てないことはわかった。
だが、勝てない理由も少し見えた。
蘭は力任せではない。
私が踏み込む前に、もう崩す位置にいる。
腕を出す頃には、足元を消されている。
見えているのに、間に合わない。
腹立たしい。
だが、悪くない。
目の前に、最初に越えるべき相手がいる。
私は土を払いながら立ち上がった。
「また来る」
蘭は無表情のまま、少しだけ頷いた。
「うん」
この日から、私は剛武が相手をできない時、蘭に挑むようになった。
剛武は考え方を教えてくれる。
蘭は、現実を教えてくる。
私が少し強くなった程度では、まだ届かない。
その事実を、彼女は無表情で突きつけてくる。
悔しい。
だが、わかりやすい。
前世の敵は、もっと陰湿だった。
正面から立ってくれる相手ではなかった。
蘭はそこにいる。
私が挑めば、相手をしてくれる。
そして、容赦なく転がしてくる。
なら、まずは蘭を越える。
同年代に挑むのは、その後だ。
私はそう決めた。




