10話 伝説の遊女
再び座敷に戻った直里を待っていたのは、以前と変わらぬ、しかしどこか試すような竜舌の眼差しだった。
「ほう。気絶して逃げ出すかと思ったが、意外と肝が据わっているじゃないか。……それとも、ただの物好きかい?」
「……続きを聞かせてください。あんたが抱えている、その歴史を」
直里が畳に手をついて頭を下げると、竜舌はふっと短く笑い、新しい煙草に火をつけた。紫煙が二人の間にカーテンを作る。
「いいだろう。なら、さっきの暗い話の口直しに、この店にいた一人の女の『伝説』でも聞かせてやろう。……名は、木蘭」
その名を聞いた瞬間、直里の脳裏に、玄関で自分を迎えたあの「やり手婆」の姿がなぜか過った。だが、竜舌の語る木蘭は、その想像を絶するほどに美しく、残酷な存在だった。
「彼女はね、この月下美人の最高位にいた妖女さ。男を狂わせ、金を絞り取り、最後にはその魂まで食らうと言われていた。だが、そんな彼女にも『身請け』という名の甘い夢を見せた男がいたんだよ」
竜舌の声が、一段と低くなる。
「だがね、夢は覚めるから夢なのさ。その男は彼女を捨てた。身請けの約束は反故にされ、木蘭は絶望のどん底へ突き落とされた。……巷の噂じゃあ、彼女はそのショックで狂い、挙句の果てに梅毒を病んで、鼻も削げ落ちるほど無残な姿で地に堕ちた……なんて言われているよ」
直里は、0章で描かれたあの光景――真稜に裏切られた木蘭の慟哭――を知る由もない。ただ、目の前で語られる凄惨な結末に息を呑んだ。
「地に、堕ちた……? 今は、どうなっているんですか」
「さあね。死んだという説もあれば、実はまだこの街のどこかで、男たちへの呪いを金に換えて生き永らえているという説もある。……だが、真実なんてものはね、誰にも分かりゃしない。それこそが吉原の『伝説』というやつさ」
竜舌は、あえて玄関の方へ視線を向けることはしなかった。
しかし、彼女の言葉の端々には、親友であり弟子でもあった木蘭への、複雑な愛憎が滲んでいた。
「伝説はね、綺麗であればあるほど、裏にはヘドロのような嘘が詰まっている。あんたの祖父さんも、その伝説の一端を担っているかもしれないよ?」
「祖父が……?」
直里の背筋に、再び嫌な汗が流れた。
受験のために来たはずのこの場所で、自分の一族が隠してきた「血の歴史」が、竜舌の口からポツリポツリと溢れ出していく。
「さて、受験生。木蘭が梅毒で死んだか、あるいは生きているか……。そんなことより、あんたにはもっと考えなきゃいけない『数字』があるんじゃないのかい?」
竜舌が指差したのは、直里がさっき放り出した赤本ではなく、彼女が手元で弄んでいた「楼閣小判」だった。




