95 エーデルの苦悩②
狩りの日はいつも、父上は昼過ぎまで帰ってこない。その日もエーデルは1人、城の図書室に籠っていた。昨日の夜、父からおすすめされた本手に取り、柔らかな春の日差しのあたる窓辺に陣取る。
少し前にシュレインの部屋も覗いたが、まだまだ家庭教師と勉強中の様だ。この本を読み終える頃には、きっと終わっているだろうから、一緒に昼食でも食べよう。そう考えながら、本を半分ほど読み進めた時だった。
突然、外から騒々しい声が聞こえてきた。エーデルは本に栞を挟んで、窓枠に体重をかける。
「なんだろう。」
錆びたネジ式の鍵をねじり、古びた窓を開ける。少し肌寒いくらいの風が部屋を抜け、カーテンをたなびかせた。
「何があったのです!」
「急いで、侍医を呼んできます。」
老練なる侍従たちが慌てる様子に、何かただ事ではないことが起こったことはエーデルにも分かった。身を乗り出して眺めてみれば、父上の美しい白馬が玄関前に留置されていた。
「こんな時間に、父上がもう帰ってきている?」
その事実と、先ほどの混乱の声に嫌な予感がよぎった。エーデルは慌てて図書室を飛び出し、玄関ホールまでの長い廊下をひた走る。だが、さすがに最後まで走り切ることはできず、壁に手を付いて、息を整えた。
すると、わき腹を押さえながらゆっくりと歩みを進めるエーデルの瞳の先で、母上が階段から駆け下りて、玄関へ向かっていく様子が見えた。
「ウィリアム!」
やっぱり、父上が。エーデルの脚は震え、その場に立ちすくんでいると、左から右へ担架が運ばれていく。そこに乗せられた父は腹部を押さえて、額には汗をかいていた。まだ寒い外から来たにしては、尋常ではない汗の量だ。
その父上は、一瞬だけこちらに目線を送ったように見えた。母であるマシュベリーもその視線で息子がいることに気が付いたのか、エーデルに駆け寄ってくる。だが、それよりも早く、血を見たエーデルはショックも相まって、その場に崩れ落ちた。
「僕が昨日、早く寝なさいと言う父にせがんで、本を最後まで読んでもらったのがいけなかったのかな?」
泣きじゃくるエーデルを母は優しく抱きとめる。
「そうね、あなたの父上もお疲れの時はあるわ。無茶を言ってはいけないわね。」
「ごめんなさい。」
夫の危機に一番狼狽えているのは妻のはずなのに、その気持ちを押し殺して息子をなだめる。何てできた母君だろうか。控えていた者たちは誰もがその彼女の心の美しさに心酔しただろう。
だが、エーデルは、母の笑みが目の前にいる自分を通り越して、どこか遠くを見つめているように感じていた。
◇
「ちょっと疲れが出てしまったみたいでな。エーデルには心配かけたな。」
「うん。」
今日は呼ばれないと思っていたのに、今晩も父上の部屋に呼び出された。てっきり昨日の失態を咎められるものだとばかり思いこんでいたエーデルは拍子抜けする。
いつもと同じ、ティーセットを乗せたお盆ををローテーブルに置こうとするも、そこは少々乱雑になっていた。
「父上、これ、片づけていい?」
エーデルは枕元にあった薬包紙を指さす。
「ああ、捨てておいてくれ。」
眼鏡を取ろうと横を向いた父はこちらを見ていない。薬包紙は綺麗で珍しい薄いから、紙飛行機にしたらよく飛ぶかな?あとでシュレインにも見せてあげよう、そう思ったエーデルはポケットに1枚突っ込んだ。
「今日はこの本を一緒に読もうか。」
「うん。でも、父上、今日はお休みにしなくて大丈夫?しんどいんじゃない?」
「そんなことはないよ。」
だが、その日を境に、父はだんだんと弱っていく。最後にはご飯も食べられなくなった。それでも、2人の時間は、彼が言葉を発することができなくなるまで続いた。
いつの日か父上に聞いたことがあった。
「父上、少しは休んだ方がいいのでは?僕は悲しいですが、この時間、週に何回かでもいいし。」
「駄目なんだ、エーデル。急がねば。」
父は白濁した眼で、遠くを見つめている。
「私はエーデルを皇子として育てる責務があるのだ。どんな手を打たれても、あいつの思惑になんか乗ってやるものか。」
今なら思う、もしかしてあいつとは母上のことかもしれないと。父上はエーデルを皇位継承者として扱っていたが、母からはそういった期待の眼差しを受けたことがないように感じていた。
暗闇の中でそんな母の顔が浮かぶ。それは優し気な表情から、口を歪め、薄汚いものを見るかのように表情が変わっていく。
「エーデル、あなたが皇帝を殺したのよ。」
◇ ◇ ◇
背中がじっとりとべたつく。ここはどこだ。
一瞬混乱するものの、幾分か粗末なシーツの手触りで、ここがどこかわかり安心する。
「エーデル様、うなされていたけれど大丈夫ですか?」
顔を黒いチュールで覆った女性が、エーデルの枕元に立つ。
「ひっ……。」
エーデルは葬列の場での母の姿を思い出し、仰け反ってベッドフレームに頭をぶつける。
「いっ!」
「あ、そうか。ごめんなさい、エーデル様。」
彼女はチュールを捲って、その顔を露わにする。母よりも若い彼女の顔を見て、エーデルはほっと胸を撫でおろす。
「ほら、お水ですよ。」
彼女は枕元に置かれた水差しからグラスに水を手際よく注ぎ、差し出してくる。エーデルはそれを受け取ると、こう呟いた。
「ありがとう、アンナ。」




