94 エーデルの苦悩①
「エーデル、父の部屋に遊びに来てはくれまいか?」
それは父が亡くなる2年前の冬、小さなシュレインだけが帝王学を学んでいる、それを知った初めての夜だった。
「はい。ですが、父上、シュレインと一緒にでしょうか。」
「いいや、エーデルお前ひとりだ。」
疑問に思いながらも父の命令に従う。最初は父上が、狩りのできない冬の暇を潰そうとしているのだと思った。だが、雪が解けて、草木が青々と芽吹いても、星だけが瞬くひととき、2人だけのベッドでの語り合いは変わることがなかった。
そんな日々も1年も経とうとしていた。その日もいつもと同じように父の部屋を訪れていたエーデルは、語らいが終わった後、お盆を抱えて廊下を進んでいた。だが、うっかりハーブティーの入った小瓶を部屋に置き忘れたことに気が付き、来た道をとぼとぼと戻る。
「もう父上、眠ってしまわれたかな。」
エーデルは弱弱し気な声で呟く。
だが、廊下の角を曲がると、部屋の扉からは光が漏れ出していた。
「よかった。」
父上を起こさずに済みそうだ。エーデルは安心してその扉に駆け寄ろうとする。だが、そこには先客がいたようで、数メートル先からでもその声ははっきりと聞こえてきた。
「まさかエーデルを後継者にするつもり!?」
「落ち着け、マシュベリー。」
「落ち着いてなんてられないわ。私に隠れて帝王学を教え込んでいたなんて。」
お母様の声だ!エーデルは喜んで扉に手を掛けようとした。
「私は落胤を抱き込むためだけにあの子を――」
らくいん?なんだろう。知らない単語に、エーデルは首を傾げる。
「お前はそんな風にエーデルを見ていたのか。なら、お前と離縁すれば、シュレインは庶子になるぞ。」
「私を脅すの?」
エーデルにはわからない単語が飛び交う。だが、大きくなっていく2人の声に、父と母が喧嘩をしているのではないかと勘ずいた。普段温和な両親の姿しか知らないエーデルは、怖気づいて扉の前で立ちすくんでしまう。
「脅しではない。お前も気づいているだろう。」
「何がよ。」
「アレはもう5歳。さすがに誰の目から見ても明らかだ。」
5歳、ならシュレインのことを指しているのだろうか。
「エーデルと2歳しか変わらんのだぞ。文字も読めぬ、書けぬ。それならと読誦をさせてみても聖典の一節すら覚えられぬ。異様だとは気がつかぬのか。」
「人間得意不得意はありますもの。もう少し長い目で見てやれませんか。」
「くどいな。すでに上位貴族の間では噂になっているぞ。」
まだ、社交の場に出たことのないエーデルは、弟と同世代の子どもを見かけることが少なく、シュレインの言動や行動をおかしいと思ったことはなかった。だが、振り返ってみれば、2年前の自分よりも彼はより幼いような気はする。
「シュレインは私たちの大事な息子でしょう!?」
「エーデルもそうだろう。そんなことで、お前がシュレインにこだわるのなら、アンドルーやスヴェンナに申し訳が立たない。」
父は溜息交じりに母に言い返す。
アンドルー叔父さんはともかく、すべんなさんは誰だろう。それに、叔父さんにも何か関係があるのだろうか。確かに、彼にも皇位継承権はあるけれど。
「いいわ。この話は終わりにしましょう。」
その声と共に、内側から扉が開き、薄暗い廊下にいたエーデルは眩しいほどの光を浴びる。
「あら、ここにいたの。エーデル。」
母であるマシュベリーは、床に置かれたお盆、1つのポット、2つのカップ、それに蜂蜜に目線を移動させてから、エーデルの瞳を直視する。笑っているのに怒っている、なんだかそんな不思議な顔だったことは今でも覚えている。
そうして年が明けた春だった、父上が慣れた狩場で怪我をして帰宅したのは。




