93 食前酒
「聞いたところによると臥せっておられたとお伺いしましたが、お元気そうで何より。」
エルドレンは食前酒を傾けながら、彼女に人の良さそうな笑顔を向ける。
「あら、アンドルーから聞いたのかしら。」
マシュベリーはこてんと首を傾げる。母とそう年齢も変わらないと聞いているのに、その動作はどこか少女らしい振る舞いをしている。
「ええ。このような場には出席されないかと思っておりました。」
「シュレインはまだ幼いでしょう?母である私が支えてあげなければなりませんもの。」
「なるほど、聡明な母上に支えられて皇帝陛下も安心ですね。」
エルドレンは、彼女の上ずる声に重ねるように彼女らを称える。
「そうなの!」
シュレインは屈託のない笑顔を見せる。手にはパンくずをたくさんつけたままで、マシュベリーがその手を拭う。お腹がすいたとごねた彼には先に前菜とパンがサーブされていたのだ。
エルドレンは講和を目的にシェレンディア皇帝代理として訪問しているが、この晩餐会は非公式のものである。皇族同士は気軽に飲みかわし、引き連れてきた軍幹部や事務方のトップたちが別室で詳細を議論する程度だ。
調印式には後見人として、皇太后のマシュベリーとともに幼きシュレインが出席するのが望ましいから、彼女がこの場にはせ参じることには異論はないが、幼き2人を城に数年間置き去りにして、引きこもった母の行動としては違和感が残る。
「シュレイン皇帝の即位はめでたいですが、もう1人のご子息の件、か弱き皇太后様にはさぞお辛かったのでは?」
エルドレンは、彼女が書類上の息子の死に涙を流すいたいけな母を演じるか、実の息子の即位に水を差されたように感じて激昂するか、注目していたが、その反応はどちらでもなかった。
「エーデルは罪の子。仕方がないのです。」
彼女はまるで事実を述べるかのように淡々と語る。黒のチュールが彼女の表情を見せないのも相まって、不気味にさえ思えてしまう。
「彼は、偉大なるその父を自らの手で屠ったのです。」
◇ ◇ ◇
「エーデル、あなたは咎人。皇帝になれる器ではないの。」
そう母に告げられた時、私は意味が分からなかった。皇位継承順位から言えば父の後継者は自分だろう。ただ、皇帝になりたいと思ったこともないし、シュレインと違って皇帝にふさわしい教育を公的には受けていなかったので、その器がないと指摘されても否定できない。だが、咎人とはどういうことだろう。
父を弔う葬列の中、母はエーデルに傘を閉じさせ、相合傘のように2人は黒い婦人傘の下で佇む。遠くで雷鳴が聞こえるほどの大雨が降り注ぎ、隣り合う他の参列者たちの声は聞こえない。
こんな大雨を連れて来るなんて、父はやはり偉大だったのだ。葬列の時に流れる雨粒の強さは臣民の涙の数に比例すると言われているから、いかに皇帝であった父が愛されていたかがわかる。それに比べて、エーデル自身には、知略も、剛胆さも備わっていないように感じていた。
「どうして父上が亡くなったか、エーデルはわかるかしら?」
母は悩む私の顔をじっと見ては、優しく頬を包みこんできた。
「えっと、狩りの途中で落馬されてから、だんだんと弱っておいででした。それが原因ではないのですか。」
「いいえ。」
母はゆっくりと首を振った。雷鳴と共に背後から光が差し、その顔は陰に覆われる。
「父上と夜中にお茶をする際、あなたは内緒で蜂蜜を入れていましたね。」
「あっ、ごめんなさい。」
黙って調理場から拝借していたのだが、母にはバレていたようだ。褒められたことではないが、時折シュレインとともに甘いものを求めてキッチンに潜入しては盗み食いをしていたので、罪の意識が薄れていたのだ。
「そうね、調理場から物を取るのは確かに良くないわね。でも、問題はそこではないの。」
「はい。」
落胆したエーデルはしおらしくなる。確かに盗人は皇帝にはふさわしくない。母は強調した言い回しをして、子である自分を躾けようとしたのだな、そうエーデルは思った。
だが、マシュベリーの目的は、そうではなかった。
「その蜂蜜には毒があったのよ。」
「ど……く……?」
予想もし得ない言葉に、エーデルは固まってしまう。
「そう、あなたが父上のことを思って入れた、蜂蜜には毒があったの。そのせいで皇帝は亡くなったのよ。」
彼女は息子に向けるとは思えない表情で、エーデルを見つめる。先ほどまで頬から伝わっていた母の暖かな手は、まるで爪を立てたかのように幼いエーデルの心を抉ってきた。
初めて木登りをして地上に飛び降りようとした時のように、賓客に出す予定だったお菓子をシュレインと2人で勝手に食べてしまった時のように、心臓が張り裂けそうなほど自分の中にあるその鼓動が聞こえてくる。
まさか、私が。私のせいで?ぬかるんだ地面をエーデルは見つめる。
「で、ですが、母上。私も父と同じようにハーブティーには蜂蜜を入れて飲んでおりました。それに、同じポットで注いだものです。」
「そう、エーデルは正しいわ。」
母の言葉にエーデルは胸を撫でおろす。ほら、やっぱり、関係がないじゃないか。そう思い顔を上げると、額がぶつかりそうになるほどまで母の顔が近づいていた。
「でもね、健康な人間には無害なものでも、人によっては有害となるものがあるの。」
「えっ。」
「あなたの父上は内臓を損傷されて、侍医に薬を処方されていたの。遠い国から取り寄せた、珍しいものをね。」
確かに、エーデルが父上の部屋に来て、ハーブティーをローテーブルの横に置いた際、そこには薬包紙がいくつか散乱していた記憶がある。
「その顔は、思い当たることがありそうね。」
まるで犯人を追い詰めるかのようにマシュベリーは瞬き一つしない。
「うっ……父上……ごめんなさい……許して……。」
エーデルの声はほとんど雨音にかき消されていった。
「そう、だから、あなたは咎人。皇帝にはなれない。」
マシュベリーは震える彼の肩を叩く。それは、第3者が見れば、父の死に嘆き悲しむ皇子とその母が慰める美しき様相だろう。その母の口元が、いびつに歪んでさえいなければ。




