88 黒を纏う者
「あら、キリアン。」
そう呼びかけた女性は、ほとんど日差しを浴びていないことがわかる白い細腕をレースの袖から覗かせる。彼女は薄桃色の髪を垂らし、地面に擦れるほど長い裾を上手く捌いて、歩みを進める。
アンドルー皇帝、今となっては前皇帝になろうが、その陣営が城からほとんど去った今、スッツデール帝国の城はより一層静寂に包まれていた。
「お体はよろしいのですか。」
乾いた部屋にはキリアンの声が響く。
「あらやだ。報告を本気にしていたの。」
彼女は艶のない漆黒の扇を口元に当て、クスクスと笑う。断りもなしに長椅子に腰かけては、ひとの部下をさも自分の侍従のように顎で使い、茶を用意させている。
「どういうご用事で。」
キリアンは彼女に貸しがあるので強く出られない。ただ、天女のような美しい笑みを見たところで、警戒心を解くことはできない。
「あらやだ、キリアン。私とあなたの仲じゃない。ほら、あなたの妹からのお手紙を持ってきたの。」
彼女はテーブルに少し膨らんだ封筒を置く。便箋の入った封筒にしては違和感のある音が響いた。
「いつもは間に何人も挟まれるのに、どういう風の吹き回しですか。」
秘密裏の活動が漏れることを恐れる彼女は、徹底した連絡方法を取っていた。大胆な彼女の登場に、キリアンは手の震えを押さえられず、握っていたペン先と机が意図せず音を立てる。
「あら、もうアンドルーはいないもの。私の城を堂々と闊歩して何が悪いのかしら。」
「それは、そうでしたね。」
嫌な予感がする。キリアンは席を立ち、テーブルに向かう。
「あなたには感謝しているわ。」
彼女は用意されたコーヒーに手を付け、菓子に手を伸ばす。侍従のようにこき使われている部下は、胸元に黒光りする勲章を垂らしている。
なるほど。
「褒美は何が欲しい?」
彼女はいたずらが上手くいった子どものように、顎に両手を当て、足をプラプラとさせている。
「まだ、アンドルーは生きていますが、よろしいので?」
キリアンが椅子に浅く腰かけながら、彼女に問う。だが、当の本人は眉をピクリと上げるだけで、余裕の笑みを崩さない。
「上手くいってもここに来るだけでしょ。その時はエーデルに役に立ってもらうだけよ。」
彼女は瞼を伏せて、何でもないことのようにそう呟く。
「そうですか。」
キリアンは黒い水面を見つめ、カップを口元に当てる。彼女はこのコーヒー豆はここから遠く離れた南の地で採れた珍しい豆なのよと蘊蓄を垂れているが、キリアンは無視して、カップを傾けていく。彼女の視線は、キリアンの喉元をじっと見つめているように見えた。
途端に部屋の置時計がゴーン、ゴーンと時刻を知らせる。キリアンにはその音がだんだんと遠のいていくように感じられ、喉は焼かれたように熱くなる。キリアンは空気を無理やり取り込もうと口を開けるも、それはヒュー、ヒューと空振りする。
絨毯に刺繍された花柄が大きくなっていくと思ったのは勘違いで、自分の顔が地面に近づいていたことに気づいたのは、その頬を摩擦で熱くしてからだった。
上等な絨毯は薄暗い色をしているから一目にはわかりにくいが、零れ落ちたコーヒーが真っ黒なシミを作る。
「ごめんね。あなたは知りすぎたのよ。」
彼女は席を立ち、近づくと、扇でキリアンの顎を上げる。
「ちっとも面白くなかったわ。褒美をちらつかせて、喜んだ後、処分の時に見られる苦渋に染まった顔が良いのに。興ざめだわ。」
彼女は封筒を無理やり破ると、それをキリアンの顔めがけて投げ落とす。勢いよく地面に落ちたそれからは、小さなソーセージのようなものがころころと転がる。
それは病的な色をした指先だった。切り落とされたそれは、だいぶ時間が経過しているようで、浅黒くなっている。軍人であるキリアンにとっては戦地でも何度か見たそれに、驚きはなかった。だが、この場面で彼女が持ってくるとすれば――。
「そう、気づいたのね?」
彼女は見慣れた指輪を絨毯の上にそっと置く。それは、病気で結婚も望めないと嘆いていた妹を慰めるために贈った、月桂樹を模した指輪だった。
それはただの出店で買ったものだと言うのに、妹はベッドの上で一等喜んでいた。あれからだいぶ時間も経ったが、今だ脳裏にはその笑顔が浮かんでくる。
キリアンの絶望で歪んだ顔を見て、彼女は満足げに頷くと、もうここには用はないと扉に向かっていく。
「妹さんと天国で仲良くね。」
その言葉と共に、重い木が軋む音がする。
「ママ―!」
その時、遠くから幼い子供特有の甲高い声が廊下に響く。まだ完全に締まり切っていない扉から、彼女たちのやり取りが続いている。
「あら、シュレイン。向こうで遊びましょうね。」




