84 再会
「エル、何をしたの?」
ランプを落とした天幕には漏れ出した月明りしか頼りになるものはなく、全てがはっきり見える訳ではない。だが、目に見える範囲だけでも真っ赤な鮮血を浴びたとわかるほど、エルドレンは血濡れたままの姿で現れた。
シェレンディアはスッツデール帝国へ開戦したものの、今は小康状態と言ったところだ。だから、彼は戦闘に身を投じてこんな姿になったわけではなく、この天幕が並ぶどこかで、これだけの血を浴びたと言うことになる。
じゃあ誰の血か。思い浮かぶ人物は1人しかおらず、メアリーの背中には嫌な汗が伝う。
「メアリーは知らなくていいよ。」
温度のない青い瞳が暗闇で光り、そのサファイアはメアリーの瞳に万華鏡のように映る。エルドレンの姿がぼやけ、知らず知らずのうちに涙をためていることに気づかされる。
メアリーは血が怖いのか、目の前の彼に対する恐怖なのか、震えが止まらない。いや、違う。どこかで選択を失敗してしまったことに、これから起こるであろうことに怯えているのだ。クラウゲンにくる直前、ステラテアが予言した言葉が頭に響く。
『スッツデール帝国の皇帝を助けないと、世界大戦は止められないわよ。』
急場しのぎにメアリーがどこかに嫁ぐ選択肢が切られてしまった今、アンドルーの命は最後の蜘蛛の糸なのだ。
エルドレンはひたひたと近寄ってくる。彼は指先でメアリーの涙を拭うが、ぬるっとした嫌な感触が頬の表皮を撫でつけた。
「アンドルーのために涙を流すのか。」
メアリーは頬に一筋の赤を残したまま、その喉はひゅっと音を立てる。当たってほしくない推測が当たってしまったのか。過去を巻き戻すことも、結果を変えることもできなくても、ただ、聞いてほしいことがある。
「違うの。シェレンディアを、あなたを巻き込みたくなかったの。」
メアリーはスッツデール帝国でステラテアが放った言葉を、今度は自分の口で繰り返す。
「スッツデール帝国は世界を巻き込んで大戦を起こすつもりなの!」
「ああ、やっぱり。」
やっぱり?エルドレンは驚く様子もなく、汗を拭うようにハンカチで血をふき取っていく。
「メアリーを助けるって言ったよね。」
彼は懐から金色の小さな鍵を取り出し、メアリーの手首にあった錠を外し、布をほどく。露わになった手首は少し赤くなっている。
「それに、メアリーになら巻き込まれていいよ。」
エルドレンは愛おし気にその手首の跡をつーっと撫でる。
「さあ、胡坐を掻いて遠巻きに見ている奴らを目に物見せてやろうか。」
彼はそう言うと、さながら舞踏会へエスコートするようにメアリーの手を引く。
「どこへ行くつもりなの?」
メアリーが天幕の外に繋がれた馬に乗せられた後、エルドレンもそれに飛び乗ってくる。
「まずは、感動の再会に立ち会おうか。」
彼は後ろからメアリーを包み込むように、そう囁く。エルドレンが手綱を握り、馬の腹を蹴ると、夜空の下を駆け抜けていった。
◇
「ルイ!」
目の前の女性は子狐のファーを首元に巻き、白いドレスの裾はゆったりとしたドレープを描く。信じられないが、10年以上前に引き裂かれた彼女が駆け寄ってくるように見えた。
ああ、知らないうちに自分は死んでしまったのだろうか。最後に美しい幻を見せてくれるなんて、こんな自分でも神も許してくれたのか。アンドルーは凪いだ心地で、彼女を抱きとめようと両手を広げる。
「ああ、スヴェンナ。」
それが現実になれば良いと、口の端から願望の混じった声が漏れる。夢でも見ているかのようだ。だが、手に触れた彼女の体は柔らかく、温かであることが、現実だと示していた。
「ずっと会いたかったわ。」
そこには前フィストラル王妃、スヴェンナ・フィストラルがいた。最も、今はただのスヴェンナだろうが。
自分と別れてから苦労をしたのか、まだ30にもならないと言うのに、彼女の髪には白髪が混ざっていた。だが、アンドルーにとってはそれすら愛おしい。
「私は死んだのか?」
「何を冗談言っているのよ、首はまだつながったままよ。」
スヴェンナはくすくすと笑う。アンドルーはつられて笑顔を見せるが、何かに気が付き、顔を曇らせる。
「スヴェンナ。すまない、本当にすまない。エーデルが……。」
「ええ、知っているわ。」
スヴェンナは悲しそうに睫毛を伏せ、2人は抱き合って涙を流す。強い風が吹いたように、天幕入り口の大布が揺れる音がする。
「仕方のないことよ。」
彼女は日焼けをしらない肌で、アンドルーの金の髪を撫でつける。
「水を差して済まない。その件なんだが、おそらくそのエーデルとやらは生きているぞ。」
エルドレンは天幕だけでなく、2人の会話にも遠慮なく割って入る。後ろをついてくるメアリーは申し訳なさそうに、ドレスの裾を掴んで入り口を跨ぐ。
「ええと……。」
突然現れた2人の客にスヴェンナは困惑の色を隠せない。アンドルーは彼女から体を離して、深緑の瞳をこちらに向ける。
「シェレンディア帝国エルドレン第1皇子、それと彼の婚約者だ。」
アンドルーは一時の狂乱が嘘のように、まるで穏やかな水面のように笑みを浮かべた。




