82 赤い首筋
鈴のような音が耳元でして、メアリーは夢からふっと目覚めた。ベッドフレームの軋む音が聞こえる。
「ん、ここは……。」
低い天井が目に入るが、自室の天蓋でもなければ、客間でもない。ああ、これは天幕か。じめっとした土の匂いがかすかにして、エルドレン率いる軍の前線基地だと気づく。
「そっか、昨日到着したんだった。」
天井から漏れだした光の量から、とっくに昼も過ぎていることがわかる。昨日の移動の後、眠ることなくアンドルー皇帝の話しを聞いたり、格闘したりとどっと疲れていたらしい。
カチャリ。
筋肉痛のせいか上手く起き上がれず、メアリーは腹筋を使ってなんとか体を起こす。途端に、頭を覗かせた澄んだ青い瞳と目が合う。
「ああ、メアリー。おはよう。」
エルドレンはお盆を携えて奥から現れる。そうか、早朝に倒れてから、彼がここまで運んできてくれたのか。
「あ、エル様。ごめんなさい。」
14歳になったメアリーは彼よりも小柄ではあるものの、意識を失った状態では流石に重かっただろう。メアリーは伺うように、上目遣いでエルドレンの顔を見た。その彼は微笑みを浮かべている。
「どれのこと?」
いや、笑顔なのに目は全く笑っていない。エルドレンはスッツデール帝国に囚われたメアリーの元まで来てくれたから、今でも私のことを助けてくれようとしていると思い込んでいた。
だが、昨日の船着き場でのエルドレンの態度を考えれば、ここに来た自分のことを内心怒っているか、迷惑がっているのかもしれない。
「婚約を無視したのに、都合よくエル様を頼ってごめんなさい。」
エルドレンはその言葉を無視して、メアリーの横に腰かけた。カップから蜂蜜入りの紅茶のような、ほのかな甘い匂いが鼻腔をくすぐる。
彼はベッドの脇机にそのお盆を置いた。だが、丁寧な彼には珍しく音を立て、ミルクが入った小瓶から中身が溢れて盆にシミを作る。
「あの、エル様。もしかして、怒っている?」
カチャリ。
メアリーはエルドレンに手を伸ばそうとするが、布団の中にある腕が強く引っ張られる。先ほどは寝起きでぼんやりとしてわからなかったが、体を起こしにくかったのも両腕が自由ではないからだ。
布団を跳ねのけ、露わになった肩、二の腕、肘、と視線を動かしていくと、手首に何かが巻き付けられている。
「ああ、気が付いた?」
「えっと、これは?」
困惑するメアリーをよそに、エルドレンは淡々としている。メアリーの手首は布で巻かれ、チェーンによってベッドフレームに括り付けられている。布で巻かれているのは、せめて跡がつきにくいようにという温情だろうか。
「メアリーは『助けて』って言っていたもんね。」
成立しない会話にメアリーは眉を下げる。目の前にあるサファイアのような瞳は、こちらを見つめているはずなのに、焦点が合わない。
「これはあの皇帝がやったの。」
ひんやりとした彼の指先が首元に触れる。そこには翡翠の紐のせいでできた、赤い跡がまだ残っているだろう。勝手にアンドルーに会ったことを怒っているのだろうか。
「ねえ、エル。お願い、聞いて。」
メアリーが悲痛な思いで彼を呼び捨てにすると、エルドレンはぴくりと肩を跳ねさせる。
「ああ、ごめん、メアリー。」
震えるようなエルドレンの声がする。メアリーはそんな彼を抱きしめたかったが、塞がった両手ではどうしようもない。エルドレンの胸に飛びこむようにしてもたれ込む。
彼の鼓動が聞こえる。とくとくと波打つ音だ。エルドレンを見上げれば、その瞼はゆっくりと開かれる。
「もう無理しなくていい。今度は私がメアリーを助けるから。」
そう言うと、彼はメアリーの肩に手を置き、撫でるようにして腕を掴む。そして、そのサファイアの瞳を細めて、メアリーをベッドフレームに寄りかからせる。
「エル?」
「待ってて。」
エルドレンは口の端を上げ、何かを悟ったように穏やかになる。それから、彼は天幕を出るまでひと言も話さなかった。




